裏月神社
今年のGWはどうも天候に恵まれないようで、五月一日も朝から灰色一色の空が広がって雨が降り続いていた。
俺は輝き寮の自分の部屋で一冊の本を読んで頭にあらゆる単語を叩きこんでいた。
「フォアボール……投手がストライクゾーンから外れた球を一打席中に四球投げると打者は一塁に進塁できる……って、マジで? そんな特殊ルールがあるのかよ!」
本を片手に俺は一人で高揚した。ヒットと同じじゃないか。じゃあトラタロウにボール球を四球投げさせることができれば……と、一瞬で閃いた俺はすぐにストライクゾーンが載っているページを開いた。
「膝から上……肩の高さまでがボールか……こんなの誰がわかるんだよ。野球のルールってのは曖昧だな。これなら打席に座っていたら全部ボールになるんじゃないのか」
「バカ、あんた本気で言ってんの?」
必死に無い知恵を振り絞って作戦を練っていた俺を罵倒したのはコナツ。彼女は俺の部屋の扉にもたれかかりながら腕を組んであきれた顔をしていた。そして妙に露出度の高い服を着ている。しかも色は黒。朝っぱらから誘っているのかこいつは。
「コラコラ、人の部屋に入るときはノックをする。それになんだよ、その露出狂のような服装は」
「ノック? あたしまだ部屋に入ってないもの。それにそんなこと言う割には扉が開けっ放しじゃないの。それにただのキャミソールよこれ。日ごろから変態なことばっか考えてるから露出しているとしか脳が解釈しないのかしら」
「全国屁理屈大会とかあったら優勝ですねコナツさん。部屋が開けっ放しなのはこの季節がちょっと蒸し暑くなるからで」
「あたしじゃなくて、エリカちゃんが部屋の前を通った時に話しかけてくれることを期待して部屋を開けてたんじゃないの?」
ダーツで放った矢が的の真ん中に命中するように、図星だった。別に必死に野球の知識を蓄えている所をエリカに見せたかったわけではない。ただ、あのショッピングモールに行った日から雨が続いていたから二人きりで喋る機会が無くて、つまり……恋しくなっていたんだ。あれからもバッティングセンターにはもちろん足を運んで練習に励んだけど、エリカの隣には絶対にコナツがセットでついてきていた。ファーストフード店でハンバーガーを頼んだ時についてくるポテトのように。この場合は悪い意味を例えるために言ったけどポテトは好きだ。
「ま、それも、ほんの、ごくわずかに、多少、おおむね、ごくごく、あるかもな」
「要するに完全にそれ狙いってことね」
「まじめに勉強してたんだぞ?」
「勝負前日に座学の時点で遅いでしょうが! 勝負は明日なのよ?」
「何も言い返せない自分が悔しい……本を読むのが苦手っていうか文字を読むのが苦手でさ……漢字とかもわからないのが多くて。でもやる気はものすごいぜ?」
「そんなやる気のある人が、バッターボックスで座ればフォアボールを狙える、とか聞いてあきれるわよ。座ったら打つ意欲が無いとみなされてその時点でアウトよ」
「マジですか」
「マジです」
俺の考えた作戦はいとも簡単に却下されてしまった。とんちが大好きな一休さんならやりそうだと思ったんだけどな。
「知ってるけど質問するわ。それで、ヒロシ君はバッティングセンターで何キロのボールならバットに当たるようになったのかな? ああ、ちなみにバットに当たるっていうのはフェアゾーンに飛ぶことを言うんだからね。ファールとかじゃないから」
「ふふ……聞いて驚くなよ……百キロなら前に飛ぶぜ!」
「トラタロウの球速は何キロですか?」
「……百四十キロです」
だめだこりゃ、と、両手を顔の横に広げてポーズをとったコナツ。このやろう! ひ、人の努力をバカにしやがったな!
「よ、四十キロぐらい気合いでカバーしてやらぁ! それにエリカだって『すごいですヒロシ君!』って拍手してくれんだぞ!」
「お世辞って言葉をご存知かしら? そりゃあエリカちゃんが『おいクソ野郎、トラタロウの球速知ってんのか? てめぇが今打ってバカみたいに喜んでるのは中学生の野球少年が練習の時に打つ球速の球だ。ぬか喜びしてないでもっと練習しろやクソが』って本心を言うとでも思ってるの?」
「それはコナツの本心だろ!」
「ばれたか」
ペロッと舌を出すコナツ。エリカほど可愛くないし、なんか怖く思えてきた。
「ひでぇ……」
「まぁ、でも、ずぶの素人がこの短期間である程度打てるようになってきたのは素直にすごいと思うわ」
「なんだよその落としてから上げる戦法は」
「またばれたか」
またもやペロッと舌を出すコナツ。悪魔のような表情だ。大天使エリカとは大違いだぜ。
「あ~あ、トラタロウに勝つ作戦をたてないとな~」
ベッドの上で伸びをした俺は足元に置いていた本を誤って蹴っ飛ばしてしまった。床に落下した本はあの雨の日の放課後に図書室で借りたものだ。おっと、学校の財産をこんな扱いしてしまった、と拾おうとした瞬間にコナツが部屋の入口から室内にズカズカと侵入してきた。
「お、部屋に入ったな。ノックを……」
「黙って」
「はい」
なんだよ、やっぱノックしないじゃないか。
コナツの揚げ足をとって勝ち誇った顔をしていた俺だったが、冗談交じりの俺の発言を全く聞き入れる気が無い彼女。そして一目散に落下した本に手を伸ばした。
「これどうしたの」
「ああ、この連休に課題が出ただろ。それの資料にと思って図書室で借りたんだ。正確に言えば借りるまでは考えてなかったんだけどな」
思い出されるのは図書委員の逆鱗にふれる寸前までいった苦い思い出。
「そう。じゃあ、一つ質問していいかしら」
質問が好きなやつだな。コナツはさっき拾った本から視線をそらさずに低い声で言う。あまりにもさっきとは声色が違うので俺はその問いに対して声を出さずに頷いた。
「この場所に行ったことある?」
俺に本を突き出すコナツ。落下した時に偶然開かれたページに掲載されていたのは小さな赤い鳥居がある神社。
「ここがどうしたんだよ」
「ないの?」
「知らないな。こんなところ行ったこと……」
ないはずだった。が、なぜかその古びた神社の写真を見れば見るほどに俺はその場所に訪れたことがある。いや、それ以上にそこは大切な場所のような気がして、嘘ではないけどその写真に載っていない内装や建物がどうなっているのかが頭の中で把握している。もっと言えばその神社の名前さえも今頭の中に飛び込んできやがった。
「どうしたの、ひどい汗」
「汗?」
額を手でぬぐうと、びっしょりと汗が手にへばりつく。
「もう一度、少し質問を変えるけど、この場所を知ってるわね」
取り調べを受ける容疑者のような立場にされている感じがする俺は、その質問に正しく応えるべきが悩んだ。なぜかコナツに知っていると言えば予期せぬ事態になりそうな予感がしていて、うまく表現できないがここはふせておこう。
「やっぱ知らないな」
「いやいや、絶対知ってるでしょ。そんなに汗をかいておいて知らないとかありえないからね」
鋭い目つきのコナツは確信をつくように俺をさらに問いただしてきやがった。確かに汗が止まらない。なんなんだよ、俺は何を知ってるっていうんだ。この汗の意味は?
「違う、何も知らない」
「ここは裏月神社。伝説があるの。昔、ある一人の男性を好きになった女性が」
あの日、エリカが言っていたことを語り始めたコナツ。この展開はまさか……脳裏に浮かんだのは辺りが真っ暗闇に変わるコナツ現象。そして頭にとんでもない激痛が走ることを俺は思い出し「やめろっ!」と彼女に対して怒声を浴びせた。
「その様子は何か知ってるのね。そして……もしかすれば私の存在にも気づいてる」
「おまえの存在? なんなんだよ! 意味わかんねーよ!」
「そう、私がここにいる存在、そしてあなた自身の存在よ」
その瞬間、予想していた通りにコナツの背後から黒い影が伸び始めた。
五月は蒸し暑いはずだろ?
なのに背中に寒気がはしる。
やめろ……やめてくれ……。
ヤバいと思った俺はその黒い影が空間を包みきってしまう前に部屋から飛び出した。
「きゃ!」
勢いよく飛び出した俺はエリカとぶつかりそうになる。彼女は私服姿だった。
「あ、ヒロシ君……さっき怒鳴り声みたいなのが聞こえてきたので……心配で……」
「ごめん……ごめんエリカ」
不安そうに見つめるエリカを置き去りにして俺は輝き寮を飛び出した。
「ヒロシ君!」と玄関から聞こえてきたがそれすらも振り切って俺は何かから逃げるように走った。
傘もささずに飛び出したせいで雨は俺を濡らしていく。
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無我夢中だった。走りに走ったせいで息が切れ始めて、俺は足を止めた。
膝に手をついて息を整える。その時も雨は容赦なく流れ弾のように当たって体を濡らしていく。明日はトラタロウとの試合だ。風邪をひいたら元も子もないと思った俺は雨宿りできそうな建物を探す。
公園の遊具の中……車の下……木陰……なぜか雨の日に行けば雨を凌げそうな場所がいくつも脳裏に浮かぶ。しかし、そういった場所が見当たらない。
もういっそのこと他人の家でもいいかと思った矢先に目に飛び込んできたのは一番近づきたくない場所だった。
赤い小さな鳥居に掘られた文字は、すりへっていてはっきりとは確認できないほどだった。それなのに俺はその文字がくっきりと肉眼でわかってしまった。
「裏月……神社……」
さっきあんなことがあった後でこの巡り合わせって、良いことなのか悪いことなのか、それすら自分ではっきりしなかったが、これ以上雨に濡れるわけにもいかないので不本意ながら鳥居をくぐって足を運んだ。石畳を進んで行くとどこにでもある賽銭箱、木でできた五段ほどの階段、そのどれもが見る前から脳の中にインプットされていて、気味が悪くなり吐き気がする。
賽銭箱の階段に腰を下ろして頭を抱えた。
「この場所が……俺のなんなんだよ」
気持ちの奥底をえぐるような裏月神社という場所や環境が俺を苦しめていた。この場所に来たのは人生で今日が初めてだ。でも記憶にあるような無いような気持ち。
夢でこの場所を見たっていうのはどうだろうか? そういうのをなんていうんだっけか……デジャブ?
自問自答を繰り返していくうちに自分自身が納得のいく答えを探していることに気づいた。俺はその行為自体に嫌気がさして髪の毛をぐちゃぐちゃにした。
思えば自分の実家の場所がわからなかった。両親の顔や名前、兄弟はいたのか? 中学の名称。忘れるとかそういうレベルの話じゃない。
この世界に一人とり残された気分だよ……。俺は膝を拳で殴る。痛い、その感覚があることでまだ存在を確認できた。
「ヒ……君……ロシ君……ヒロ……」
絶望しきっていたころ、雨音でかき消されそうな細い声が俺の名前を呼んでいた。
俺の唯一の存在を示してくれるヒロシという名前を呼んでいてくれたのは、ピンクの傘をさしているにも関わらず、髪の毛先が少し濡れていたエリカだ。傘をさしているにもかかわらず毛先が濡れているのは俺を走って探してくれたからだろう。その証拠に彼女は息が少しあがっている。
「エリカか……ごめんな。探しにきてくれたのか」
「すごい勢いで飛び出していったので心配で……あの……コナツさんと何かあったんですか?」
「あったって言えばあったかな」
「まさか……特殊体質がばれたとか……」
「いや、違うよ」
「それじゃあ、どうして……」
自分が何者なのかわからなくなったんだ、とは言えるはずがなかった。エリカに返す言葉がみつからないままでいた俺は無言でうつむいてしまった。
何か言い返せよ俺……シカトとか最低じゃないか。
そんな俺を見てエリカは傘をたたみ、静かに横に座ってくれた。
「言いたくないことだってありますよね。ごめんなさい」
エリカが横に座ってくれたおかげで心なしか気持ちが楽になったような気がした。
雨で濡れた体が冷たくて、それと比例するように心も冷たくなっていた俺を何も言わずに温めてくれた。
「俺さ……」
そんな時、自然と口が開いた。
「時々おかしいんだよ。自分でもわからない感覚に陥ることがあったり、この場所だって初めてな気がしないんだ。小さいころに来たことがあるのか夢の中で来たことがあるのか……そんな曖昧な感覚とコナツに言われたことが重なって……自分がこの世界で生きてることすら気持ち悪くなってさ」
気持ちだけで喋ったので上手く言えなかった。たぶん、こんなのじゃエリカも困るよな。何言ってるんだこいつ? って思うよな。
「私も一緒のこと思ったことありますよ」
エリカの返答に俺は耳を疑った。それは予測していたものと全くの別だったから。
「自分がなんなのか、どうして私はこんなのだろうって、ずっと思ってました。だって、女の子が男の人の前でオナラをするんですよ。笑っちゃいますよね。初めてこの症状が出たのが中学の教室でした。クラスの男子の子が提出用のノートを集めに来てくれてその時に……その日から私は孤立しちゃいました。クラスで他の子が話している内容が全部自分のことを言っている気がして怖くなって」
エリカの手は震えていた。
自分の体験談、しかもトラウマな部分を話すのはとても怖いのだろう。嫌な過去を話すことになるし、その話がきっかけで嫌われるのではないだろうかというリスクが付きまとうからだ。俺はエリカのこと嫌いになどなったりはしないけど。
「でも……勇気を振り絞って高校に入学してよかったです。さすがに地元の高校には行けなかったですけど。だって、ヒロシ君に出会えたから。それにヒロシ君のおかげでこうして寄り添って話せるようにもなりました……自分が負けそうになっていた特殊体質を克服してリベンジができたから……だから……もし、誰かにヒロシ君が誰なのか聞かれたらこう答えます」
エリカの手の震えが止まる。
「ヒロシ君は私の大切な人です」
その言葉が耳に入ってきた瞬間に俺はエリカの顔を見た。横に座っていてくれてからずっとうつむいて、時々、彼女の手を見ることしかなかったからまともに見れていなかったが、彼女は優しく微笑んでいた。それに対して俺はというと、自分の頬を一滴の滴が流れていった。
「ひ、ヒロシ君? どうしたんですか?」
「あれ? なんで俺ってば泣いてんだ? おかしいな? あれ?」
なぜ泣いているのかぐらい俺は理解していた。
悲しいからじゃない。
雨に濡れて寒いからじゃない。
嬉しかったんだ。
自分が何者なのか。存在の意味すら見失っていた俺が、やっと答えを見つけることができて、嬉しくて嬉しくて。ああ、これを嬉し泣きっていうんだろうな。
「す、すいません! 思いっきり的外れなこと言いましたね。私ってば何を言ってるんでしょうか……い、今のは忘れてください」
「忘れないさ」
いつものように顔が赤いエリカの目を見て俺は言った。
「俺の存在理由を知っている人の言葉を忘れるわけないだろ」
「ヒロシ君……ありがとう……」
本心をそのままエリカにぶつけた。彼女に存在している意味をもらった今でもこの場所や俺が何者なのかはわからない。
それでも、立川ヒロシの生きる意味が鳳蘭エリカの大切な人ってことを胸に焼き付けてこの世界を生きることにしよう。
そうだ、前向きに考えるんだ。こんな勃起する特殊体質を発症させるぐらいなのだから俺はどこか病気なんだ。記憶喪失の初期段階と思えばいい。
その考えに無理があるのは重々承知だが今はそれでいい。
しばらく沈黙の後、エリカが肩を小さく震わせた。
「ごめん、寒いな。もう俺は大丈夫だから寮に戻ろうか」
重い腰をあげて俺が立ち上がるとエリカは俺の服の袖を引っ張った。
「エリカ?」
「もう少し……ここにいませんか……寒くないです……ヒロシ君となら……」
顔が真っ赤になったのはエリカ……じゃなく、俺の方だった。彼女は頬をほんのり赤く染めただけでいたって普通だ。
あれ? エリカってこんなに大胆な行動するやつだったか? 俺の方が押されてるじゃないか! それにしてもヤバい……息子が元気になってしまった……とりあえず俺は再び腰を下ろす。
するとエリカは俺の肩に自分の頭を預けて寄り添った。雨に濡れたせいだろうか、いつも以上に香る彼女の匂いに俺の理性がぶっ壊れそうになる。今の理性を例えるのなら線香花火が最後の最後で火種が落ちるか落ちないかぐらいにまで達していた。補足するとこれが落ちれば何をするかわからないということだ。
これは完全にいいタイミングではなかろうか?
つまり、その……き、キ、ききききき、キ、キスをしてもっ……!
気づかれぬよう首を動かさずに横目でエリカの様子をうかがう。変わらず頬を赤らめてうつむいている。
待っているのか? うん、絶対にそうだよ。しても大丈夫だよなキスを。男と女が唇と唇を重ねるキスを。愛のあるキスを。マウストゥマウス。
ああ……だめだ……考えれば考えるほどに恥ずかしくて死にたくなる。世の中の男女のカップルはどうやってキスをするんだよ。シチュエーションなのか? だとすれば完璧だろ、雨の日の神社に二人という設定だけで軽く合格だ。いや、待て、根本的に俺とエリカは付き合っていないぞ? つまりは彼氏彼女の関係ではないじゃないか。一方的に俺がエリカを好きなだけで勢いあまってキスをすればエリカが驚いて俺は反撃の平手打ちを喰らうという悲惨な場面も想像できる。でもこの場面を創り出したのはエリカだし、あそこで俺の服の袖を引っ張って止めていなければ今頃は寮への帰路を楽しく会話しながら歩いているはずだった。ってことはエリカもキスを望んでいるということになるな、そうとしか思えないし、そう思いたい。
脳内での強引すぎる会議の結果、キスをしたい政党が反対派を言いくるめ、してもいいこととなった。決め手はエリカもそれを望んでいるという解釈が彼女の今までの言動や行動から確実なものになったからである。
そうなると次はどうやってキスにもっていくかが議題としてあがった。押し倒すのは絶対にだめだな。公衆の面前だし、なによりそんなことをする勇気などない。せっかくエリカの方から寄り添ってくれているのだから覗き込むように彼女の顔に接近して唇を奪ってしまおう。さりげなく、そして自然に。
作戦が決まり、俺は人生で初のキス、俗に言うファーストキスを実行すべく少しずつ首をエリカの方向に回転させていく。
さりげなく……普通に……慎重に……。
人間というのはすごいもので、こういう時の心臓は本当にバクバクする。極度の緊張が心臓を激しく動かしているのだろうか。そして全身の体温が急激に上昇しているのも実感している。
少しづつ首を動かしてこれ以上動かせば確実にもたれかかっているエリカに動いているのがバレるだろうという可動域にまで達したところで少し呼吸を整える。ここから先は瞬時に動かないと……大丈夫、パっと彼女の顔の前に行き唇を奪えばいいんだ。
武者震いというのだろうか、足が震えてきた。キスというのはこんなにも緊張してするものなのか、だとすれば世の中のカップルは全員度胸が据わっててすごいな。
落ち着け……落ち着け立川ヒロシ……。
エリカだって絶対に望んでいるさ、そうじゃなかったら雨に濡れて寒いのにもう少しここにいたいなんて言わないだろ普通。
『大切な人です』
自分の心を踏み出すためにエリカが俺に言ってくれた言葉を心の中で思い出した。
そうだ、これは普通のキスじゃない。エリカが俺の存在や生きる意味を教えてくれたんだ。だからそれに応えるためのキスなんだ。そう思うとさっきまでの緊張や足の震えがピタリと止まった。
いける……大丈夫だ……。
俺はエリカの顔を覗き込んだ……そして彼女の唇を……。
スっ……バタっ……。
が、覗き込んだ瞬間にエリカは支えを無くした木の枝のように横に倒れてしまった。
「え……ちょっと……エリカ!」
見るとエリカは額に微量ながら汗をかいていた。息を荒くして、頬はやんわりと赤く、どう見ても体調が悪いのは一目でわかる。ずっとうつむいていたからわからなかった。すぐさま彼女の額に手を当てる。
「熱い……」
「……ヒロシ君……ごめんなさい……頭がぼーっとして……風邪ひいちゃったみたいです……でも……ここにヒロシ君を探しに来たせいで体調が悪くなったわけじゃないですよ……朝、起きた時から少し体調が悪くてですね」
「もう、喋らなくていい。急いで寮に帰ろう」
触れただけで熱があるのがわかるぐらいだ。相当苦しいに決まっている。それなのに、こんな時でも俺に責任を感じさせないように朝から調子が悪かったなんて言うエリカ。ほんとどこまで優しいんだよ。
俺はすぐにエリカの体を背中に背負った。体越しでもわかるほど彼女の体は熱くて、そう思うほど自分がみじめになる。こんな時にキスをしようだとか、もっと遡れば俺が寮を飛び出さなければこんなことにはならなかったのに。
「俺ってやっぱりバカだな……」
ボソッとつぶやくと、俺の背中が少し揺れたのがわかった。
「そんなことないですよ……ヒロシ君は……」
揺れたのは俺のつぶやきに対してエリカが首を振ったのだ。
本当にどこまで……。
何かを言えばエリカが反応してしまうと思った俺はそのまま無言で歩き出した。ピンクの傘で彼女を覆っていたので俺は再び雨に打たれた。
雨が俺を濡らしていく。その度に、雨で濡れたシャツの重量とエリカに対する罪悪感が増していった。
RYOです!
MF文庫新人賞まであと二か月……がんばります!