消失
五月四日は晴れ。
GW中にこんなにも気持ちの良い天気は初めてだ。部屋に差し込む日の光に照らされながら俺は大きく伸びをする。時刻は朝の十時。少し寝すぎてしまった……いや、寝床についたのは夜中の三時だからそうでもないか。
昨夜のことを思い出すと頭が痛くなってしまう。まったく、あの人は、なにか良いことでもあったのか? と聞きたくなるぐらいに上機嫌で缶ビールを片時も手放さずに俺の肩に手を回して「せやけど良かった! ホントに良かったで!」とオウムのように何度も同じ言葉を繰り返し口にしていた。でもその気持ちも少しわかるような気がする。入学して一か月もの間、寮内は暗くて一致団結などという言葉が世界で一番似合わない寮だったが(トラタロウだけだけどな)それがやっと、ようやく、ついに、青春が爆発したように仲良くなったのだから教師としては嬉しいのだろう。声優志望で酒好きという教師としてどうなの? と思うような真白先生だがまだ教師として教え子を良い道に導く精神は健在なようで安心した。
すっかり目が覚めてしまった俺はベッドから体を起こして部屋を出る。階段を降りて輝き寮のリビング兼食堂兼和室に顔を出した。
「グッモーニーン~ヒロシ~。どう? 目覚めは?」
すでに先客がいた。真白先生は昨夜のことを感じさせないほどに清楚に座っていた。それを見て驚き、そして言動にも驚いた。
まず、関西弁じゃないこと。なぜだ?
そしてもう一つはあんなに泥酔していたにもかかわらずに清々しい顔で俺に喋りかけてきたこと、にだ。
「……いや、先生大丈夫なんですか?」
「なにが?」
「なにがって……ほら、だって昨日あんなに飲んでいたから」
「ああ、そうね、少し頭が痛いかな」
真白先生は額に手をやりわざとらしくポーズをとる。
「あれだけ飲んでそれだけなんですか?」
「どっちかって言えば私は強い部類に入るんじゃないかしら。この前も大学の時の友達と朝まで飲んでて朝方にコンビニの駐車場で友達が泣きながらゲロってたわ」
「友達に同情しますよ……あと……」
関西弁封印のことを聞こうとしたがやめておこう。
「あと? ああ、もしかして口調のこと?」
「あ、はい」
「声優ってのはね、一週間もオーディション結果待っていて何もこなければそれまでよ。これ声優界の常識ね」
「なるほど……勉強になります」
つまり落ちたということか。どんまい先生。
「それよりもヒロシも一杯どう?」
お椀を片手に何かを俺に差し出してきた。
「あ、朝から日本酒飲んでるんですか?」
「バッカね! そんなアル中みたいな酒浸りな生活送ってるわけないでしょ! しじみのみそ汁よ」
「みそ汁?」
「たらふく飲んだ次の日の朝はこれにかぎるのよ。お酒の抜けも画期的に早いわよ。私のルーティーンの一つよ」
「充分酒浸りの生活送ってる人ですよね? その日課は」
「やかま……うるさいわね」
お酒は少しずつ抜けているかもしれないがエセ関西弁はまだ抜けきっていないようだ。
「おはようござい……って! この部屋酒臭っ! どれだけ飲んだんですか?」
リビング兼食堂兼和室に入ってきたコナツはいきなり俺が言いたかった言葉を躊躇なく口にした。
「おはようコナツちゃん。いや~昨夜は嬉しくてつい」
「つい、じゃないですよ真白先生。はぁ……これじゃ、嫁入りはまだまだ先になりそうですね」
「うるさいわね!」
「コナツ、そういえばトラタロウは?」
「野球部は練習試合……あ、じゃなくて……対外試合禁止になったからグランドで自主練じゃないかしら」
朝早くからご苦労様ですね運動部員は。
「コナツちゃん失礼なこと言ったからお昼ご飯買ってきてちょうだいな」
「はぁ? なんでそうなるんですか。教職ともあろう者が生徒達が寝泊まりしている寮でお酒をたらふく飲む方が悪いんじゃないんですか!」
「飲んでなきゃやってらんないでしょ。こんな嫁げるか嫁げないかの瀬戸際に高校生の相手させられてる身にもなってよね」
「自虐ネタを盾にしないでください。それにそういう文句は学校側に言ってくださいよ……お昼ご飯なら冷蔵庫にあるもので済ませましょうよ。寮のお金使って寮費値上がりでもされたらたまったものじゃありませんから」
ため息をつきながら台所の冷蔵庫に向かって行ったコナツ。
「お酒飲んだ次の日はお米をガッツリと食べたいのよ。それにヒロシだってたまにはチェーン店の牛丼とかカレー食べたいわよね?」
「いや、俺あんまりそういうの食べたことないのでわからないですよ」
「学生なんだから友達とそういう店行くでしょ? 中学の頃とかさ」
「中学の頃は、その……」
「ああ、ごめん、そういうことね……軽はずみな言動しちゃったわね」
何かを勝手に悟った真白先生は目線をテレビに向けた。中学時代に友達がいなかったとか思われてる? 冗談じゃない、友達の二人や一人……。
……あれ……。
思い出せない。
まただ、雨の日の裏月神社と一緒のように以前の生活が思い出せない、というよりも記憶が無いと言った方がこの場合正しい。そもそも俺の出身中学はどこなんだ?
あの日に保留にしていた答えが今になって知りたくなる。当たり前か。自分の存在が不明で今までよく生きていたな俺よ。
記憶喪失ならすぐに病院だ。いや、その前にこの特殊体質のほうが先か?
トラタロウとの勝負も一件付いたし、寮内もいい雰囲気だ。はっきりさせるのなら今しかないな。
そうだ、真白先生なら知っているかもしれない。
「先生……こんなこと聞くのあれなんですが……俺の」
聞く寸前で俺は一呼吸ついた。その時だ。
「ぎゃあああああああああああああああああああああ! 何よこの冷蔵庫の中身は! 泥棒にでも入られたの?」
意を決した。……が、タイミングを見計らって悲鳴をあげたかのようにコナツが台所で絶句した。
「あーもしかして……見てしまわれたかコナツちゃん。ふふふ……昨日の夜の私に聞いてちょうだい。お酒のおつまみが欲しくて冷蔵庫の中をガサゴソしてたら何もないから料理にチャレンジしようとしたのよ。ちなみにその料理は一口も私の胃袋の中に入らずに廃棄になったけどね」
真白先生は額に手を当てながら台所の流し付近を指さす。
「え……まさか……ちょ、なによこれ! どういうレシピを思いついたらこんな残骸が出来上がるんですか! 臭いが……オエっ!」
コナツは残骸を見てしまったのか嘔吐寸前だった。
「ってことだからお昼ご飯買い出しよろしく!」
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……先生が行ってくださいよ」
「私はここにいなくちゃいけないでしょ。かわいいエリカちゃんが寝てるんだから。強盗でも押し入って来たらどうするの」
「そうか……エリカちゃんに精の出るもの食べさせてあげなくちゃ。先生に任せたらとんでもないものが食卓に並ぶかもしれませんからね」
弱りながらチラッと窓の外を確認するコナツ。
「いい天気ね……。わかりましたよ、お昼ご飯買ってきます。ヒロシも来てね」
いきなり名指しで呼ばれたものだから反応が遅れた。
「なんで俺まで」
「いいから一緒に来て。荷物とか持ってほしいから」
「昼飯だけならそんな大荷物にならないんじゃ……」
「今日の晩御飯がそこの……うっ! 思い出したくもない……三角コーナーに入りきらないぐらいに溢れてる悪魔の食べ物でいいなら話は別だけど」
「先生俺も一緒に行くので留守番とエリカのことお願いします」
「べ、別に料理ができないわけじゃないのよ? 酔ってたからあれになったわけで、素面なら料理なんてなんでも作れるんだから!」
「どこのアニメのツンデレ属性ですか。とにかくヒロシと近くのスーパーまで行ってきますね」
俺は強引に手をコナツに引っ張られた。そのままズカズカとリビング兼食堂兼和室を後にして玄関を飛び出した。
「早くお願いね~」
「しっかり留守番してくださいよ!」
渋々、俺とコナツは輝き寮を後にする。
そしてしばらく歩くとコナツが立ち止まり「ちょっと待ってて」とだけ言い残して近くの公園のトイレに入っていった。
五分ほど経ってトイレから出てきたコナツは口元をハンカチで覆っていた。
「どうした?」
「どうしたって、あんなもの見せられたら無理もないと思うわよ」
「あんなものって……真白先生の料理か?」
「語弊があるわ……あんなものを料理と言わないわよ……産業廃棄物と言った方が想像がつくかしらね……」
「それはもはや食い物じゃないよな?」
「そうよ……おぞましい」
「いや、でも人間が作るものだろ、そこまで言わなくても」
「じゃあ……私が見たありのままを伝えるわよ……聞きたい?」
ユラリと幽霊のように彼女は『呪い殺すぞ』というセリフが似合いそうな顔で俺をにらみつけた。
「いや、え、遠慮しとくよ」
俺がそう言うとコナツは口をハンカチで押さえたままふらつきながらスーパーに向かって歩き出していった。よほどの残骸を見たのであろう彼女に同情しつつ俺もその後を追った。
「俺が来たからって買いすぎだろ。こんなにも」
明日の五月五日はこどもの日ということもあって、店内には小さなお菓子付きの鯉のぼりがいくつも飾られていた。そしてループで聞こえてくる『屋根よ~り~た~か~い~』のお約束の曲を聞きながら手提げバックに卵、ケチャップ、おかゆの素、豚肉、ネギ、ピーマンなどを詰めていった。
「ちょっとヒロシ、卵が何で一番最後なのよ? 割れるでしょ?」
「知らないよそんなこと」
「知らないもなにも常識でしょ!」
「こんなとこに買い物来たことなんてないんだよ」
「まったく、これだからゆとり世代は……」
「なんだよゆとり世代って?」
「はあ? もういいわよ、早く残りのもの入れてちょうだい。エリカちゃんがお腹を空かして待ってるかもしれないでしょ」
「そうだな急ごう」
エリカと聞いて今までの二倍速で買った品物を手提げバックに入れると肩に背負って早歩きでスーパーを出た。
それを見てあきれ顔のコナツも手ぶらで出てきた。
「ヒロシは本当にエリカちゃんのこと好きなのね」
「ぶはっ!」
思わず吹き出す。急に変なこと言いやがって。
「い、いきなりだなおい」
「行動に出てるわよ」
「好きって感情なのか分からないけどな」
「どういうこと?」
「好きとかそういうの思ったことがないというか経験が無くて、むしろ守りたいって言った方が正しいのかもな」
横に並んで歩いていたコナツが急に俺の前で立ち止まった。
「本当ににぶいわね。それを好きっていうのよ」
そして彼女はしかめっ面から一転して優しく温容に変わる。
「ありがとうねヒロシ。トラタロウと勝負してくれて……あの日、あの時間が無かったら、たぶん今を笑えていなかったんだから」
「なんだよ急に改まって。俺はただエリカのためにしたことであってだな」
「ふふ、理由はどうあれ私の夢の一つが叶ったのよ。覚えてる? あの輝き寮の入寮の日に言ったこと」
「え?」
申し訳ないのだが全然覚えていない。言われてあの日のことを思い出してみる。すると鮮明に覚えていた言葉がある。それはコナツが放った一言。
『あなたは誰なの?』
そう、その意味深すぎる一言とあの表情。
確か、あれを聞いた次の日に俺はコナツ現象に見舞われたんだ。
それからも何度かコナツが俺に対する意味深発言は続き、今日に至る。だけどどうやら今日は素直に喜んでいいらしい。いや、喜ぶというか安心してもいいらしいな。本当を言うと、この買い出しに俺を無理矢理引っ張り出した時から嫌な予感がしていたんだ。また変なことを吹っ掛けられるのではないかと、はたまたコナツ現象が引き起こってしまうのではないかと思っていた。
「覚えてないの? はあ~がっかりよ。前言撤回ね」
「あの時は入学して間もなかったから緊張してたんだよ。だからあの場におとなしく座ってるので精いっぱいでさ、他人の言葉が耳に入ってこなかったんだよ」
「どうだか……ま、いいけど」
コナツは俺の発言が気にくわなかったのか、ぷいっと、そっぽを向いた。
「夢があるって言ったのも結構勇気がいったのよ? その夢はもう一つあって……それもヒロシに叶えてもらいたいの」
「夢って、さっきも言ってたけど俺はトラタロウと勝負しただけだぞ? それがコナツの夢だったのかよ」
「そんな曖昧で意味のないようななことが夢なわけないでしょ」
「じゃあなんなんだよ」
「ま、それは置いといて、もう一つの夢のためにお願いがあるの」
「とんとん拍子で話を進めるなよ。わけがわからん」
「あのね……エリカちゃんを明日デートに誘ってあげてほしいの」
俺は目を丸くした。
本当にわけがわからん。
なんて言った?
エリカをデ、デデデデデ、デートに誘う?
「な、なに言ってんだよ?」
「そのまま言ってるじゃない。エリカちゃんをデートに誘ってあげてほしいって」
「いや、それは、その、ありがたいけどさ……エリカはまだ風邪で体調が悪いじゃないか。そりゃ、元気になったら……誘う……けどさ」
「だめ、明日誘ってあげて。ほら、あの子って引っ込み思案でしょ? だからヒロシの方から外に連れ出してほしいのよ」
「そういうことじゃなくてさ、また風邪がぶり返したらどうするんだよ。エリカの体調が治ったら誘うからさ」
そう言って、俺は目の前で手を後ろに組んで通せんぼポージングしているコナツの横を通り過ぎようとした。
「待って! お願い! 明日連れ出してほしいのよ」
横を通過する瞬間に開いている方の手を掴まれた。
「しつこいな、なんで明日にこだわるんだよ? エリカの体調を考えろよ」
「エリカちゃんのことを考えて言ってるんじゃない!」
「意味がわかんねーよ!」
俺がコナツに対して少し怒鳴ったその瞬間、彼女の表情が曇っていくのと共鳴するかのように空が曇天に変わっていくのを感じた。あんなにいい天気だった空は薄気味悪い灰色一色に化粧直しをしたように一気に不気味になる。
「ちょ、ちょっと、今日は一日晴れのはずでしょ? 雨は明日のはず……」
「おいおい明日が雨なら尚更じゃないか。雨に濡れてもっと熱が出たらどうするんだよ」
「嫌……そんな……も、戻るわよ! 早く! ヒロシ!」
精神が不安定な患者のようにいきなりコナツは殺される寸前の被害者のように慌てだし、額から汗を流し始めた。
「おい、どうしたんだよ! おかしいぞおまえ?」
「うるさい! 早く輝き寮に――」
コナツの言葉を遮るように空が遠くで光った。曇天から落ちたそれは落雷。
そして少し時間がズレて地響きにも似た轟音は辺りにこだました。
近い……近くで落ちたんだ。
なぜかその光景にただならぬ恐怖と轟音に俺自身が抑えきれない衝動に襲われる。
「嫌……嘘でしょ……なんで……あの方角なのよ……だってあっちは……」
輝き寮へと駆け出そうと向き直っていた方角に落雷の光と轟音は向いていた。
絶望した表情のままコナツは一心不乱に駆け出していく。
待てよ、と言いそびれた俺は買い出しの品が入った手提げかばんをその場に捨て去り、同じように駆け出した。
この嫌な気持ちはなんだよ……恐怖? 激情? 無数の境地に追いつめられた俺の心の中に浮かんだのは当てはまる言葉ではなく、頬から一筋の涙を流すエリカの顔。
いくつもよぎる嫌な予感を強引に追い出しながら輝き寮までの帰路を無我夢中で走り抜け、あと一つ、あそこの路地を曲がれば家が見えるところまで来た。
あともう少しだ。
あそこを曲がればいつもと変わらない輝き寮があるさ。
エリカと登校して、下校して、俺の部屋で話したりしたこともあった。
あの輝き寮に、もう少しで。
必死に信じて、必死に嫌な予感や予想を脳内から追い払って、やっとたどり着いた輝き寮の光景。それは黒煙が空高くまで舞い上がっていて悲鳴をあげているような見たくない光景が待っていた。
火事現場の輝き寮の家の周辺にはすでに何人もの野次馬がたかっていて、スマフォを片手に家を撮影している。その姿に怒りがこみ上げてきたが今はそれどころではない。
「嘘だろ……」
「嘘じゃないわよ……嘘じゃないから! 今視界に映っているのが嘘に見える? 嫌だからね私は……こんなの絶対に」
先にたどり着いていたコナツは炎が立ち込める輝き寮に正面から突っ込んで行こうとした。死ぬ気か? 俺はすぐに彼女を後ろから止める。
「待てよ! 何する気だよ!」
「決まってるじゃない! 助けるのよ! 中にはエリカがいるのよ! それに今回は真白先生だって!」
今回は? どういう意味だ?
「無理だ! やめろ!」
火事場の馬鹿力というのだろうか。コナツはものすごい力で、男の俺でも彼女を止めるのには必死だった。
「放してよ! 私なんかどうなってもいいんだから!」
「わかった! わかったから! 俺が行く! おまえはここにいろ!」
その言葉を言ってもコナツは暴れ続けたので俺は無理矢理に彼女を道にたたきつけた。
「そこにいろ!」
怒声にも似た言葉をコナツに浴びせて俺は玄関から中に突入しようとした。しかし、すでに火の手は玄関を完全に封鎖していて、俺はまだ比較的火に覆われていない縁側に周りそこから体を丸めて体当たりする。
思いっきり床に激突したせいで今まで味わったことのない痛みを肩の辺りに感じたが、どうでもいい。
どうにか侵入に成功したようだ。
辺りを見回す。ついさっきまでいた風景とは一変してそこは火の海と化していた。
時間がない、そう思った俺は縁側からリビング兼食堂兼和室に入ると台所でうつぶせに倒れている真白先生を発見した。
真白先生からドス黒い液体が流れ出ている、どうやら頭部から出血している。
「先生っ! 先生っ!」
駆け寄って意識を確認するが返事はない。
生死を確認しようとしたが何をどうしていいかわからずに、とにかく助けなくては、そんな考えで俺は真白先生を抱き上げようとした。しかし、意識を無くした人間はものすごく重く、それでいて支えようにも不安定だ。なんとか自分の肩に真白先生の手を回して引きずる形で一旦外に出そうとさっき火の中を飛び込んで入ってきた縁側を目指した。
「くそ……重い……」
一歩……二歩……三歩、と引きずった所で二階への階段が視界に入る。
エリカがまだ二階にいるんだ……早く、早く……とにかく真白先生を外に出して……。
考えていると縁側の天井が星の数ほどの火の粉と共に目の前で豪快に落下してきやがった。熱風と火の粉が俺を容赦なく俺を襲い、体勢を崩して倒れ込んだ。
その瞬間に真白先生の体から手を放してしまい、先生を床に落としてしまう。そんな絶体絶命の光景にも炎は無情にもとどまることなく、壁から家具へ……火の手は容赦なく乗り移っていき、俺が縁側から侵入してきた時とは全く違う炎の世界に室内を変えていく。
熱い……全身を焦がされる気分だ……。
体中の水分が搾り取られる。
体制を崩してから倒れていた俺は意識が朦朧としていた。おそらく室内に立ち込めている煙を吸いすぎたせいだろう。立ち上がることもできなくなっていた。
「ゲホっ! ゲホっ! エ、エリカ……」
くそ……なんだよこれ……やっとだっただろ……。
エリカに言ったじゃないかよ……今から楽しいことがあるって……。
なのにこんな終わり方かよ……。
ぼーっと……炎に覆われた室内を眺めていた。しかしその視界すらもかすんできて、これが死ぬってことなのか、と自分の死の淵を悟った。
「エリカ……ごめんな……」
二階にもう一度視線を送る。
もう無理だと目を閉じようとした。
その時、誰かに俺は体を預けるように抱きあげられ、そのままさっき俺が真白先生にしたように肩に手を廻すような体勢で連れていかれた。
手のひらで感じたのは分厚い服の感触……防護服?
救助されたのか……と、以外にも冷静に判断でき、その意識だけがあった。
そして涼しい場所へと出された俺はすぐに白いシーツに寝かされた。
「大丈夫ですか? 意識はありますか?」
男の声の問いかけに対して俺はすぐに応える。
「はい……大丈夫です……」
そしてすぐさま大事なことを思い出し、血相を変えて伝える。
「な、中に、まだ中にいるんです! エリカが……女子高生の子が一人!」
「わかってます。今救助に向かってますから、安心してください」
救助隊の男性の声は俺を落ち着けることに意味をもっていて全く感情がこもっていないように思えた。なので俺は再び立ち上がろうとする。しかし、今になって体へのダメージが大きかったことを思い知る。立てない、何度起き上がろうとしても足に力が入らずに止まってしまう。
どうすれば……。せめてエリカの声が聴きたい。
は! っと閃いた俺はポケットのスマフォに手を伸ばす。火事の最中にいた熱のせいで電源が入らなかったらどうしようかと一瞬焦ったが、ボタンを押すといつものように画面が明るくなり安心しする。
履歴から着信の欄の一番上に望んでいる名前が表示される。あたりまえか、このスマフォに登録されているのは一人しかいないのだから。
震える指で『鳳蘭エリカ』をタッチした。
『プルルルルル……プルルルルル……プルルルルル……』
頼む……繋がってくれ……一声だけでもいい……エリカ……声が聴きたい……。
『プルルルルル……プルルルルル……プルル』
一定の間隔で流れる呼び出し音が途切れた。
「エリカ! 俺だ! 大丈夫か!」
繋がった瞬間に喚声にも似た声をあげてしまう。そしてまた大丈夫ではないであろう相手に向かって大丈夫かの一言をかけてしまう俺は成長していないな。だけど今は学習能力が無いと言われようがにぶい男だと言われようが構わない。エリカの声が聴ければ。
『……ロシ……君』
途切れた声、でも確かにこの電話の向こうにいるのはエリカだ。
「エリカ! がんばれ! もう少しでそっちにも助けが行くからな! 口を何かで塞いでるか? 煙をできるだけ吸うな!」
声が聴きたいと願いながらも口を塞げだなんて俺はどこまで自分勝手な男だ。でも煙を吸うなというのは体験済みだから言えることだ。
『ヒロシ君……私……ダメかもしれません……すごく熱くて……』
「何言ってるんだよ! 熱いのはもう少しだけだ。すぐに助けが行くから」
『助けに来れないかもです……だって……周り一面が火に覆われてて……まるでいつもの私みたいですね……独りぼっちの世界です』
「エリカ……独りじゃない……もうおまえは独りは卒業したじゃないかよ。明日から楽しいことだらけの毎日だって教えたばっかりじゃないかよ」
『そうでした……ヒロシ君のおかげで……私は……』
『――こちら――! 生存者――! 安否を――!』
スマフォから途切れては聞こえるエリカの声に重なるように男性の生存者を確認するような声を俺は電話越しに耳にした。
やった! 消防士が遂にエリカの部屋にたどり着いたんだ!
俺は心の中で歓喜した。
「エリカ! ここまで聞こえてきたぞ。エリカも聞こえただろ、助けが来たんだ。もう大丈夫だ!」
『ヒロシ君……私は……実は……あなたに……』
「なんだ? 俺が――」
瞬間――輝き寮からとてつもない爆発音が筒音のようにとどろく。
激しい地鳴り、そして外にまで伝わる熱風。
その衝撃と轟音で周りに集まっていた野次馬たちは、やっと事の重大さを知った無知な生物のごとく輝き寮から、アリの巣をつついたように散会していく。
悲鳴と残響が交錯する中で一人、俺は呆然とその光景を眺めることしかできなかった。
え?
なんだよ……。
二階のあの辺りって……おい……待ってくれよ……。
爆発が起きた場所を何度も目と脳で確認したが、信じたくなかった。見間違いであってくれと、何度も、何度も、願った。
神様、俺は何もいらない。この先ずっと勃起が収まらなくてもいい。なんなら世界で一番運勢が悪くなってもいい。何をしても成功しない人生でいい。
だから、だからさ、さっきの爆発が起きたのがエリカの部屋だという事実を消し去ってほしい。
どこで間違った?
真白先生よりも先に二階に行ってエリカを救出しなかったからなのか。
エリカが助かったと一瞬でも気を許したせいなのか。
俺がもっと強く願えば結果は変わっていたのか。
俺の命に代えても、エリカを守っていれば……。
一段と火の手が大きくなって卑劣に燃え盛る輝き寮を見てはそんなことを考えていた。
スマフォに耳を傾けると、エリカの声はおろか物音ひとつ聞こえない。ゆっくりと耳から離して画面を見ると通話は途切れていた。
そこから先は何も覚えていない。
翌日、病室で耳にした。
エリカが死んだ、と。
どうも!
RYOです!
お読みいただきありがとうございます!
この物語もついに最終局面を迎えます!
なんとか年越しまでに……無理かもしれませんが精いっぱい執筆したいと思います!