ヒロシ君が言うなら……
放課後の屋上という、なんともラブコメチックな場所に俺はいる。
聞こえてくるのは吹奏楽部の心地よい音楽と野球部の爽快な金属音など、青春をオーケストラにしたらこんな感じだろうな、というようなミュージック。これを録音してCDにし、売れば作業用サントラとして一儲けできるんじゃないか? なんてバカなことをふと思っていた。
「なぁ、そんなに落ち込むなよエリカ。まだ初日じゃないか」
転落防止のために屋上に囲まれている金網を手で掴みながらグランドを見下ろす俺は、体育すわりを決め込んでいかにも落ち込んでいますよーっという小動物に声をかけた。
「……はい……」
俺の問いかけに反応はしたものの、その声には生気すら感じられなかった。
俺とエリカがあたかも付き合ってるんじゃね? と思わせて互いに異性を近づけない作戦は成功といえば成功をおさめた。だって、今日一日誰からも話しかけられなければクラス内の俺とエリカの席付近に近づく人類はいなかったのだから。だが、それが逆に今のこのエリカの落ち込みの原因となっていた。
簡単に言うと、俺とエリカが作り出した『あたかも付き合ってるんじゃね?』シールドはたぶん周りから『おまえらこのラブラブ結界に足を踏み入れたら首飛ばすぞ!』シールドになっていたらしく、それを証明するのは三限目の授業終わりにエリカの足元にピンポン玉が転がり込んできた。転がしたのは教室の後ろで遊んでいた仲良し男女五、六人ぐらいの連中。エリカは親切に拾おうとしたところ「あー! いいよいいよ! 私が拾うから! ごめんね二人の空間に! 本当にごめん!」と大声で駆け寄ってきたピンクの髪留めをした女子。エリカはびくついて、伸ばした手を瞬時にひっこめた。いや、一言多いというか、なにか嫌味のように聞こえたこの言葉にエリカはひどくショックを受けてしまった。その出来事がクラス内に悪く蔓延したせいで俺とエリカは世界地図で言うところのオーストラリア大陸のように孤立した。
ごめんね二人の空間に……そうか、あまりにも目立ちすぎてしまったのか。このシールドは相手に気を遣わせる以上に、人類を拒むほどの威力をもっていたらしい。戦術的敗北だったようだ。
「今日の作戦を言い出したのは俺だ。本当にごめん」
「いえ……ヒロシ君は私のために必死に考えてくれたことだから……悪くないです」
言葉ではそう言っているが相変わらずエリカは体操座りのままで小さな体をさらに小さくして本当に小動物になっていた。こんな時だけど、かわいいなこいつ。
守るつもりがこんな結果になってしまって、なぜか妙に腹が立つ。それは今日エリカの親切を裏切るように嫌味なようなこと言ったピンクの髪留めの女子にではない。(そういえば昨日、俺の体調を気にしてくれたのもあの子だったな。まさか俺が昨日大きな声で拒否したから悪に堕ちてしまったのか?)己、自分自身に無性に腹が立っていた。
だからこそ、俺はホームルームが終わって「帰りましょう……ヒロシ君」と言ったエリカを屋上に連れ出した。
「エリカ、今から次のステップにいくぞ」
「えっ?」
「特殊体質を体から追い出す。地獄の特訓のスタートだ」
途端にエリカの表情が鳩が豆鉄砲をくらったように「ふへっ?」になる。
「俺たちの特殊体質の原因はわからない。わからないのにお互い病院で診察を受けなかった、いや、受けられなかった。それでいてそれを隠すような行動をとり続けて、今日、成功という名の失敗を経験した。だからもう克服するしかない」
屋上を見下ろしていた俺は金網から「ガシャン!」と音を響かせながら手を放すとエリカを見つめた。
「特殊体質が無くなればリベンジも必然的に成功するだろ? どうかな、やってみないか?」
「……はぐっ! ……うう……ヒロシ君が言うなら……でも……やっぱり恥ずかしいです……私」
だろうな。エリカの特殊体質は俺の勃起よりもリスクが大きいはずだ。勃起はただ単に息子が急成長を遂げるだけだから対処法としては身を屈めるか体育座り、思いっきり猫背(ほとんど一緒の意味だけど)をすればいい。
しかしオナラは別格だ。まず音がする時点でアウト。周りの人間は否が応でもその濁音に気づくだろう。
しかし、それを考慮したうえで俺は屋上に来たんだ。
「大丈夫。ここなら俺とエリカ以外は誰もいないし、来ない。環境音の聞こえが激しい屋上なら音も聞こえなければ……その……オナラだって空に近いからすぐに大気圏を超えて宇宙までいくさ」
意味がわからん。だけどこの屋上に誰も来ないのは本当だ。なぜならここは普段閉鎖されていて鍵がかかっているからで、その鍵を俺は事前に教師に借りた。
『エリカちゃんの人見知りを克服するために屋上で特訓ぞ……特訓するのね? ふむ……いいわ、貸してあげる。だけどね、性的行為をした瞬間にあなたの大事な子孫繁栄アイテムを二度と機能できないようにするから気を付けるぞ……気をつけなさいよ』
某声優を目指す教師は快く鍵を俺に貸してくれた。その子孫繁栄アイテムの暴走をなんとかするためだ、と言いたくてウズウズしたがさすがにそれは言えなかったので心の中に閉まっておいた。
「ヒロシ君がそこまで言うなら……私……がんばってみます」
宇宙までオナラがいくという表現が効いたのか、エリカはぴょんっと立ち上がりお尻のコンクリートの汚れを手ではらった。
「その意気だ! よし、じゃあまずお互いに一歩ずつ近づいて自分の体の反応を見てみよう。己を知るのがこの特訓の第一歩だ」
「はい」
エリカと俺の現在の距離は約十メートル。
そしてゆっくりと俺とエリカはお互いに近づき始める。
一歩……まだ大丈夫。
二歩……まだ余裕。
三歩……ムク。
四歩……ムクムク。
五歩……あっ……ヤバい。
「ヒロシ君……お腹が……動いて……ブ! ブルッルルルルルッルルルルルル!」
「俺も……距離で言うと一緒ぐらいだな……異性が半径一メートルぐらいになると症状が出る」
勃起を隠すために超猫背になる俺。そしてお腹を押さえてその場にうずくまるエリカ。そんな彼女を見ていると……なんだろう……その光景に無性にエロスを感じてしまう俺の性癖は。特殊体質とか無しでも息子が元気になりそうだ。俺は変態なのかと軽く苦悩して、首を激しく横に振った。
「や、やっぱり……恥ずかしいです……ヒロシ君……いくら特訓でも……お、オナラを人に聞かれるのは……」
「そうだな。音が出るんだもんな……音か……音、そうだ! 無音にしたらいいじゃないかエリカ!」
「無音?」
「そう。すかしっ屁にするんだ。あれなら音は出ないし、幸いにもエリカのオナラは匂いが無臭で気づかれない。すかしっ屁できるか?」
ここで忘れてはいけないのが、この会話はエリカの特殊体質を克服するものであるということだ。それを忘れてしまうと、目の前にお腹を押さえてうずくまる女子高生に対して「すかしっ屁できますか?」などという変態丸出しのリクエストをしている俺は、精神的にやられてしましそうになるからだ。マニアック専門の風俗店にでも来店した気持ちになって鬱になりそうになる……。
「ヒロシ君が言うなら……や、やってみます……」
語尾の最初に「ヒロシ君が言うなら」を入れられると嬉しい反面ひわいなことを無理矢理させているみたいで非常に罪悪感があるからやめてほしいのだが。
「よし、じゃあもう一度離れて少しずつ近づいてみようか」
「はい」
お互いにさっきのスタート地点に戻って、一歩ずつ歩み寄る。
一歩……まだ大丈夫。
二歩……まだ余裕。
三歩……ムク。
四歩……ムクムク。
五歩……勃起した! エリカは?
「音を出さずに……だ、だめ……ブっ! ブルルルルルルウルルルウルルルルルっ!」
必死にお腹に抵抗したエリカだったが結果は惨敗。聞き覚えのある濁音が屋上に響いた。
そして再び俺は超猫背になりエリカはお腹を押さえてうずくまる。
「やっぱりいきなりは難しいな」
「ごめんなさい……うまくできなくて……」
「そもそもすかしっ屁ってさ、やろうと思って出来るものなのか? 検索してみるわ」
俺はポケットからスマフォを取り出すと検索項目に『すかしっ屁 方法』と打ち込み検索をかけてみた。世の中にもすかしっ屁を自らの意志で出したいと思う人は意外にも多くいるようで検索は多くヒットした。その中の一番上のまとめと書かれた項目をタッチする。出てきたのは以下のような方法。
・音が鳴るのは肛門を通り抜けようとするオナラの圧力が、肛門周辺の肉を押しのけて空間を作る際に生じる音。したがってスムーズに通過する空間を確保することが成功の秘訣。
ほうほう、なるほど。十五年の人生の中でオナラのことやすかしっ屁のことをこんなに真剣に研究したことがなかった俺は感心した。で、具体的にはどうすればいいんだよ。
俺は画面を指で下にスライドさせると以下のようなことが記されていた。
・尻の肉を左右両手でわしづかみにし、尻の肉を左右に広げながらゆっくり脱力し放屁する。
「ゴフっ!」
思わず俺は吐血しそうになる。なぜなら目の前にいる女子高生がこの行為をしている光景を瞬時のうちに脳内で妄想してしまったからだ。
何のジャンルのアダルトビデオの企画ものだよこれは。
「ど、どうしましたヒロシ君?」
お腹を押さえていたエリカは回復して立ち上がった。
「な、なんでもない! 屋上の風がいきなり喉に入ってきてむせただけだ」
「そうですか……それで、何か良い情報はありましたか?」
エリカのケツの穴を広げて屁をするとすかしっ屁になるそうだ。じゃあ、早速俺が手伝ってやるからこっちにケツの穴を見せてくれるかエリカ。
「ゴフっ!」
「ヒロシ君! ほ、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……今日の向かい風は容赦ないな……」
頼む! 停止してくれ俺の変態思考よ! もうライフポイントはゼロだ!
ってか、言えるわけがないだろう。昨日の警察騒動では無いが、たぶんそれ以上の騒ぎになって監獄行だ。
もっと他に方法はないのか。俺は意識がもうろうとする中でスマフォをスライドさせる。
・通常、オナラは尻の左右の肉が空気圧による振動して割れ目から音が出ているもの。左右の肉を広げることでそれが緩和されて音は出なくなります。
・緩めすぎず、かつ締めすぎず、豊富な経験と努力が必要です。
・何度も練習してパーソナルすかしを確立してください
そしてまとめサイトの下部はスポンサー広告が表示されて終焉をむかえてしまった。
方法これだけかよ! もっとお腹に力を入れてヒっ! ヒっ! フ~……とかそういうのを想像してたが(それはお産の時だった)これは先が思いやられる。
っていうか別に俺がエリカの尻をわしづかみにしなくても自分でやってもらえばいいじゃないか。だが、果たしてエリカがそれを受け入れてくれるかどうか……。
チラッとエリカを見る。不安そうな顔でこちらを見ていた。くそっ! こんな幼気な表情の彼女に俺は今からとんでもない提案をしようとしている。
神様、来世までこの罪は許されないでしょう。でも……俺は彼女を助けたいんです。これは本音で別に性的欲求を満たそうなんて考えは微塵も無いので誤解しないでください。
「えっとだな、調べてみたんだが……その……オナラって尻の穴から出るだろ? その出るところが小さいと振動が伝わって音が出てしまうんだ。だから……その穴を広げながらオナラをするとすかしっ屁になるわけで……」
言葉が続かずに俺は下を向いた。だめだ、喋りにくい。っていうか俺は今から現役の女子高生に何を強要しようとしているんだ。エリカを見ると「ふんふん!」と興味津々に握りこぶしを胸の前につくりながら俺を見つめていた。特殊体質が克服できることに期待している様子だ。あー! もうどうにでもなりやがれ!
「方法としてだな、尻の穴を左右に手で広げならオナラをするんだ」
「し……っ……お尻……広げる……っ~!」
意を決して放った俺の変態発言にさっきまで興味津々だったエリカは人類が作りえないほどの赤さの赤い真っ赤な赤すぎるレッドな表情に変貌する。そのままよろめきながら後方にふら~っと倒れそうになるところを踏ん張り、肩で息をし始めた。
「はぁ……はぁ……わ、わかりましたヒロシ君……私、やります。自分でお尻の……穴を広げながら……ヒロシ君が言うなら……」
やめて! その「ヒロシ君が言うなら」っていうの! 俺性犯罪者になっちゃう。
しかし、エリカは真剣なまなざしで俺を見ていたため、俺も静かに頷く。
「よし……それじゃ、もう一度お互いに近づいてみよう。いけるかエリカ?」
自分のお尻に手を回して掴んだエリカは少し間をおいてからコクっと頷いた。
それを確認してから俺は三度スタート地点に足を運ぶ。まるで戦闘機のパイロットがこれから戦場に赴くために愛機に乗り込むような足取りだった。大袈裟だが、エリカは本気だ。本気だからこそ、こんな女の子にできないような行為にも挑戦している。それなら俺も応えるしかないだろう。
スタート地点で百八十度振り返り、自分の尻を両手でわしづかみにしているエリカに歩み寄り始める。
一歩……ムク。あれっ?
二歩……ムクムク。あれれ?
三歩……ムクムクムク。くそっ! 目の前に自分の尻を手で触っている女子高生のせいか!
四歩……すでに息子は元気でした。
五歩……俺のことより! エリカはどうだ!
「広げる……穴を……ブっ! ぷす! ぷぷ、ぷす~……」
屋上に響いたのはいつもの濁音ではない。風船から空気が抜けるように力のないスカした音。そうか、今わかったよ。これが本当のすかしっ屁の由来か……。
「やった……快挙だ! 完全にすかしっ屁だったぞエリカ!」
「私……オナラしたのに音が出てなかった……ひ、ヒロシ君! できた! 私今、すかしっ屁しましたよ!」
「ああ! 完全にすかしっ屁だった! 最初に少しだけ音が出たけど、初めてでこれなら後は練習すればものにできる! 一歩前進だ!」
エリカは嬉しさのあまり手を自分の尻にあてたまま涙を目にいっぱいにため込んでいた。
俺もまた、嬉しくて勃起したまま気持ちのいい笑顔を浮かべていた。
ギッ、ギギギィ~。
屋上の出入り口が不気味な音を出しながら開いたのはそんな時だった。
「エリカちゃん! あ、よかった~ここにいたのね。今日は一緒に帰りたいから少しだけどこかで待っててってメールしたのに返信が無いから心配したじゃない」
鉄の重い扉から姿を現したのは額に汗をため込んだコナツだった。四月で暖かくなっているとは言うものの汗を掻いているのはよほど走り回ってエリカを探していたのだろうか。ま、エリカは人見知りで、それでいてかわいいからどっかの男子生徒に放課後呼び出されて性的なことでもされているのではないか、と心配でもしたのだろう。
ん? あ、(察し)とりあえず俺は今の状況を静かに、冷静に、簡単に脳内でまとめてみた。
・自分の尻を両手でおさえて涙目になっている女子高生。
・そしてその目の前でフル勃起して笑顔の変態男子高生。
おわかりいただけただろうか?
この状況で何人が俺はエリカに何もしていませんと言って信じてもらえるか、という裁判を法廷で行ったとしたら百億パーセントで敗訴だろう。それでも僕はやってない。
「ん? ん~?」
眉間にしわを寄せて細目になりながらコナツが俺たちに近づいてきた。エリカはすぐに硬直していた尻に手を当てている体勢から直立に素早く戻る。
やめて! それ以上近づかないで! もう少しシャバの空気を味わってから牢獄に行きたいから……俺。
「エリカちゃん! どうしたの? 泣いてるじゃない!」
コナツはエリカにものすごく近い距離まで来てようやく泣いていることに気づいたようだった。
「あえ、こ、これは……」
「え、エリカと屋上で話してて、ずっと座ってて、それで今しがた立ち上がったら足がしびれてたみたいでその場に尻もちをついてしまったんだよ! だからさっきもその時の衝撃で打ったお尻が痛くて手で押さえてたんだ。な、エリカ。豪快に尻もちついたから痛くて泣きそうになってたもんな」
主演俳優賞がとれるんじゃないかと思えるほどのアドリブを瞬時に考えた俺。オスカーもびっくりだろう。
「ヒロシいたの。気づかなかったわ」
「気づけよ! なんか悲しくなるじゃないか!」
「ん? ヒロシあんた……」
はっ! しまった。俺は自分の息子を確認する。まださっきのエリカとの特訓のせいで元気なままだ。
再び細目になったコナツは俺をじっと見つめる。もはやこれまでか……ここで逆にいつもみたいに股間を隠すような行為をすれば余計にバレるだけだと開き直った俺はそのまま直立不動で潔く牢獄に入る決心をした。俺は表情を変えずに清々しい笑顔のまま、天を仰いだ。
「なんでエリカちゃんが泣いているのにそんなに清々しい笑顔なのよ。普通はレディーが尻もちついたら手を差し伸べて起き上がらせるものでしょうが!」
ノータッチ。コナツが指摘したのはそんな男の品格に関わる内容のことだった。気づいていない? いや、そんはずはない。この距離にいても俺の自慢の息子のフル勃起状態のでかさに気づかないなんておかしい。それとも俺の男としての魅力にまるっきり興味がないだけなのか? それはそれで悲しいが……そういえばさっきもエリカが泣いていたことに気づかなかったみたいだけど、目が悪いのか?
「そ、そうだよな悪い悪い。ところでコナツってさ、視力どれぐらいなんだ?」
「なによ急に。私最近だけど視力がものすごく悪くなってね。いつもはコンタクトしてるんだけど、今日は朝から誰かさんが寝坊したからつけるの忘れてきちゃったのよね」
ギロっとジト目で俺を見つめたコナツ。
その目つきは怖いが、助かった。しかし、この距離で俺の勃起がわからないのは視力が悪いというより見えていないレベルじゃなかろうか。どちらにしろよかったが。
「でもここいい場所ね~。おっ! 野球部のグランドもここなら見渡せるじゃない! どれどれトラタロウは頑張ってるかな、と」
俺を睨みつけた後で金網までダッシュで駆け寄り下を見下ろすコナツ。本当にトラタロウのことが好きなんだな。とりあえず俺は目でエリカに「なんとかバレずにすんだみたいだ」と伝わったかわからないが合図をした。それに対してエリカは微笑みながら頷いてくれた。
「あ、たぶん今右打席に入ったあれがトラタロウだ。一年生でもう実戦練習に入れてもらえるなんてさすがだね」
コナツが独り言のように喋っているのを聞いて、俺とエリカも金網まで歩いてグランドを見下ろした。人間が小さな米粒程にしか見えないのに彼女がトラタロウを認識できるのは愛の力なのだろうか。すさまじいな。
「二人とも見てて、たぶんトラタロウはこの打席ホームラン打つから」
いきなり何の根拠もないことをコナツは言い出した。あまり野球を知らない俺にだってホームランぐらいわかる。だが期待しすぎだろコナツさん。一年生でいきなりそんな。
その時、学校内の環境音のどれよりも耳に残る金属音が響き渡った。野球部のグランドから聞こえてきたそれはバットにボールがジャストミートした反響音。
そしてトラタロウはゆっくりとダイヤモンドを回りだした。コナツは予言者かなにかなのかよ。
「マジかよ……」
「すごいでしょ。トラタロウはすごいの。いつかこの高校の野球部を甲子園に連れてってくれる。そんな気がするんだ」
自分のことように嬉しそうなコナツはそう言い残すと金網から離れた。
「さてと、輝き寮に戻って晩御飯の用意しなくちゃね。今日も私が作ってあげるけど二人とも明日からは当番制にするから頼むわよ」
「俺料理とかしたことないんだけど」
「だったらしっかり予習しておくこと。あ、エリカちゃんの当番の時は私が一緒に作ってあげるから安心してね。エリカちゃんも料理初めてでしょ」
「あ、ありがと……」
男女差別にもほどがあるだろ。料理なんて人生の中で……そんな記憶が一つも思い出せない。
「あ、そういえばエリカちゃん。真白先生が呼んでたわよ。私たちは先に校門にいるから行ってきなさい」
「真白先生が? わかりました」
金網から屋上の入口にタタタっと駆け足で移動してエリカは職員室へと向かっていった。
その後ろ姿を見て今日の特訓は成功だなと誇らしげに考えた俺は少し口角をつりあげて笑った。
「さて、ここで何をしていたの、ヒロシ」
その俺の笑みを打ち消すようにコナツは低い声を出した。それはまるで容疑者に対して刑事が事情聴取を行うように。ま、いくらなんでも怪しまれるよな。屋上に男女が二人でしかも女の方は泣いていたのだから。
「なにもしてないさ。ただ、今日エリカがクラスで起きたことでちょっと落ち込んでたから真白先生にここの鍵を借りて話を聞いてただけだ」
「エリカちゃんが泣いていたのも、その時のことを思い出して泣いただけなのね」
「そう」
そういうことにしておこう。
「ならいいんだけど。私ね、あなたのことが何もわからないの。あなたが誰なのか、なぜここにいるのか」
さっきまで、エリカがいた時とは明らかに違う口調のコナツは俺に吐き捨てるように言うと視線を再びグランドに戻した。
質問されているが、意味が全くわからなかった。だが彼女が冗談を言っているように思えなかった俺は必死に考えてみた。俺のことがわからない? そりゃそうだろう、昨日会ったばかりなんだから。俺だっておまえのこと全然知らない。っていうかなぜここにいるのかとか言われたら存在まで俺は否定されてるのか? 新手のいじめか?
「俺だっておまえのことわからないさ。まだ知り合って二日だろ?」
「そうね。率直に言うわ。エリカちゃんを勝手に連れ出したりしないでほしいの。今日もあの子は私と下校するはずだったんだから」
「どういう意味だよそれ。俺がエリカと一緒にいたらダメってことかよ」
「あの子は何か悩みを抱えているの。それが私にも何かわからないけど、だから私が一緒にいてあげなくちゃいけないの。傍にいないと」
「俺がエリカと一緒にいたらその悩みが大きくなるのかよ」
「そうじゃない。そうじゃないけど……邪魔なのよ」
しれっと、コナツは俺に言い捨てる。
「なんだよ邪魔って! 意味わからねーよ!」
とんでもない言いがかりのようなことを言われた俺は大声で怒鳴ってしまった。そりゃ誰だって怒るだろ。いきなり、なんでここにいるのって言われた挙句に邪魔よばわりされたら。
腹が立った俺はその場から立ち去ろうとした、その時、ふと脳によぎった今朝の出来事。あの不思議体験のトリガーとなっていた俺が言おうとした言葉。「あなたは……誰なの……」に対する返答の言葉。
怒っていた俺だがなぜかその言葉が言いたくなって、立ち止まりコナツの方へ振り向いた。
「……昨日俺の耳元で言ったあの言葉な、俺は」
が、その言葉を口に出そうとした時、空は一気に真っ暗闇に変化し、グランドと屋上は漆黒で染まり再びあの世界が広がってしまった。
またかよ……。二回目の俺はそこまで驚かなかった。ただ確信したのは今朝の出来事は寝ぼけていたわけでも夢を見ていたわけでもない。現実世界でおこっている事象だ。
その暗闇の世界でただ一人だけ存在しているコナツも相変わらずだった。
「耳元で言った言葉? あなたの正体のことね」
今朝と同じように、コナツにはここは普通の屋上なのだろう。驚く様子も怖がる様子も窺えない。
「ああ、俺は――ぐっ! ……ああああああああああああああああああ!」
ジワっ! 俺は自分の脳の後ろ側で血がにじむような感覚に襲われた。味わったことのない激痛に俺は悲痛の叫び声をあげながらその場にうずくまった。
「ちょ、ちょっと! どうしたのよ!」
意識がもうろうとする中で俺に駆け寄ってくる彼女はさっきまでの冷たい表情ではなく純粋に俺のことを心配している面持ちだ。もう、勃起がバレるだの考えている余地はなかった。後頭部にアイスピックを打ち付けられたような痛さ。
「ヒロシ! ヒロシ!」
何度も俺の名前を呼ぶコナツ。そう、俺の名前はヒロシ。
――あなたは……誰なの……――。
そう言われたらそう応えるのが普通だけど、コナツに今しがた言おうとしたのは全く違うことだったような気がする。なぜかそれを言わなくちゃいけない気がして、必死に意識を保とうとしたが、脳裏に突き刺さるアイスピックは容赦を知らないようで、さらなる激痛が俺を襲った。
その痛さに耐え切れなくなった俺は、気を失う寸前で空を見上げた。
空は暗闇の世界からただの夕焼け空に戻っていた。
読んでいただき感謝です!
感想等もおまちしております!
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