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暗い気持ちのままカップを満たし、元の位置に下がろうとする僕を主はおもむろに引き寄せた。腰にまとわりついてきた腕に困惑しつつ一時停止する。
「ソーマ。そうじゃない……俺はできるだけ長く、この子に話しかけていたいんだ。俺から話しかけられる、せっかくのきっかけを奪うつもりか?」
「……しぃ、」
「それに、ほら。聞いたか? こうして困った時だけ俺を呼んでくれるんだ、すっごく可愛いだろ? 性能が良いとそうそう困ってくれなくなる」
主は自慢げに言うけれど、悪戯に引き寄せるばかりで指示をくれない。次の行動を起こせない僕は情けなくも「しぃ、」と呼び続けるしかなかった。
僕が呼ぶ度に、主は満足そうな笑みを浮かべ、ソーマはひどく呆れた様子でガシガシと頭を掻いた。
「シー……わかったって。困ってるのが分かるなら離してやれよ。まったく……。お前の考えることは俺にゃサッパリ理解できねーな」
ソーマは大げさに肩を竦めてみせた。しかしその言葉とは裏腹に、どこか納得がいったような表情をしている。その横からまた「どうして」という声がした。
「どうして不便さを好まれるのですか? 効率が悪く、時間を浪費するだけに思われます」
シー様は暇で仕方ないのですか? とまで言われ、主は苦笑まじりに、うーんと小さく唸る。
「リィを愛してるから、だよ。他に理由はない。俺はこの子じゃなきゃ駄目なんだ。他のことなら迷わず利便性をとるさ」
「理解……しかねます。どうして――」
「はいはい。終わりだ、Rー9。これは参考にしなくていい。人間の中でもシーはかなり特殊なヤツなんだから。お前が分からなくても当然だ」
なおも食い下がろうとするRー9にソーマからストップがかかり、主は安堵の溜息を漏らして僕をようやく解放してくれた。
なのに、僕は主の隣で直立したまま。身体は次の行動を決めかねている。それはこころも同じだった。絶望の淵で差し出された手はあまりに温かく……そして僕を深く抱きとめてくれた。ありのままのポンコツでしかない僕を。
こころは何かで溢れていた。嬉しいでは足らず、愛しいでも足りない。該当する知識がどこにもない。そうか人間とは……このような時に涙を流すのか。自分では処理しきれない想いがしずくになって零れ落ち、ぽたりぽたりと暖かい熱を周りに分け与える。人同士ならば言葉はなくとも確かに伝わる想いがある。
残念ながら、僕に泣くことはできないけれど。
「――――おはよう」
主の紅茶へと伸びた手が止まる。
「――――おはよう」
ソーマとRー9。四つの眸が僕を映す。
僕が発声できる単語はロクに使えないものばかりで数も少ない。そして、そのほとんどが挨拶で占められている。だからこれしかないのだ。
この家に迎えられ、初めて主と会ったとき。毎朝一番に会ったとき。主が優しい微笑みとともにくれる言葉。僕にとってはいつだって幸せを感じる、嬉しさと愛しさの詰まった愛の言葉だ。
きっとこの先も自分の性能の低さをもどかしく感じることはあるだろう。けれど、もう二度とそれを恥じることはない。
「おはよう」
それはあまりに不自然なタイミングで、その場には不似合いすぎる言葉だったろう。
どうして、は聞こえてこない。
旧式ゆえの不具合だと、皆が認識しているはずだ。
そうだね、これはバグなんだ。
――――僕はバグに蝕まれている。
*2.どうして了
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