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「名乗るほどの者ではございません」

 倉田に引き寄せられ、とたんに腕が軽くなる。

 気づけば縄が解けていた。

 それと同時に緊張が緩む。

 が。

 足音がさらに近づいてきたのを知り、その緩みもすぐに消えた。


「倉田さん! 逃げなきゃ!」

「と言われてもな。鍵、持ってねぇし」

「どうやって入ってきたわけ!?」

「正面突破」


 どこまでが本気なのかわからない。


「まあ落ち着け。秘書としてあいつらを放っておくわけにもいかねぇのよ。ちゃんと片付けとくように指示もされてるからな」

「そんなこと言ったって!」


 無理だ。相手は誘拐犯。正気でない。

 しかし、どんなに倉田を説得しようとしてもそれこそ無理というものだった。

 全く聞く耳を持たない。

 その間にも足音はやって来る。

 とうとう相手の姿が見えた。


「いたぞ!」


 怒鳴ったのはタケだった。

 ビクリと体を震わせた蒼泉の横を、倉田が身を屈めて突き進む。速い。

 しかもタケには倉田がまるで見えていないかのようであった。

 蒼泉の方ばかりを見ている。

 その間に倉田はタケの懐へ。

 素早く飛び込み蹴りを放った。巨体が吹き飛ぶ。


「な……タケ!」


 自称お姉さんとマサも追いついた。それでも倉田は動じない。


「蒼泉、おまえはこれを使え」

「え?」


 ひょいと、まるで忘れていた財布でも投げ渡すかのように倉田が何かを放り投げてきた。

 反射的に受け取った蒼泉は目を丸くする。

 ソレはずっしりと手の中で重い。


「鉄パイプ!?」

「武器は必要だろ」

「ちょ、待ってよ! 無理だよ!」

「おまえの度胸なら大丈夫だ」


 無茶苦茶だ!

 逃げ出す勇気と、武器を振るう勇気では種類が違う。

 蒼泉は秀一に対するツッコミならともかく、派手な喧嘩のように暴力を振るったことなどなかった。

 しかし倉田はこちらを見向きもしない。


「何? あんた。どこから入ったのよ!?」

「名乗るほどの者ではございません」


 気色ばむ自称お姉さんに対し、倉田は恐らく満面の笑みを向けているのだろう。

 マサの怒鳴り声が聞こえた。興奮しているのか何と言っているのかわからない。


(どうしよう)


 手の中の存在感は消えない。むしろ精一杯に自己主張している。


「あんたが何者かなんて正直どうでもいいわ。それよりその子、返してちょうだい。私たちには必要なのよ」

「あなた方にはもったいないと思いますけどね」

「何ですって?」


 自称お姉さんの眉が跳ね上がる。険悪な雰囲気だ。空気が重い。


「倉田さん……」

「誘拐の時点で頭が悪い。そんな奴らにこいつはもったいない」


 果たしてそういう問題だろうか。

 自称お姉さんも蒼泉と同じ気持ちを抱いたのだろう。

 あからさまに怪訝な表情になった。そこには怒りも含まれている。


「うるさいわね。お金がないのよ。困ってるの。だから仕方ないじゃない!」

「だからって何で誘拐に行き着く?」

「だって不公平じゃない!」


 それは金切り声だった。女は声を絞り出す。


「だっておかしいじゃない。私たちはこんなに苦労しているのに、何もしないでその子は政治家の養子。楽に生きていけるの。不公平よ、悔しいじゃないの!」

「…………」

「随分勝手な自己主張だな」

「うるさいっ!!」


 女が声を叩きつける。

 それと同時にマサが前に飛び出した。

 その手には――ナイフ!


「倉田さん!」


 マサの手が突き出る。

 倉田は身を捻った。

 ナイフは空を切る。

 倉田の手が相手の右腕をつかむ。

 相手が倉田の手を中心に回転した。

 叩きつけられる体。

 それは息を詰まらせた。体がわずかに跳ねる。

 そのままその体は、ぐっと重みが増したかのように床に縫い付けられた。


「マサ! ……っ、この!」


 悲鳴を上げた彼女が走り出す。

 彼女は迎撃の構えを取った倉田の横をすり抜けた。


「お?」


 この場にそぐわない間抜けな声。

 蒼泉はハッとした。

 彼女の目的は倉田を倒すことでない。――自分だ!

 身を引くが、背が冷たいドアにぶつかるだけだった。

 息を呑む。


(来る!)


 とっさに構えた。出来るかわからない。

 だがやるしかない。

 鉄パイプを握り締める。

 強く握っていたからだろうか、汗ばんで滑りそうだった。


 来る。

 手が伸びてくる。


「さあ、来るのよ……!」

「!」


 ぎゅっと握り――


「ひぁっ」


 女が奇妙な声を漏らし、その場に崩れた。


「…………え?」


 顔を上げた先には倉田が立っている。

 その下にはうつぶせのまま動かない自称お姉さん。

 彼が背後から手刀か何かを打ち込んだのだと理解するのに数秒を要した。

 理解した後も呆けてしまい、上手く思考がまとまらない。


 ええと?


「何なんですか、一体……」


 訳がわからない。

 武器を渡してきて、それでいて自分で全てを片付けてしまうとは。

 言いたいことがわかったらしい。

 倉田が歩み寄ってきた。軽く息をつく。


「確認がてら、な」

「確認、ですか」


 よくわからないままオウム返しに呟く。

 首を傾げていると、倉田が目を細めた。


「いやまあ、その鉄パイプにものすごい意味が隠されているってわけでもないんだが。ノリの部分もあったしな」

「はあ……」

「ただ、おまえがそれを持ったまま何もしないで突っ立っていたらさすがにどうしようかと思ってよ。いくら俺でも、自分だけ何もしないでぼさっとしているような奴を助けたいと思うほどお人好しじゃねぇ。でもちゃんと構えるくらいの気合はあるんじゃねぇか。良かった良かった。ちゃんと男としてついてるもんはついてるな」

「…………」


 あまりの言われように言葉が出てこない。

 どこまで本気なのかもわからない。

 蒼泉が構えなかったら彼は助けないつもりだったのだろうか。

 そんなことを考え、蒼泉はますます言葉をなくした。


 その間に倉田は鉄パイプを受け取った。

 それをドアノブの方に押し当て、どこをどうやったのか、蒼泉が確認出来ない内にドアを開けてしまう。

 厳密には破壊したのかもしれなかった。

 鈍い音が聞こえたのでその可能性の方が高いかもしれない。


 開いたドアから漏れ入る光は、妙に現実感がないような気がした。


「しっかし、今回はただの身代金目当てだったか。……面白みはねぇが、それはともかく。無用心だな」


 のびている三人を見ながら倉田が肩をすくめる。

 その光景をぼんやり見ていると頭を小突かれた。


「聞いてるのか? おまえだよ」

「え?」

「みすみす誘拐なんてされてんじゃねぇよ。ちゃんと用心しとけ」

「だって、急に車に押し込まれたから……」


 抵抗する暇さえなかった。


「対策はあるんだぜ。例えば自分の服に付いているボタンを取って、車の鍵穴の出来る限り奥に挿し込む。ま、ボタンじゃなくてもガムだろうが釘だろうが挿し込めれば何でもいい。そうすりゃ車は発進出来ない。……つっても、それほど実践的じゃねぇか。普段から注意しているのが一番だな」


 そう説明する倉田の口調は普段通りのもので。

 片が付いた。

 それを実感し、蒼泉は全身の力が抜ける思いでいた。

 疲れた。体力的に、そしてそれ以上に精神的に。


 フラフラしていると倉田が支えてくれた。

 蒼泉はちらと彼を見上げる。

 彼は相変わらず涼しい顔だ。

 スーツもあまり乱れていない。本当に鎧のようにガチガチの素材なのではないかと思わせた。


 とにかく、倉田がこうして心配してくれるのは嬉しい。

 来てくれたのも助かった。

 しかし。


「無茶苦茶、です」


 精一杯の一言を吐き出す。

 先ほどの出来事を思い出すと目眩がしそうだった。

 そんな蒼泉に対し、倉田は軽く笑い声を上げるだけだ。

 その遠慮のない態度に少しばかりホッとする。

 だが安心してばかりもいられない。


「……松山は……」

「会議に出かけたよ」


 予想外の言葉。蒼泉は瞬いた。


「会議?」

「ああ。こっちのことは俺に任せるからと早々に家を出た。その会議で厄介な件が一つ解決出来るそうだ。だから行かなきゃならないってな」

「……そう」


 やはり心配されていないらしい。

 わかっていた。わかってはいたが、複雑な気持ちになるのも否めない。

 蒼泉は俯いてため息をついた。

 そんな蒼泉の肩を倉田は軽く叩いてくる。


「ま、色んな意味で大した奴じゃねぇか」


 それが皮肉なのかは、あの分厚い眼鏡が邪魔をして判断出来ない。

 彼の表情を読むことは諦めた。

 代わりに一言、そっと呟く。


「ありがとう」

「ん?」

「助けてくれて、ありがと……」


 当然の礼なのだが、改まって言うのは何となく恥ずかしい。

 しかも倉田が遠慮なく笑うものだから、蒼泉は後悔して拳を振り上げた。

 人が真面目に礼を述べているというのに!


 ――何だかもう、この人に遠慮なんかいらない気がする。

 その確かな予感に、蒼泉はまた一つ、ため息をついた。

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