一節 そう、それも四月のこと
俺がその奇妙な巡り合わせに気づいたのは、中学三年生の時だったと思う。今はもう違う店が入っているが、近くのビルの上層階に古本屋が入っていた。
当時の俺は丁度、ちょっと読書というものに凝っていた頃で、純文学の名著からお気に入りのラノベの新刊まで、ジャンルを問わず週に3冊くらい読んでいた。まぁちょっとしたマイブームみたいなもので、よく学校の帰りに寄っては棚を物色していたのだった。
そう。俺には友達がいなかった。それは遡って考えると小学校の頃の記憶に至るまで、妹と二人でふざけ合っていた記憶しかない。きっと宇宙の法則か何かで、そう決まっている。決まっていたはずだ。
とにかく、俺は友達なんてものに興味はなかった。少なくともそう言い聞かせて一匹狼を気取っていた。そういう時期だったのだ。そのため、部活にも所属しておらず、放課後がいつも都合よく空いていたのもそのためだ。
その日も、俺はそこへ向かっていた。ずっと読んでいたシリーズを読み終わって久しい。短編集やら漫画のノベライズやら、目につく物を片っ端から読み漁って、新しくお気に入りの作家なりシリーズものなりを探している時で、毎日の如く通い詰めていたのを覚えている。
四月の下旬、だったと思う。
乗っていたエレベーターが、突然、止まった。ただ、止まったという表現が正しい。大きな音がしたわけでもなく、止まり方も穏やかなものだった。しばらく待ってみてもドアが開かない所から見て、何かおかしいと判断できるくらいだ。
エレベーターって頻繁に止まるものだったか、なんて、俺はぼんやりと考えていた。例えば、スキー場のリフトやゴンドラなんかは、割と頻繁に止まる。それこそ、1時間に何回止まるか分からないレベルで止まる。
それは乗り込むのに手間取る場合があるからであって、乗り降りの度に動きの止まるエレベーターには適用できないか。エレベーターが途中階以外で止まるのは……
緊急事態、か?
俺はぼんやりと考える事をやめて、やむなく思考を本屋の書棚から今いるこの箱の中へと引き戻す。俺は今、何か行動を取る必要はあるか。
そこに至って、俺はこの狭苦しい箱の中に、俺以外にも乗客がいる事に気付く。そしてまた、それがこっちに視線をやっていることにも。
女だ。
その時点で俺の思考の8割が完全に止まった。女、それも中学か高校の制服を着ている。手合いとしては最悪の部類である。
今すぐ脱出しないと駄目だ。死ぬ。緊張で死ぬ。激しく緊張すれば息が荒くなり、冷や汗をかく。女の子に面と向かってくさいなんて言われたら俺は死ぬ。恥ずかしさと情けなさで憤死する。
……待て、今も彼女は俺を見ている。最悪の事態は既に起こり、終わっている可能性すらある。
俺は動けなくなった。もはや何も考えてなどいられるものか。俺はこのままここで死ぬ。
「……あの、どうも……」
「えっ、はぁ……はいっ、はい」
何で二回返事した? 一回で良いだろキョドってるのバレバレじゃないか。
だが、その次の一言が俺に光明をもたらした。
「こんな時にですけど……お久しぶり、です……」
「あっはい……はい?」
「えっ」
あれ? 知り合い?
ぼっちの生態の一つとして、数少ない身内に対しては態度が大きくなるというものがある。この時も、相手が知り合いであるらしい事が、俺にとりあえずの落ち着きをもたらした。
聞けば半年程前、新宿駅で道を訊いたが、お互い迷っていたので一緒に歩き回った事がある、らしい。
俺にしてみれば、なぜそんな些細な事を半年も覚えていたのか不思議に思うばかりだが、彼女いわく、他にも幾度か俺に、お世話になったことがある、らしい。何だそれは。俺にお世話した覚えなどないぞ。
という訳で、彼女との初対面については、俺には話す事ができない。覚えていない事について、語る事はできないからだ。
とにかく、俺が彼女の存在を認識したのはこの時が初めてとなる訳だが、彼女の方は俺との馴れ初めを説明する間中、旅の思い出を知人に語って聞かせる風だったくらいで、ひょっとすると彼女の方では俺とはそれなりに親しいつもりだったのかもしれないと思うと、何だか申し訳なく思ったものだ。
「本当にすみません。人の顔を覚えるのが、どうも苦手で……」
「いえ、こういうのは一期一会と言いますから。忘れてしまうくらいが良いのです」
まだ幼いとも言えるような子がおかしな事を言うものだと、そこに来てようやく俺は彼女の顔をまともに見た。
女の中高生、ではない。女子中学生だ。年上ではない、と思う。黒くてさらさらした髪は長いとも、短いとも、俺には分からない。ただ、一般的な基準から見て、可愛い顔をしているとは思う。強いて挙げるなら目に少し特徴があるくらいか、と、慌てて目を逸らす。あまりにじっと見すぎた。
気恥ずかしさに視線をキョロキョロさせながら、しかしこの中空の小部屋は嫌気が差す程に狭い。あぁ、こういうのが青春って奴なのか、なんて、今にして思えばてんで的外れな事を考えていた俺だったが、ある文字列が目に止まった。
エレベーターの小部屋の中には、目に止まるようなものは少ない。当たり前だ。通常そこには、数十秒と留まらないのだから、余計なものはない。金属製のドアの上に、階数を示すランプ、脇にはボタンが並び、他にはせいぜい鏡があるかもしれない程度だ。
そのボタンの群れの一番下、プラスチックのカバーに覆われた赤いボタン。カバーにはこれまた赤い文字が躍る。
《非常時以外は押さないで下さい》
俺はそこで、今自分達が宙吊りの鉄の箱の中に閉じ込められている事を思い出す。何が一期一会だ。今できる事をするべきではなかったのか。
俺が指摘するまでもなく、彼女の方も、俺の視線を追ってそれを見つけたようだ。見る間に顔が朱に染まっていく。
こんな大人びた子でも、恥ずかしいと思うことがあるのか、と。自分がサディストだと思うようになったのは、思えばこの時が最初かもしれない。そのくらい破壊力があった。
とはいえここは、彼女に恥ずかしい思いをさせてしまった自分に責任がある、と妙に男気のある事を考えて、彼女に目で確認を取ってから、俺はカバーを開けそのボタンを、押した。
ーー思っていたより遥かに事務的な対応だった。
原因はシステムのトラブルで、今機能を再起動して動かないか試している所だ。うまく行けばすぐに動くし、駄目ならいつまでかかるか分からない、との事だった。
形式的に、そちらに具合の悪い方はいらっしゃいませんか、と訊かれたが、反射的に大丈夫だと答えてしまった。通話が切られ再び二人きりの空間になると、彼女に尋ねる。
「えっと、どこか具合が悪かったりしませんか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「トイレとかも、大丈夫ですか?」
「……え?」
彼女の顔には一瞬警戒の色が浮かんだが、他意がないと分かるとすぐに元の無表情に戻った。
俺は本当に、こういう事には疎いのだ……信じてほしい。
「……漏れそう」
「えっ」
「……冗談です」
なんで言った方が恥ずかしそうにしているんだ……
「……本当に?」
「冗談です!」
「大丈夫ですよ。やばくなったらいつでも言ってもらって」
「だから……っ! ……もういいです」
むくれてしまった。何というか、初めて女の子とこういう会話をした気がする。表現し難いが、すごく、思わず浮かれそうなほど楽しい。
俺がそんな内なる何かの目覚めと、これまた謎の充実感を感じているのをよそに、それからしばらくしてエレベーターは止まった時と同じく、また音もなく動き出した。そして俺たちはやけにあっさりと、あの無機質な鉄の小部屋から解放されたのだった。
結局、彼女とは連絡先すら交換しなかった。お互い何か気まずくて、短く別れの挨拶をすると、そそくさとそれぞれの目的地へと足を向ける。
一期一会、か。
可愛い子と話せて得をしたな、と考える一方で、僅かばかりの寂しさを感じたのは言うまでもない。 が、結果的に言えば、心配は無用だったと言える。俺たちはまた、あまり長く待つ事もなく、思わぬ形で再会を果たす事になる。
ただそのとき俺が考えていたのは、彼女が向かったのは階段と逆方向で、そっちにはトイレがあるという事だった。




