(……どう見ても痴漢です)
「年末だなぁ」
一人呟く。
街中、どこを見ても年末や正月に備えるためのものが目立つ。
昨日まで輝いていたクリスマスの影がほとんど残っていない。
現金だというべきか、順応するのが早いというべきか。
学校が終わった後、真っ直ぐ帰りたい気分ではなかった。
家にいてもすることがないし、成績表も――まあ、秀一ほどでないが好んで人に見せたくなるものではない。
仕方なしに蒼泉は街をぶらついていた。
しかし見渡す限り年末ムード。
特に準備をするつもりのない蒼泉は何だか場違いのようだ。
「秀一も連れてくるべきだったか……」
本屋などで時間を潰していたが、さすがにそれも限界だった。
日が暮れ始めた頃には足も疲れてきた。
何もしていないのに気力も減っている気がする。
それに寒い。やはり寒い。
もう帰って、大掃除くらい始めておいた方がいいだろう。
(掃除するほどの部屋でもないけど)
さすが政治家の家、なのか。
蒼泉に与えられた部屋は妙に広かった。
対して、蒼泉の所有物はやけに少ない。散らかす方が大変だったりするのだ。
それに片付けていないと静江が掃除をしに来るので、散らかしておこうとも思わない。
ため息をついて近くの店に視線を移す。
そこに設置されたテレビでは夕方のニュースが始まっていた。
そこでも〝黒猫〟の単語が飛び込んでくる。
ふと興味を持ったが、すぐに〝松山〟という言葉が耳に触れ、蒼泉はそのテレビへ背を向けた。
「何だかなぁ」
独りごちながら駅へ向かう。
――半分くらいは、意地になっているだけだと蒼泉自身思っていた。
松山に感謝こそすれども、悪く思う必要はないはずだ。
事実、蒼泉は随分助けられている。
住まわせてもらっていることも、学費を払ってくれていることも、全て蒼泉にとってはありがたい。
蒼泉一人ではどうすることも出来なかった。
ただ。
――ただ。
蒼泉は首を振った。
難しく考えるのは良くない。
ホームへ移動するとすぐに電車が来た。
中に入れば人の熱気もあって寒さが吹き飛ぶ。
むしろ蒸し暑いくらいだ。
みんな年末の準備で忙しいのだろうか。大荷物の人も多い。
ぎゅうぎゅうに押し潰されながら中の方へ流されていく。
ドアが閉まるとその流れはいったん止んだ。
一息。ようやく落ち着く。
と。
(あれ?)
ふと、蒼泉は視界の隅に一人の少女を捉えた。
同じ制服、つまりは同じ学校の子だ。
何度か見かけたことはあるので恐らく同じ学年だろう。
制服なら見慣れているし、特に気にかけることはない。
何で気になったのだろう、と蒼泉は一瞬思考を巡らせた。
もう一度見て気づく。
彼女の表情だ。
俯いているが、落ち込んでいるような、いや、むしろ泣きそうな……。
…………何かが、おかしい。
彼女はよろけるように視線をあちこちへ向けていた。
その一つが蒼泉の方へ向き、ハタと目が合う。
彼女も蒼泉の存在に気づいたのだろう。視線が止まった。
一度目を逸らし、それでもまた、恐る恐る蒼泉へ向けてくる。
(何?)
それはまるで「助けてくれ」と言わんばかりにすがるような、……。
(――)
気づいた。気づいて、しまった。
彼女の後ろに立つ男の存在に。
こちらからでは顔は見えない。
しかし手は明らかに彼女の方へ不自然に伸びている。
それはつまり、
(……どう見ても痴漢です)
白々しく思いながらも、ため息を一つ。
痴漢とは「痴」の「漢」と書くのであり。
つまりは「おろかな男」を指すのであり。
男の風上にも置けない奴のことを言うのであり。
結論。最悪。
決して男の中の男を目指しているつもりはないが、それでも許せる気がしない。
蒼泉は人の波をくぐり抜けるようにして彼女たちの方へ近づいていった。
小柄なことが幸いした。
多少苦しいものの進めないことはない。
時々人に睨まれたが、そこは苦笑いで返しておく。
――全く迷わないわけではなかった。
こういう現場に遭遇すること自体が初めてで、正直、どうしていいかわからない。
しかし放っておくわけにもいかない。
何より明らかに助けを求められたのだ。
それを無視出来るほど蒼泉の神経は図太くもなかった。
「あの」
たどり着くや否や、男の肩を軽く叩く。
ごつい体が思い切り跳ねた。ぎこちない動作でこちらを見てくる。
だが、男の視線が下がると同時に男の表情に安堵の色が浮かんだ。
カチンとくる。
背が低くて悪かったな。どうせ子どもですよ。
そう思わずにはいられない。
「……何だよ」
「彼女、嫌がってるじゃないですか」
「はあ?」
低く太い声。
彼女の表情にもまた怯えが見える。
蒼泉は顔をしかめた。
「だから」
「何やってんだよあんた」
「いてぇ!」
蒼泉の言葉を遮ったのは女性の声だった。
割り込むようにして男へ近づき、男の手首をギリギリと締め上げている。
相当の馬鹿力だ。締め上げている手は華奢と言ってもいいほどだというのに。
顔を上げて見れば、そこにあるのは整った、しかしどこまでも冷たい無表情。
ポニーテールに結われた、それでも十分に長い少女の髪がさらりと揺れて、顔に当たるのがくすぐったい。
「俺が何をしたって……」
「言い訳するなんて男らしくないんじゃないの、んんー?」
次に聞こえたのは蒼泉の背後から。
これまた女性の声だった。
男の手をつかむ少女とは対照的に、明るく活発な表情をしている。
男を見据える目も「してやったり」と言いたげに自信に満ちていた。
「痴漢なんて女の敵! 成敗しちゃる!」
「俺がやったって証拠がどこにあるんだよ!?」
「うっさい! 犯人はそうやって見苦しく言い訳するものだってお偉い人も言ってたわ! だいたいその垂れ目で助平な顔をしたあんたのどこが痴漢じゃないのか、そっちの方が不思議で世の摂理に反するってもんよ!!」
無茶苦茶だ。
「……っ」
男の舌打ち。
大きく電車が揺れ、ドアが開いた。
長髪の少女の手を振り払った男が転がり出る。
「あ!」
「逃がすかボケぇ!」
短髪の少女が勇ましく飛び出し、長髪の少女は無言でそれを追う。
蒼泉も反射的に走り出していた。
恐らくこれまた反射なのだろう、被害に遭っていた少女もついてくる。
「あ、あの……っ」
「大丈夫だった?」
「はい、おかげで……私、今井美冬といいます」
「オレは水沢蒼泉」
短く名乗り、周りを見渡す。
階段を駆け上がっていく三人の姿が見えた。
速い。
「誰か! 今逃げてる男、痴漢なんです!」
怒鳴ってみるが、周りは唖然として誰も行動に出ない。
戸惑いがちに立ち尽くしているだけ。
蒼泉は顔をしかめた。
だが、少女たちもまた止まらない。むしろ勢いは増すばかり。
「往生際が悪いっ!」
「な!?」
叫ぶなり、追いついた少女が男の足を払う。
男のバランスが崩れた。
背後にいた少女が倒れてきた男の腕をつかみ――そのままねじ伏せる。
沈む男の体。
足場の悪い階段だというのに見事な流れ技であった。そうとしか言いようがない。
「何すんだ! 訴えるぞ……!」
「訴えられて困るのはどっちだろうね」
押さえつけた少女は相変わらず涼しい顔。
少女二人を見たまま呆けていた蒼泉はハッとした。とっさに美冬の手をつかむ。
「え?」
「駅員さん、呼びに行こう」
「あ……」
ポカンとしたままの美冬を軽く引っ張る。
蒼泉一人で行ってもやや説得力に欠けるかもしれないと思ったのだ。
彼女には悪いが、ちゃんと証言してもらった方が手っ取り早くて済む。
「ごめんなさい。私が巻き込んじゃったのに」
「いいって。それより、恥ずかしいかもしれないけどちゃんと証言してもらえる?」
「はい……大丈夫、頑張ります!」
「偉いね」
見るからに一生懸命な様子に、思わず笑ってしまう。
その笑いに照れたのか、美冬の顔がわずかに赤く染まった。
――かくして、痴漢行為を働いた男は蒼泉たちが呼んだ駅員に引っ張られていったのだった。
駅員を連れてきたときに、男がさっきよりもボロボロになっていたのは気のせいだろう。
何やらものすごく怯えていたように見えたのも錯覚だろう。
少女二人がなぜかやたらと満足げだったのも、野次馬根性丸出しだったはずの人々が若干引いているのも、多分きっと、そう、単なる気の迷いだ。
少なくとも蒼泉はそう思っておく。
だから本来なら事情を話すために事務室などに呼ばれるはずなのだが、彼女たちが駅員と少し話しただけで済んでしまったのもおかしなことではないのだ。きっと。恐らく。
触らぬ神に祟りなし。祖先は偉大な言葉を遺していった。
ともかく、野次馬根性丸出しだった人々も少しずつ減っていく。
美冬の周りに残ったのは蒼泉と例の少女たちだけだ。
「大丈夫?」
「何ともないといいけど」
「は、はい!」
少女二人に顔を覗き込まれ、美冬が上ずった声を上げる。それを聞いた蒼泉は笑ってしまった。確かにあの迫力を目の当たりにしていれば緊張もするだろう。味方であれば頼もしいが、敵になると恐ろしすぎる。
「本当にありがとうございました。私、何も出来なくて……」
「あなたが悪いんじゃないわ。悪いのは痴漢!」
「そう。怖かったでしょ」
ポンポンと長髪の少女に頭を撫でられ、美冬が顔を赤くする。
そんなに歳は離れていないだろうに、何だか妙に大人びているように感じられた。
「あの……何かお礼、出来ないでしょうか。何も持ってないんですけど……」
「いいのよう。当然のことをしたまでなんだからさ。気にしない気にしないっ」
「でも、ええと……せめてお名前くらいは!」
食い下がられ、二人が顔を見合わせる。
一瞬悩んだようだった。
しかしすぐに笑顔を見せる。
一方は華やぐような、一方は微かに筋肉を緩めたような。
「深紅でっす。深紅ちゃんって呼んでね♪」
「紗雪」
やはり対照的なようだ。
「深紅さんと、紗雪さん……」
「違うちがーう。ミ・クちゃん」
「み、深紅ちゃん」
「ふむ。良く出来ました」
満足げに笑う深紅。
最初は戸惑った様子を見せていた美冬も小さく笑った。
彼女の気楽な雰囲気に感化されたのかもしれない。
「私は今井美冬といいます。本当にありがとうございました!」
ぴょこんと音がしそうな勢いで美冬が頭を下げる。
深紅、紗雪は小さく笑った。
「今度から気をつけるのよー。怖くて声が出せないんだったら、コレ! あげるから使ってごらん♪」
「これ……?」
「簡易スタンガン」
おいおい。
あっさり言ってのけた深紅に、蒼泉は危うくツッコミをかますところであった。
慌てて踏みとどまる。
もしツッコんでいればスタンガンの標的が自分に回ってくるかもしれない。そんな恐ろしい。
さすがに美冬にとっても予想外だったようで、彼女は受け取ったまま目をパチクリさせるだけだった。
(ていうか受け取るわけね)
案外彼女も大物かもしれない。
「深紅は声を出す前に手が出るから」
「ちょっとー、それは紗雪でしょー? 真っ先にあの脂ぎったオッサンの手を握り潰してたじゃないのよ」
ため息をついた紗雪に、頬を膨らませた深紅。
深紅の言葉はあながち大袈裟でもない。
駅員に引っ張られていた男の手が真っ赤になっているのを蒼泉は見た。
同情をするつもりはないが、見ているだけで痛くなってきたのも確かだ。
二人のやり取りに唖然としていると、ふいに視線がこちらへ向けられた。
ぎょっとして後退る。
何だ?
「少年」
にんまり、向けられる笑み。
「次も守ってあげんのよ」
「え」
「今回、頑張ったじゃん」
「で、でもオレ……」
深紅、紗雪と言葉を掛けられて焦りが隠せない。
蒼泉は戸惑いながら言葉を探した。空気が乾燥しているのか口の中がカラカラだ。
「オレ、何も出来てないけど」
「そんなことないです!」
「うわ!?」
割り込んできた美冬に驚く。その手にスタンガンが握られているので尚のこと。
「水沢くんが気づいてくれて、本当に助かりました。目が合っても気づかないフリをする人もいたのに……すごく嬉しかったんです。ありがとうございました」
「ま、うちらも少年が動いたから気づいたんだしねー」
「駅員をすぐに呼んでくれたのも助かった」
「……べ、別にそんな」
照れくさい。
頬がわずかに熱を持ったような気がして、蒼泉は慌てて顔をそむけた。
赤くなっているだろうか?
「それじゃ、美冬ちゃん。気をつけるのよん」
「じゃあ」
「はい!」
ヒラヒラと手を振った彼女たちは人混みへ消えていく。
その姿はあっという間に見えなくなった。今までこの場にいたのが不思議に思えるほど。
それにしてもあの二人、どこかで見たような?
(……どこだっけ?)
思い出せない。
しばし考え、蒼泉はその考えを放棄した。
思い出せないということは大したことではないのだろう。
少なくとも知り合いではない。
あちらも、蒼泉に対して特に変わった様子は見せていなかった。
「…………」
「…………」
蒼泉と美冬は顔を見合わせ、何となく逸らす。
――さて、一体どうしようか。
「え、と。今井の家、どっち?」
「あの……駅、あと三つ分乗ります」
「あ、オレと同じ方向じゃん。送るよ」
「え!?」
目をこれでもかというほど丸くする美冬に苦笑する。そこまで驚かなくてもいいだろう。
「あの人たちに言われたからってわけじゃないけど、ついでだし。ダメかな?」
「いいえ、そんなことありませんっ。でも……ただでさえ迷惑かけちゃったのに……」
「だから……さっきも言ったろ? 迷惑じゃないし、悪いのは痴漢の方。今井は悪くないよ。それに方角が一緒なんだし、今から別々に行くのも変な感じじゃん?」
理屈としてはおかしくないはずだ。
無意味に手をパタパタと振りながら言うと、美冬はちらと顔を上げた。
決心するかのように一度強くうなずいた彼女が、こちらを見上げてはにかむ。
「それじゃあ……よろしくお願いします」
それから二人は電車に戻り目的の駅へ向かった。
相変わらず人混みがすごかったが、蒼泉はそれとなく美冬をカバーする位置に立つ。
本当は柄じゃないんだけど、などという独り言は喧騒に呑まれた。
こうして立ってみると彼女が小柄であることがよくわかる。
電車に揺られながら髪の毛がサラサラしているなぁとか、肩細いなぁとか、取りとめもなく蒼泉は感想を抱いた。
それにしても綺麗な髪だ。
ほんのり茶色がかっているようにも見えるが、恐らく染めているわけではないだろう。
目を伏せているときにふと見えるまつ毛は長い。
(って、オレ見すぎ)
蒼泉は首を振った。
これ以上まじまじと見ていれば今度は蒼泉が不審者扱いされかねない。
代わりに何か話題がないかと頭を捻る。
「今井って何組?」
「二組です。水沢くんの隣」
「……オレのこと、知ってた?」
彼女の答えに瞬く。
すると彼女もまた瞬いた。
徐々に瞬きの間隔が空いていき、しまいには大きく目が見開かれる。
彼女は慌てて首を振った。耳が赤い。
「違います! 知ってたんですけどそうじゃなくて、その……水沢くんって有名ですから! だから見かけたらついちょっと目で追っちゃったりするくらいで、その、ストーカーとかじゃありませんよ!?」
「いや、別にストーカーだとは思ってないけど。……そっか。確かに最近は有名だもんねえ」
蒼泉自身が何かをしたわけでもないというのに。
自嘲気味に呟くと、彼女はまた瞬いた。
「最近って、政治家の話ですか?」
「そう。ニュースで聞いたことあるんじゃないかな」
尋ねた蒼泉に彼女はうなずく。
「確か松山さん、ですよね。すごい政治家だって聞きました。私もそう思います」
「……そう?」
正直なところ、蒼泉には彼の何がすごいのかわからない。
そのせいで若干声がぶっきらぼうになった。
気に障ったかなと思ったが、彼女は嬉しそうに笑う。
「私、政治ってよくわからないんですけど……あの人は一つ一つ的確なことをわかりやすく言ってくれます。やりたいこと、やらなきゃいけないことの主張がぶれてないというんでしょうか。それに力強いから頼れそうだなって思っちゃうんです。本当のところは私もただのミーハーかもしれないですけど」
眉を下げ、困ったように美冬が笑う。
蒼泉は首を振った。感心の意を込めて彼女を見やる。
「ミーハーじゃないと思うよ。オレ、そんなこと全然知らなかった。ニュースとか新聞とか見るのも避けてたし」
「あ、いえっ。私もテレビのニュースをちょっと見ているだけです。新聞までは読んでません」
感心されたことに照れたのだろうか。美冬は大袈裟なほど首を振った。
その激しさに笑いが込み上げてくる。面白い反応だ。
振りすぎて目眩がしたらしく、彼女は軽く頭を押さえた。
ふうと一息。それから蒼泉に向かって小首を傾げる。
「松山さんはすごいですから、水沢くんが有名になるのもおかしくないんですけど……ただ、その前から結構有名だったと思いますよ?」
「え?」
「ほら、高橋くんと一緒にいるじゃないですか。高橋くんってよく騒ぎとか問題とか起こしたりしますから、それで水沢くんのことも何度も見てました。一緒にはしゃいでいるのを見て、楽しそうだなって、私ずっと思ってて」
「は……?」
予想外の言葉に一瞬反応が遅れた。
次第に意味が飲み込める。
なぜか顔が熱を持ったような気がした。その熱を吹き飛ばそうと首を振る。
先ほどから互いに首を振りすぎている気もするが仕方ない。
「待って待って、違う! それおかしい!」
「おかしい、ですか?」
「騒いでるのもはしゃいでるのも秀一だけ! オレはストッパー役!」
「でも楽しそうに見えましたよ?」
「呆れてたの、諦めてたの!」
アレと同類はちょっと勘弁、とこの場に秀一がいれば嘆きそうなことを蒼泉は考えた。
その必死ぶりが面白かったのか美冬が吹き出す。
ようやくリラックス出来たような自然な笑いだ。
「本当に?」
「本当に!」
言って、――蒼泉も何となく笑い出してしまった。
自分でも必死だと思う。実際、楽しんでいる面もあるからこその言い訳ではあるのだけれど。
クスクスと笑い合う自分らを周りの何人かが不思議そうに見ていたが、特に気にならなかった。