「ヒーローは颯爽とやって来るもんだって相場が決まってんだよ」
蒼泉が目を覚ましたとき、そこは見覚えのないビルの一室のようだった。
比較的高い天井は薄汚れてくすんでいる。
その天井近くにいくつか小さな窓があった。
どうも薄暗いと思えば、電気がついていない。
光はその窓から入り込んでくるものだけのようだ。
また、どこからか隙間風が吹いているのだろうか。
妙に空気が寒々しい。
さらに加えるならあまり使われていない部屋特有の埃っぽさとかび臭さがあり、居心地は最悪に等しかった。
頭がぼんやりしているのも拍車をかける。変な気分だ。
「……ここ」
どこ?
そう問おうとして、近づいてくる足音に気づいた。
身を強張らせる。後ろ手に縛られていては逃げることも隠れることも出来ない。
「目が覚めたかしら」
「…………」
見覚えのない顔に戸惑った。
「あ、の」
「手荒な真似をしてごめんなさいね」
「……誰?」
「それは言えないわ」
クスクスと女は笑う。
その後ろには二人、これもまた見たことのない男が控えている。
蒼泉はただただその光景を眺めているしかなかった。
怖くないといえば恐らく嘘になる。
しかしそれ以上に事態への理解が困難だった。
理解出来ないため、なかなか恐怖が実感として湧いてこない。
まだ夢を見ているのではないかとすら思った。
「あの、オレ」
「水沢蒼泉くんね?」
にっこりと場違いな笑顔を向けられ、蒼泉は虚を突かれた。
うなずく。
そのぎこちない動作に女はまた笑う。ことさら嬉しそうに。
「良かったわー」
「良かった?」
「ふふ。あなたに恨みなんてないんだけどね。ちょっとだけお姉さんと一緒にいましょ?」
お姉さん。
そう呼ぶにはやや無理のある年齢だ。
中一の蒼泉にとっては尚のこと。
しかし初対面の相手に向かって、しかも自称お姉さんである相手に対して「おばさん」と呼べるほど蒼泉は無神経でも常識知らずでもなかった。
とりあえず蒼泉の中で、彼女は「自称お姉さん」として認識される。
それはそれで失礼なのだが、声に出して呼ぶわけではないので大丈夫だろう。
「ちょっとだけって……今、何時ですか? オレ、帰らないと。遅くなると静江さんが心配するし……」
松山にもきっと怒られる。
どちらも嫌だった。
怒った松山は怖いし、心配で泣きそうな顔をする静江を見ていると蒼泉はひたすら申し訳なくなってくる。こちらが泣きたくなるほどに。
だから。
「ダメよう」
うふふと自称お姉さんは笑った。のっぺりとした笑顔が寒々しい。
「あなたにはここにいてもらわなくちゃ」
「だって」
「まだわからない? あなた、誘拐されたのよ」
「ゆ、かぃ?」
声が喉につかえた。
何度も脳内で繰り返し、その内ぼうっとしていた頭が次第にクリアになっていく。
ゆうかい。
誘拐。
誘拐?
(……オレ)
思い出した。
朝。天気が良く気持ちのいい外で。
特に用もなく出かけた蒼泉の横を滑るようにして車がやって来た。
慌てて身を引いたが、ドアが開き、そこから男が出てきて、声を掛けてきて――。
嘘。
そう思ったが現状は変わらない。
とっさに身動きを取ろうとして縛られていた腕が悲鳴を上げた。
ようやく血の気が引いてくる。
背筋が凍る。
実はとても大変なことなのでは。
「え、うえ、ええええ!?」
「意外と頭の回転が遅かったみたいねえ」
余計なお世話だ。
「何でっ、何でこんなこと!」
「言ったでしょう? 別にあなたに恨みなんてないのよ。ただ、必要だったから。だから一緒にいてほしいの。ね? お姉さんからのお願い」
うふふと女はまた笑う。
その表情はどこか恍惚としていて余計に不気味だった。
後ろにいた男二人がヤレヤレと肩をすくめる。
「姉さんってばすぐ演技がかるんだからなぁ」
「ノリノリっすね」
「うるさいわよタケ、マサ」
サングラスのせいで二人の顔はよく見えない。
わかるのは、どちらも図体がでかいということだ。
特に身長も高く、口調に呆れの入っていた男が「タケ」で、後に続いた体育会系の口調である男が「マサ」らしい。
硬直している蒼泉を楽しげに見やった自称お姉さんは、指示を出し始めた。
それによりタケが電話をかける。
ボソボソと電話口に向かって話していた彼は、ふいにそれを蒼泉に押し付けてきた。
突然のことに戸惑いを隠せない。
え、と瞬いて見上げると、タケはさらにぐいと電話口を押し付けてきた。
「話せ」
「話せ、って」
『……蒼泉か』
「!!」
とっさに蒼泉は顔をそむけた。
鼓動が速くなる。心臓がうるさいほど音を立てている。あの声は。
女が眉をひそめた。
「ちゃんと話しなさい。伝わらないでしょう?」
「……や、だ」
嫌だ。
嫌だ!
『蒼泉。いるのか』
突き刺さるような声が電話口から流れてくる。
表情が見えない分恐ろしかった。
松山の声。しかも、相当不機嫌な。
(どうしよう)
怒っている。怒られる。
「話せっつってるだろ!」
後ろからマサが野次を飛ばしてくる。
この状況で蒼泉に拒否権があるはずもない。
恐る恐る受話器に耳を傾けた。
電波が悪いのだろうか。
雑音。この音に紛れてしまえればどんなに良かったか。
向こうで、静江の声が聞こえた気がした。
それに被せるかのように低く、感情を抑えた松山の声。
『蒼泉』
「……ごめ、なさい」
声がかすれた。喉がカラカラで上手く話せない。
どうしよう。どうすれば。
はあ、と。大きなため息が向こうからこぼれた。
心臓がぎゅっと縮み上がる。
「ごめんなさい」
それしか言えないでいると、ふいに受話器が取り上げられた。
タケが再び会話を始める。
蒼泉は深く息を吐き出した。
――誘拐犯より松山に怯えるというのも奇妙な話だ。
しかし嫌な汗が流れてくるのを止めることが出来ない。
鼓動はまだ速く打っていた。
何とかこの場から帰ることが出来たとして、無事に松山と顔を合わせることが出来るのだろうか。
湯のみを投げつけられるだけならまだいい。
しかしこれは、この状況はあのときの比にならない。
下手をすれば松山の選挙に大きな影響が出る。
その原因の蒼泉を、松山が許すかどうか。
(どうしよう)
怖い。
「何でこんなこと……」
先ほど以上に実感が湧いてきて今度こそ泣きたくなった。
そんな蒼泉に女は笑う。
先ほどから彼女は笑ってばかりのような気がする。
しかし今は、同じ固まった表情でも倉田の無表情の方がホッと出来る思いだった。
この女の笑顔は好きでない。
「あなたが悪いんじゃないのよ。ただね、私たちは今お金に困ってるの」
「……身代金が目当てってことですか」
「まあ、簡単に言っちゃうとそうねえ。でも政治家なんて何やってるかわからないんだから。ついでに色々脅迫してみるつもりよ」
うふふと、何度目かのざらざらした笑い声。
馬鹿だ。蒼泉は心の中でそう思う。
大馬鹿だ。
「意味、ないよ」
「うん?」
「松山にとって、オレは大事じゃないから。オレを人質に身代金を要求したって意味がないと思う」
変な話だが、静江を人質にした方がまだ松山の心も動いたことだろう。
蒼泉にはそれだけの影響力がない。ただただマイナスに働くばかりだ。
だが、自称お姉さんには理解出来ないようだった。
彼女は首を傾げる。あまり興味はなさそうに。
「変な子。あなたはもうすぐ養子になるんでしょう?」
「そうだけど……」
「それなら大事に決まってるじゃない。子どもになるんだから。そして、今の私たちにとってもあなたは重要。貴重な人質だものね」
変なことを言って逃がしてもらおうと思っても無駄よ、と自称お姉さんは付け加えた。
蒼泉はますます泣きたくなる。
確かに本当ならそうかもしれない。
蒼泉だってそれならばどんなに良かったことか。
(この人も同じ……)
蒼泉を人として見ていない。モノだと、道具だと思っている。
それが少しだけ、悲しかった。
(――逃げなきゃ)
強く思う。
泣いている場合ではない。
泣きたい状況にはもう慣れた。
孤児院で訳のわからないほどの寂しさを知ってからずっと。
松山の家に引き取られ、初日にきっぱりと自分を否定されてから、ずっと。
静江が蒼泉を呼ぶときは、自分でなく別の誰かを重ねているのだと気づいたときから――ずっと。
だからこんなことで挫けたりしない。
泣いているだけでは状況が良くなることはないと、蒼泉は知っている。
とにかく、このまま事態が進めば蒼泉にとってどんどん立場が悪くなる。
それは避けたかった。
もし、自力で逃げることが出来れば。
そうすれば事態が大きくなるのを食い止めることが出来る。そこに賭けてみるしかない。
改めて周りを見渡す。
基本的にガランとした物寂しいところだ。
隅にはいくつかダンボール箱が積み重ねられている。
扉までの距離は意外と長い。
その扉は大きく、横にスライドさせるタイプのものだ。
足は縛られていないため、走って逃げることは一応可能である。
だが、後ろ手を縛られた状態でどこまで逃げ切れるか。
相手は三人。
その内の一人にでも捕まれば、抵抗する術のない蒼泉など簡単に動きを封じられてしまう。
(足には自信あるけど……)
自慢でないが体育の成績だけは他教科よりずば抜けて優れている。
それがどこまで通用するか。
ひとまずは状況を変えないと。
「あの」
「何だよ、うるせぇな」
タケが不満げに見下ろしてくる。
図体が大きい分迫力もあったが、蒼泉は体を引きそうになるのをぐっと堪えた。
思考を巡らせる。
残念ながら突飛な考えは浮かんでこない。
ベタな線でいくしかないだろう。
「……トイレ、行きたいんですけど……」
「あら。あらあら。そうねえ、我慢は良くないわ」
目を丸くした自称お姉さんだが、すぐにケタケタと笑う。
タケ、マサは肩をすくめた。
タケが不機嫌に眉を寄せ、マサに目配せをする。
「マサ、連れてけ」
「へい」
ひょいと頭を下げたマサが蒼泉を立たせる。
多少ふらついたが乱暴に引っ張られた。
歩いていき、マサが扉の鍵を外す。
手をかけた彼が細く扉を開け、
そこで蒼泉は走り出した。
「あ!?」
マサが手を伸ばす。
それを避け、扉の隙間をくぐり抜けた。
まだ相手が通れるほど大きく開いていなかったため少しの時間が出来る。
しかしそれは本当にわずか。
ガン、と音がしてすぐに扉が勢いよく開く。
蒼泉は扉の付近にも積まれていたダンボールに目をつけ、それを力一杯に蹴りつけた。
ダンボールは音を立てて扉の前で崩れる。
「てめえ!」
「追うのよ!」
慌しい声が背を追いかけてくる。
ひたすら走った。角を曲がる。まだ通路は続いている。
しまった。意外に広い。
とにかく外へ。外へ出れば何とか――。
「!」
細くもない通路を抜けるとさらに扉があった。
蒼泉はそこへ飛びつく。
ドアノブを捻るタイプのもので後ろ手が縛られた状態では上手く開けられない。
(早く!)
手探りでドアノブをつかむ。
もたつきながらも捻り、――愕然とした。
(……かぎ)
ここにも鍵が、かかっている。
冷静になれば当たり前であった。
しかし今さら気づいても遅い。足音が雪崩れ込んでくる。
その音に身がすくんだ。どうしよう。
「その度胸には感心するが、ちと冷静さが足りねぇな」
「……え」
聞き覚えのある声に蒼泉は瞬いた。
幻聴かと疑いすらした。
それは、ここで聞こえるはずのない声で。
「倉田さん……?」
「よう」
突然湧いて出てきたかのような登場に、蒼泉はもう一度瞬いた。
今度は幻影か。
だって。
だって何で。
「何でここに……! どこから来たの? 何で!?」
何度瞬きしてもその影は消えることがなかった。
蒼泉は呆然とその影を見上げる。
影――倉田はここでもスーツをしっかりと着込んでいた。
場違いだ。その姿も、楽しげで飄々とした表情も。
「ヒーローは颯爽とやって来るもんだって相場が決まってんだよ」
訳のわからないことをうそぶき、倉田は笑った。




