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「こっちが〝黒猫〟を捕まえてやるんだ。そうすれば何とでもなる」

 ただいま。

 その言葉に返事はなかった。普段ならドアを開けるなり玄関へ出てくる静江の反応すらない。

 しかし留守ではないようで、居間から微かな話し声が聞こえてくる。


「……?」


 おかしいとは思ったが、特に理由も思いつかない。

 蒼泉は怪訝に思いながらも家へ上がり込んだ。

 すっかり遅くなってしまった言い訳を並べるのも面倒だったので、かえってありがたい。


 靴を揃え、与えられている二階の自室へ向かう。

 鞄は机のすぐ傍に軽く放り投げておいた。


 見渡して視界に入るのは勉強机に本棚、ベッド、洋服類の入ったタンスだけ。

 秀一の部屋と比べれば随分殺風景な部屋だ。

 彼の部屋にはやたらとゲームが置いてあるし、出来損ないのプラモデルがいたるところに鎮座している。

 飼ってもいないハムスターのエサが置かれているのは今でも謎だ。

 さらに不思議なことになぜか芸能人、しかも男性のポスターがデカデカと天井に貼られていた。

 秀一いわくイメージトレーニングのためらしい。

 その隣ではマッチョの男性が爽やかに微笑んでいるのだが、果たして彼の理想像とは何なのだろうか。

 蒼泉は時々、この先も彼の友人でいていいのか迷うときがある。


 ――それはともかく。


(今井美冬、か)


 ポスターであるマッチョの笑顔を無理に追い出し、彼女の慌ただしい反応や笑顔を思い出す。

 悪い印象はなかった。いい子だと思う。

 一生懸命であることが見ていてわかるし、蒼泉の境遇を知っても嫌な態度を見せなかったことに蒼泉自身ホッとした。

 少し変わった子では、あるけれど。


「? 今、音が……」


 思い出し笑いは、下から聞こえた何かが割れたような音で遮られた。

 それに続く怒鳴り声。


「黒猫がなんだ! ……るな! あん…………か!」

「あなた。警察に……」

「言えるわけないだろう! 下手を……こっちが…………!」


 何を言っているのか、所々しか聞こえない。

 これだけでは内容がさっぱりわからなかった。

 しかしその所々で聞こえた「黒猫」の単語。

 それは蒼泉の注意を引くには十分すぎるほどで。


(黒猫、って……)


 今朝の秀一の言葉が蘇る。


『怪盗、簡単に言っちゃえば泥棒だな。予告状とか送っちゃうようなちょっとイカれたキザな奴。それでいて全然捕まらないからマスコミやらも騒いでるんだよ。しかも〝黒猫〟が盗むところは大抵悪さをしてるお偉いさんで、むしろそいつらの方が後々捕まっちゃったりするんだよな』


 怪盗。泥棒。予告状。悪さ。捕まる。

 ――まさか。

 まさか?


「た、ただ野良の黒猫が家に忍び込んじゃっただけだよね! それで花瓶を割られて怒ってるとか。だってそんな、まさか、ねえ?」


 …………。

 …………。


 独り言を呟いてみるものの、微妙な空しさと不自然さが押し寄せてくるだけだ。

 かえって気になってしまった。


 本当は行かない方がいい。

 機嫌の悪い松山と関わってもロクなことがない。

 わかっている。わかっているのだが。


「少しくらいなら……いいかな」


 やはり蒼泉にも好奇心というものはある。

 もしかすると人より強いかもしれない。

 お年頃というやつだし!


 出来る限りの言い訳を心の中に並べて、蒼泉は下へ向かった。

 階段の一つ一つに気を配る。

 静かに、そっと居間のドアを開け……。

 そこにいたのは、松山と静江、それから見たことのない男性であった。

 何の関係もない人が松山の自宅に来ることは滅多にない。

 プライベートに入られることを松山は嫌うのだ。


(新しい秘書の人かな)


 一見しただけでわかるほどの真面目な雰囲気がそう思わせた。

 背が高く、鎧のようにきつそうなスーツをすんなり着こなしている。

 度が強いのであろう眼鏡の奥では瞳が油断なく松山を捉えていた。

 明らかに松山が好む――要するに働くことに関して有力そうなタイプだ。

 苦手だな、と蒼泉はこっそり感想を抱いた。


「どうされますか」


 淡々とした口調で男性は言う。

 松山は苛立たしげに握っていた紙を睨み付けた。


「どうするも何も。言えるわけがない。今が大事なときなんだ」

「あなた、でも……」

「おまえは黙ってなさい」


 厳しい口調だった。

 静江が短く息を呑み、わずかに唇を震わせるようにして口を開く。

 声は出ていなかった。

 恐らく「はい」と返事をしたつもりなのだろう。

 そのまま俯いてしまう。


「騒ぎを大きくしたくないのであれば、いっそのこと盗ませてしまうという手もありますが」

「盗らせる気もない! あんなふざけた泥棒にやすやすと渡せるものかっ。プライドが許さん」

「しかし選挙に響くのはまずいでしょう」

「モノを盗まれた後に逮捕された奴らがいるとニュースでやっていた。それが本当ならこちらだって盗まれるだけで済むかわからないんだぞ!? ダイヤを盗まれてさらに逮捕なんて冗談じゃない!」

「……そうですね」

「捕まえろ」

「――は」

「こっちが〝黒猫〟を捕まえてやるんだ。そうすれば何とでもなる」

「……手を打ってみましょう」


 そう答えた男性の表情は変わらなかった。

 その変わらない表情で、男性は顔を上げる。視線は真っ直ぐに蒼泉の方へ。

 しまった。

 そう思って身を引くが遅かった。

 気づいた松山の表情が強張る。

 目の端がわずかに痙攣していた。

 怒っている証拠だ。

 蒼泉は何度もその癖を見てきた。


「蒼泉」

「……はい」

「何をしているんだ」


 尋ねるような口調ですらない。

 この、人を威圧する物言いは苦手だ。反射的に頭を下げそうになる。


 随分機嫌を損ねたようだと、蒼泉は胸中だけでため息をついた。

 本当にため息をつけばさらに怒りが増幅されるに決まっている。

 誰が好き好んで怒られたいものか。


 蒼泉はこわごわと居間へ入った。

 テーブルに湯のみが一つ置かれている。

 その下には割れた湯のみがもう一つ。これが物音の原因だったらしい。

 顔を上げると、静江がハラハラとした様子で蒼泉と松山を交互に見ている。

 蒼泉はますますバツが悪くなった。


「何をしているんだと聞いている」

「あの、別に何も……。ただ、何かすごい音が聞こえたから。それで気になって、それで、その、どうしたのかなって……」

「おまえには関係ない。部屋で勉強でもしてなさい」

「でも……何か大変なことなんじゃ」

「関係ないだろう!!」


 松山が持ったのは、置かれていた湯のみ。


「あなた!」


 静江の声など聞いていなかった。

 松山はそれを蒼泉の方へ投げつける。


 飛んでくるのは塊。飛び散る茶。

 ガツン、ともパリン、とも形容のしがたい音が背後で弾けた。


 とっさに避けた蒼泉は、湯のみが壁にぶつかり砕け散ったのだと想像する。見たくはなかった。

 静江が駆け寄ってくる。

 投げられた湯のみは相当の勢いだったのだろう。

 静江の青ざめた表情がそれを物語っている。


「大丈夫!? お茶、かからなかった? 破片は? 当たってない!?」


 蒼泉は答えない。

 松山を見ると、彼はまだ不機嫌そうな顔をしていた。

 その顔は「文句があるのか?」とでも言いたげで、また同時に「従わないおまえが悪い」と暗に告げている。


「……ごめんなさい」


 なぜかわからないが悔しかった。しかし出てきた言葉は謝罪だけ。

 これ以上松山の顔を見ていたくなかった。

 居間を出る。部屋に戻ってしまおう。

 部屋まで行けばとにかく――。


「蒼泉っ」


 居間を出たとたん静江に腕を引かれた。

 自分の体がとっさに跳ねたのを、蒼泉は気づかなかったことにした。

 嫌な汗も無理に無視して、恐る恐る顔を上げる。

 静江の表情は今にも崩れてしまいそうなほど張り詰めていた。


「蒼泉、あのね。あの人、今はイライラしていたのよ。だから……」


 泣きそうな顔。まるで迷子になった子どものような。それでいて疲れ果ててしまった老人のような。

 蒼泉はそっと肩の力を抜いた。


「うん、わかってる」

「本当に大丈夫だった? 熱くも痛くもない?」

「大丈夫だよ、静江さん」


 言ってもすぐには信じてもらえないようだった。

 ベタベタと腕やら顔やらを触って確認してくる。

 しかし実際、きちんと避けたこともあり蒼泉は無傷だ。

 静江も一通り確かめて――それでもまだ安心は出来ないようで表情を曇らせる。


「本当? 本当に? 嘘は嫌よ」

「本当。嘘じゃないから」


 笑ってみせる。

 その笑顔に静江もホッとしたようだった。彼女の痩せた頬が緩む。


「良かった……蒼泉に何かあったらどうしようかと」

「静江さんは心配性なんだよ」


 もう一度笑い、蒼泉は静江の肩に手をかけた。

 細い肩。蒼泉の腕をつかんだ手もガサガサと荒れている。


「静江さんこそ疲れてるでしょ? 休んだ方がいいと思う」

「私はいいの。それより蒼泉も疲れてない? 学校は?」

「言わなかったっけ? 明日から冬休み」

「あら……そうだったかしら。じゃあ明日はお昼ご飯もいるのね? 久しぶりだわ! 一緒に食べましょう、張り切って作るから」


 うん、とだけ短く返した。

 しかし一瞬考え、「楽しみにしてる」と付け足しておく。

 疲れの滲んでいた静江の顔がわずかに明るくなった。


「何がいいかしら。蒼泉、食べたいものある?」

「えっと……静江さんの作ったものは何でも美味しいよ」

「選んでくれないのが一番困るのに」


 少しだけ眉をひそめてみせる静江。

 蒼泉は苦笑した。

 だがこちらの反応をよそに彼女は言葉を続ける。


「そうだわ、グラタンにしましょう。ね、蒼泉。好きでしょう?」

「うん」

「そうよね! だってあの子もグラタンが大好きだったもの……。そうよ、あの子の大好きなグラタン。明日はそれにしましょう。きっとあの子も喜んでくれるに違いないわ」

「……うん」


 彼女は蒼泉を見ていない。

 どこか遠くへ思いを馳せるかのように瞳を細めていた。

 蒼泉は「とにかく楽しみにしてるから」とだけ伝えてその場を切り上げる。

 部屋に入るとどっと疲れが押し寄せてきた。


「あー……」


 深く深くため息。

 蒼泉はベッドに寝転んだ。

 制服がシワになるかもしれないと思ったが、明日からしばらく使わないことを思い出し、そのままでいいやと自己完結させておく。

 寝返りを打ち、もう一度深々と息を吐き出した。


 それをかき消すかのようなタイミングでノックの音。

 蒼泉は一瞬、空気を飲み込んでしまったような奇妙な感覚に襲われた。

 慌ててベッドから飛び起きる。

 行儀が悪いと思われるのは厄介なので、寝転がっていたのがバレないように立ち上がった。


「誰?」


 また静江だろうか。そう思ったが、相手は予想外の人であった。


「秘書の倉田です」

「え」

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