「〝怪盗黒猫〟は一部で色を盗むと言われている」
倉田は続ける。
「〝黒猫〟についての知識は?」
「少しだけ。泥棒で、予告状とか送ってくるって……ネズミ小僧って言われてるとか、愉快犯だとか、あと……悪いところから盗むって……」
悪いところ。それはつまり。
蒼泉は目を伏せた。
「……悪いこと、してるんですか」
「最近はちょっとな」
「……ふつう誤魔化しません?」
「今さらだろ。ボスも言っていたが〝黒猫〟に狙われた時点でアウトだ」
言いながら彼は煙草を取り出す。
鮮やかな手つきで火をつけ、吸い込む。
大きく吐き出された煙に蒼泉はむせた。
携帯灰皿を持っているようだがそういう問題ではない。
(本当に別人じゃないの、この人!)
叫んでやりたいが声にならない。
一方、咳き込んでいる蒼泉を見て倉田は笑う。
全く。悪い冗談だとしか思えない。
「それより俺にも気になることがあるんだ。いいか?」
「へっ?」
「さっき俺が言ったこと」
「えーと……?」
「何故おまえはそんなに気を遣っているのか、だ。居候ったって、もうすぐ養子としてこの家の一員になるんだ。その事実は変わらない。それなら堂々としてりゃいいじゃねぇか。ボスはともかく、夫人はおまえのこと、子どものように思ってるんだろ?」
「……もしかして見てました?」
「見たんじゃない。見えたんだ」
言い訳だ。
そう思ったが反論する気にはなれなかった。
蒼泉は椅子の上で足をぶらつかせる。
倉田の言い分はもっとものように聞こえ、だからこそ言葉に迷う。
「あの……倉田さんにはどう見えましたか? 静江さんとオレのこと」
「は?」
煙草が上下に揺れる。倉田は眉を寄せた。
「――過保護、かねえ」
「過保護……」
「気を悪くしたならすまないんだが。ちょっとベタベタしすぎには見えたな。しかもありゃ、一方的に夫人がおまえに依存している。違うか?」
蒼泉は左右に首を振った。違わない。
こちらを見る倉田の目は続きを求めているようだった。
その迫力に早々と白旗をあげ、蒼泉は宙を睨む。
音にしようとする言葉はどれも頼りない。
誰にも、秀一にも詳しく話したことがないので上手く説明出来る気がしなかった。
「……聞いた話なんですけど、ここには子どもがいたんです。二人の本当の子ども。生きていればオレと同い年なんだけど、何年か前に亡くなっちゃったって」
「それで養子を?」
「はい。松山は最初、反対してたって。だけど静江さんが、子どもがいないことに耐えられなくて……それでオレを引き取ることにしたんだそうです」
それでも他人を子どもにすることを松山は嫌がった。
そのため妥協する形で、当時は養子でなくただの居候という身になったのだ。
しばらくはそれで過ごしていた。
しかし今になって、静江の状態が悪化した。
蒼泉にどこまでも依存するようになったのだ。
そして蒼泉を実子にしたがった。
最初は松山も渋っていたが、普段は気の弱い静江がこればかりは引き下がらないことに驚き、押し切られたらしい。
やや不満そうではあったが蒼泉を正式に養子にする話を受け入れた。
これを美談としてアピールしてしまうのだから何とも言えない。
「この家じゃ誰もオレを見てくれない……」
こぼれた言葉は無意識だった。
倉田は何も言わない。立ち上る煙を見ている。
「松山はオレのことを必要となんてしていないし、むしろ邪魔に思ってる。静江さんは松山のいないところでは優しくしてくれるけど、それだってオレのことを思ってじゃないんだ。誰でもいいんだよ、オレは代わりでしかないんだから。……ワガママだってわかってる。でもオレ、この家にいるとオレがオレだってこと、生きてるんだってこと忘れそうになる……何のためにいるのかわからなくなる。それが怖くて嫌なんだ」
だから。
だから嫌なのだ。
言葉にしたことで自分でも気持ちがはっきりとしてきた。
蒼泉は慎重に息をつく。
胸の奥に引っかかっていたものが取れたようで、それでいてかえって押し潰されるような苦しさも感じる。
「……なるほど、な」
ポツリと呟かれ、蒼泉はハッとした。
見るといつの間にか倉田は煙草を携帯灰皿で潰している。
「うわ、すいませんくだらないことをペラペラと!」
「いいってことよ。俺から聞いたわけだし」
「それはそうですけど……」
「なかなか興味深かったぜ」
笑った倉田が音もなくベッドから立ち上がる。
彼は乱暴に蒼泉の頭を撫で回した。
それは痛いほどで慌てて椅子ごと離れる。
「何するんですかっ」
「別に」
倉田はあっさり離れたが、大きな手で思い切りかき回されたからだろう。
髪が残念なくらいぐしゃぐしゃだ。
しかも頭を撫でられるほど子どもだとは思っていない蒼泉としては複雑極まりない。思わず仏頂面になってしまった。
だが、倉田は相変わらず自分勝手な雰囲気を纏い、少しも気にした様子がない。
「ま、礼というほどじゃないが俺も一つ情報をやろう」
「……はい?」
「〝怪盗黒猫〟は一部で色を盗むと言われている」
「い、ろ? 色って、赤とか黒とか、あの色?」
「ああ」
物分かりがいいな、と倉田は口元だけで笑った。
しかし蒼泉は笑えない。
物分かりがいいと言われても褒められている気がしなかった。
実際、蒼泉にはさっぱり倉田の言いたいことが理解出来ない。
色を盗む?
「絵を真っ白にしちゃうとか?」
「違ぇよ」
否定する倉田の声は若干楽しそうだ。呆れも混じっているのだろうが。
彼は思いがけず優しい瞳で窓の外を見やった。
「世界には色が溢れている」
スーツやネクタイを直しながら倉田は続ける。その動作は妙に手馴れていた。
「色にはたくさんの意味があるだろ? おまえが最初に言った意味での色もあれば、容姿のことや愛情のことを指す場合もある。例えば顔色が悪いなんて言い方もするし、色情、色気を出すなんて言葉もあるな。それと階級。当色っつうんだったかな」
「平安時代とかだと階級で服の色が違うって習ったけど……そーゆうこと?」
「お、いいじゃねぇか」
すんなり褒められるのは何だか不思議な気分だった。
少しだけ照れくさくて蒼泉は目を逸らしておく。
同時に彼の言いたいことが何となくわかってきた。
〝黒猫〟に盗みを働かれた人の多くは逮捕される。
それはつまり、盗まれた人にとって階級という色を盗まれたことになるのだろう。
顔色の例をとれば、顔色が青ざめることを「色を失う」と表現することもある。
盗まれ、逮捕されればこれもまた「色を盗まれた」と言うことが出来るわけだ。
こじつけではあるが、良心的に解釈すれば詩的でもある。
「そうだ、色がどうやって見えるかは知ってるか?」
「え、と」
納得しているところにさらに質問を投げかけられ、蒼泉は少々戸惑った。
倉田に見据えられると落ち着かない。
答えないわけにはいかないという変なプレッシャーがのしかかって来る。
しかし、倉田が望むような答えを持っている自信はなかった。
授業はそこそこ真面目に受けているが、それほど優等生でもない。
鞄に入ったままの成績表がそれを物語っている。
(どうやって見えるか、って……)
「光の量によって変わるんですっけ?」
「大雑把に言うとそんなもんだな」
――いまひとつのようだが、及第点ではあるらしい。
「ま、そう単純に説明出来るもんでもないんだが……人間の網膜にある錐体っつー視細胞が色覚を受け持っている。それも青錐体、緑錐体、赤錐体と呼ばれる三種類がある。そいつらが吸収する可視光線の割合が色の感覚を生むわけだ。ちなみにこれは生物学的な話な。物理学的には、物体に入射する何らかの波長の光が観測者の方向へ反射する際にその物体の物性に応じた特定の波長のみが反射されそれ以外は吸収されるという現象が起こる。観測者には反射された光だけが届くためその波長に基づき」
「ストーップ!!」
「何だ、いいところなのに」
意地悪く笑みを見せてくる倉田に顔を引きつらせる。
冗談ではない。これ以上聞いていると頭から煙が出て火事になる。
錯覚だろうか、耳も痛くなってきたようだ。
「け、結論をお願いします」
「簡単なイメージとして色は種々の波長の光を含んでいて、その割合を足したり引いたりして姿を決めていくわけよ。世の中もそんなもんってことだ。〝黒猫〟は世に出回っている金の分配を足したり引いたりしているだけさ。金が世の中から消えるわけでも、世界そのものが消えるわけでもない」
「その意味でもまた『色を盗む』?」
「誰が言ったのかはもうよくわからないけどな。ついでに言えば色は自分だ。自分の芯。心。あくどいことをやって金を儲けている奴らには自身を守り抜けるほど強い自分の色なんて持っていないことが多い。金や仕事以外じゃ盲目になってるからな。そこを〝黒猫〟に狙われるわけよ」
そう言った倉田は宙をつかむような動作をしてみせた。
そのまま蒼泉の額を小突いてくる。
「おまえが生きた心地しねぇのも、おまえ自身の色がぼやけているからだ。うっかりしてるとおまえも自分の色を盗られちまうぜ? そうならないように自分の色をしっかり見つけとくこったな。
以上、独断と偏見を盛大に混ぜた俺からの情報だ」
「はあ……」
曖昧な返事しか出来ない。
倉田の言葉は、わかるようで今ひとつ空気をつかむようなおぼろげなものだった。
ただ、〝怪盗黒猫〟についての知識は今までほぼ皆無だったため、秀一に聞いたときより印象が変わりつつあるのも確かである。
あのときは特に何とも思わなかったけれど。
(面白い。……ううん。興味深い?)
自身の抱いた感情が思うように整理されない。
しかし何かしら動いた気がする。
だからこそ、ふと気になった。
「あの、倉田さん。倉田さんは〝黒猫〟についてどう思っているんですか?」
「どう?」
「その……〝黒猫〟は泥棒なわけじゃないですか。でも悪いところから盗むわけで、しかも色を盗むとかちょっとカッコイイ? ……いや、カッコイイっていうのは不適切だしおかしいんですけど、不思議な感じというか何というか。だから本当はいい奴なんだとか、結局はただの盗人で悪い奴なんだとか。その辺、倉田さんはどう思うのかなって」
しどろもどろになりながらも言葉を並べていく。
そんな蒼泉に、倉田はあまり興味がなさそうに肩をすくめた。
「光そのものに色という性質はない。光を受けた器官が色を作り出すんだ」
「……はい?」
「色の見え方、色覚の延長話みてぇなもんよ。それと同じで、窃盗行為そのものに善悪という性質はないかもしれないってこった。代わりに法がある。道徳観がある。それを基に行為を受けた周りの奴らが善悪を作り出すんだ」
「…………」
「とはいえ、日本は法に縛られた国だからな。――ああ、誤解すんなよ。別にそれが悪いとは思ってねぇから。とりあえず国視点で考えるなら〝黒猫〟は〝悪〟なんじゃねぇか?」
それはやや的外れな答えだった。
蒼泉が訊いたのは、決して客観的な判断のことでない。
蒼泉にだって盗みが法に触れ、だからこそ悪いということくらいわかっている。
聞きたかったのは、それこそ倉田の言う「行為を受けた周りの奴らが作り出した判断」だ。
しかし彼の口ぶりからして、倉田は蒼泉の聞きたかったことをわかっているのだろう。
それでいてあえてあのように答えた。
それは彼自身が〝黒猫〟からの行為を受けるつもりがなく、それゆえ判断をするつもりもないからなのか。
(単にはぐらかされただけのような気もするけど……)
蒼泉が何も言えないでいる内に倉田はスッと身なりを整えた。
軽く眼鏡をかけ直し、にっこりとした――しかし先ほどとは違う、再び機械じみた、笑顔。
まるで空気が、彼の纏う色が変わったかのような。
「それでは失礼」
「う、はい」
倉田は音もなく部屋を出ていった。
一人部屋に取り残された蒼泉は呆然と閉じられたドアを見つめる。
階段を下りていく音すら聞こえない。
あの変わり身といいなんて癖のある人なのだろうか。
「色……ねえ」
ふと見やった窓の外では、また雪が降り始めていた。