不思議体験
勃起していた。
ああ、朝だから仕方がないか。瞼を開いてゆっくりと上体を起こすとそこは輝き寮の自分の部屋。寝ぼけて「なんで実家じゃない? ここはどこだ?」なんてことは一切思わなかった。意外にも脳は正常で落ち着いているようだ。
つまり昨日の記憶も鮮明に覚えている。
輝き寮で新入生ばかりでパーティーをしたこと、トラタロウと言い争いになったこと、エリカが涙をみせる寸前までいってしまったこと、そして一番脳に残っているのはコナツが最後に吐き捨てるように言った「あなたは……誰なの……」の一言。
もしかしたら「あなたは……なんなの……」の聞き間違いではないだろうか。俺がトラタロウに対して暴言を吐きそうになったからコナツが怒り、それで皮肉にそのセリフを俺の横で呟いた。だとしたら、完全にコナツはトラタロウが好きということになるな。早くも寮内で恋愛関係が成熟しそうになっているのか、だけどコナツはトラタロウにストーカー呼ばわりされていたから難しいだろう。前途多難だな。
「がんばれ、コナツ」
少し悲しくなった俺は咄嗟に口にした。
「私が何をがんばるのよ」
「おわっ!」
ベッドの端からにゅ~っと顔を出してきたのは怒った表情をしたコナツだった。
「なに勝手に部屋に入ってきてんだよ! ってかこの寮は部屋にカギ付いてないなんて物騒だろ!」
「こうやって寝坊常習犯を取り締まる意味でも付けてないのかもね。ちなみに私の部屋にはカギ付いてるから忍び込もうなんて考えないことね。夜の営みができないのは悲しいわね~、これも寮長の特権」
「誰が寝坊常習犯だよ! ……夜はあまり部屋に入ってこないでくださいね」
「否定しないところが生々しいわね……それと時計を見てから言いなさいよ。昨日言ったよね、朝ご飯は七時からって」
そういえばそんなことを言っていたような……すぐさまスマフォに手を伸ばして充電器を引っこ抜く、パっと明るくなった画面には7・15の横文字が表示された。
「……いや~、まだ寮生活に慣れてないのかな僕」
「もう! 早くしなさいよね! エリカちゃんなんか律儀にヒロシのこと待ってるんだから」
ここにきて罪悪感が湧いてきた。俺はすぐにベッドから飛び起きて制服に着替え始め……おっと、危ない。まだ俺の息子は元気だった。すぐにベッドの上にヘッドスライディングを決めてうつぶせになる。
「何をドタバタしてるのよ。いいことでもあったのかな、ヒロシさん?」
「……着替えるから部屋から退出してくれませんかコナツさん?」
「エリカちゃんの名前を聞いた途端にその反応とは、私が起こしに来た時にその反応してくれないから少し嫉妬しちゃうじゃないの。ま、早くしてよね」
ふーっとため息をついたコナツは部屋から出ていこうとした。
「あ、あのさ」
が、何かが喉奥に引っかかるような感覚を起こした俺は何を思ったか彼女を引き止めてしまった。
「なに?」
振り向いたコナツを直視した瞬間、彼女以外の背景が何も映し出されなくなってしまった。例えるなら真っ暗な空間に二人きりでいるような世界だ。
えっ? なんだよこれ?
宇宙にでもワープを決めてしまったような幻想的な空間だけど、怖すぎるだろ。
あわてて目を強くこすった俺だったがその不思議現象は何も解決されないままで、それでいて何故コナツを呼び止めたのかが思い出せない。何かが聞きたかったのか、その内容が思い出せないまま、彼女はずっと俺を見ている。
「おい、どこだよここ!」
「……はっ?」
「コナツ、大丈夫か?」
停電ではない。真っ暗闇の世界で俺は彼女の安否を確認しようとしたが、『こいつだめだ、完全に頭のネジが二、三本抜けちまってやがる。おーい誰か医者を呼んできてくれや。急患だ!』みたいな表情で俺を憐れむ目で見ていた。
「もう寝坊したことは怒ってないから。それにボケが長い。それとも救急車でも呼んであげようか?」
こっちは正気を保つのもやっとなのに、この反応ときたもんだ。おそらく今俺が見ている世界はコナツの視界には映っていない。彼女にはさっきまでと同じ輝き寮の一室でしかないのか。
「……今日の朝ご飯はなに?」
「なによそれ、目玉焼きよ。とにかく早く!」
バタンっ!
コナツがドアを閉める音で真っ暗闇の背景が大きな黒い渦に吸い寄せられるようにゆがみだし、この不思議空間は崩壊する。何の変哲もない輝き寮の一室に戻った。
自室に取り残され、しばし呆然とドアを眺めた。
まだ寝ぼけていただけなのか、いいや、そんなことはない。十数年生きて、いくら寝ぼけていてもこんなに現実感のある夢なんて見たことない。じゃあ今の不思議空間はなんだったんだ? それにいまだに思い出せないコナツへの問いかけの内容。昨日、彼女に言われた一言が気になって……あーっ! もういいや、新天地での生活に疲れているんだな俺は。
聞きたくもなかった朝食のメニューが目玉焼きという知識を携えた俺は着替えを始めた。
着替えを終えると俺の息子も平常心を取り戻していたようだ。
「悪いな、寝坊してしまって」
「大丈夫です……私も起きるのが遅かったので……」
学校まで続く一本道をエリカとある程度の距離を保ちつつ並んで登校する。並木道には桜が咲き誇っていてなんともベタなラブコメアニメのような風景だ。周りから見れば俺らは完全に付き合っている彼氏彼女に見えているだろう。だが、中身を掘り起こせば勃起男子とオナラ女子というとんでもないカップリングだ。あっ、付き合ってないけどな。
「昨日はよく眠れたか?」
「……全然です」
「そうか、俺は案外ぐっすりだったよ」
「……よかったですね」
会話が続かない。なんだろう、エリカの表情が曇っているのには気づいていた。まだ昨日のことを引きづっているのか? 朝食の席にはエリカ、コナツ、それに俺の三人だけだった。真白先生は学校へ朝早く出勤、そしてトラタロウはコナツ情報によると朝練に行ったという。聞くところによると裏月高校の野球部は朝練をしている生徒はいないらしい、どうやら自主的にトラタロウがしているみたいだ。野球になるとまじめで熱心なやつなんだなと思った。朝食の時はエリカにコナツが話題をふっていたおかげで沈黙なんてことはなかったが、「先に行ってて」と言ったコナツのせいで二人は静寂に包まれている。
それと俺にも問題がある。今朝のコナツを呼び止めた時の夢というか幻想というか錯覚というか、なんて言っていいかわからないあの不思議な空間へ足を踏み入れたことを懸命に考えていた。ま、いくら考えても何も応えは出てこない模索状態だけどな。コナツだけが映し出されたあの世界で俺は確かに脳を正常に動かしていた。だが、彼女には見えていない。俺の特殊体質は勃起だけじゃないのかよ、勘弁してくれ神様。
「……あの……ひ……」
――それにしても今朝の目玉焼きなんだけど、俺のだけ少し焦げててさ。たぶんコナツのやつが俺に失敗作を押し付けたんだぜ、きっと。――
っと、ユーモアを交え考えた話題を言う前にエリカが何かを言いかける。
「ん? なに?」
「ひ……ヒロシく……ん……」
名前を呼ぶだけでこれほど躊躇する女子高生がいるだろうか。いや、探せばいるのか。現に目の前にいたわ。
「今日から……どうします?」
今日から? ど、どういう意味だこれは? えっ、普通に高校生活が始まるんじゃないのか? ……あっ、普通じゃない。俺たちは特殊体質をもっているからそれをどうするかということか。日本人だが主語がないと日本語は一気に訳が難解になるな。
「特殊体質のことか?」
こくり、頷くエリカ。
「そうだな……」
昨日の今頃まで懸念されていた問題は俺自身だけのものだったから、バレたらしょうがない程度で事を考えていたけれど、今は違う。体質は違うけど俺と同じ土俵に立ってしまっている彼女がいる。事を重大に考えなかければいけない……。
しばし考え込みながら歩く、そのうちに周りには同じ制服に身を包んだ同校の男女で並木道は賑わいを見せ始める。その中で目を見張るのは朝にもかかわらずにバカ騒ぎとまではいかないが賑やかな男子生徒グループ。はぁ……俺もあんな感じでバカできる友達ができるのかな……。そんなことを悲しげに思いながらすぐ後ろを歩く男女のカップルらしき二人組が目に焼き付いた。こんなにも賑やかなのにあの二人のそばだけは静かな時間が流れている。きっと周りが気を遣って避けているのだろう。
「周りが気を遣って……自分からは言わずに……これだ……これでいこう!」
「ど、どうしたんですか?」
「閃いたんだよ。エリカ、俺のそばから離れるなよ」
思い付きを咄嗟に口にする。するとどうだろうか、彼女の顔は発動条件のそろった魔法のように淡く赤色になり始め、気が付けば真っ赤になっていた。
「だー! 違う、そういう意味じゃない! だから、学校内でも常に一緒にいれば『あいつら付き合ってるんじゃないか?』と思わせるだけでいいんだ。そうすれば互いに異性が近寄ってくる確率が減るんじゃないかなと思うんだよ。エリカなら近寄ってきても女子生徒だし俺なら男子生徒ってわけだよ」
「あ……そういうことですか……てっきり私」
一度元に戻った真っ白なキャンパスだったが、再び赤色の絵の具をこぼしてしまったように真っ赤に敷き詰められた。たぶんこれは勘違いをしたことを恥ずかしがっているのだろう。なんとなくエリカの心が読めてきた。いや、顔にもろ出ているだけか。
「そういうことだ。でも、俺は大丈夫だけど、エリカはそれでいいか?」
「だ、大丈夫です! それに……ひ……ヒロシ君がいてくれたら……頑張れる気がします」
ずっと地面に落としていた視線を俺に向けてエリカは少し照れながら応えた。
あかん! ちょっと待って! こんなかわいい子に理由があるからというものの、目を見てこんなこと言われたら……勃起はしなかったけど昇天しそうになる。
「よ、よし! じゃあその作戦で乗り込むぞ!」
戦場に突入するように俺とエリカは裏月高校の校門をくぐった。
心なしかエリカの表情から曇りが無くなったように思えて、それを見てなぜか俺は高揚する。
まるで自分のことのように。
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RYO