流しすすぎと溜めすすぎ
時代物の文章を書いていて、はっと気づくことがあります。例えば18世紀末の女性が、真夜中に婚約者が突然来訪してきて、居間の暖炉に火を熾すシーンを描写しようとして、この頃マッチはないはずだ、しかし、火打石なんて使ったら、真面目なシーンがギャグになると、あんまり深く考えずに、ただ暖炉に火を点けたと書きました。
後から知ったことですが、物語の舞台の国の当時では石炭ではなく薪を燃料にしていたそうですし、今と違って完全に火を消さず、種火か熾きを取っておいて、翌朝燃料を足しながら簡易のふいごか火吹き筒を使って火を熾していたようです。
ガスと電気に慣れてしまったため、ストーブや暖炉など暖房だけでなく、調理にも使用していた歴史を忘れがちです。東日本大震災の際は、家庭でカセットコンロのガスボンベを切らしており、ストーブで暖を取るのと調理をするのと、両方に使っていました。
19世紀中ごろのヨーロッパが舞台に話を書いていて、確かナポレオン一世の時代に、軍の携帯食として瓶詰めと缶詰は発明されたはずだ、バターの代用品としてマーガリンが発明されたのもこれくらいだっけ、と小学生の頃に読んだ学研の『発明・発見のひみつ』を思い出していました。
ナイチンゲールやゼンメルヴァイスが患者の回復の為には病院の衛生状態は大事だよ、と統計学を援用しながら主張し、スイスの銀行家アンリ・デュナンが赤十字の唱えた始めたのもこの頃。ヨーロッパじゃ今もって手洗い・うがいが習慣化してないところがあるそうですし、インフルエンザが流行してもマスクしないというから、こええなぁと思います。パストゥールやコッホの細菌学はもうちょっと後。世界万博しながら、低温殺菌牛乳の販売ルートとかまだなかったりするわけです。
ノーベルがダイナマイトを発明したのも19世紀中ごろだし、一杯発明・発見があるなぁとシミジミと年表を眺めます。
表題は洗濯機の使い方ではなく、食器の洗い方です。水道が無かったころは洗い桶に食器を入れて、汚れを落とし(不要の紙や布が使えればそれで汚れや油を拭き取る)、何度か水を代えて洗っていたはずです。
二十年くらい前だったかしら、現代のフィンランドを舞台にした映画『マッチ工場の少女』(アンデルセンの童話ではなく、アリ・カウリスマキの映画です)を観た時、台所で食器を溜めすすぎで洗っていました。水道がないわけではないのに、日本とは水の事情が違うのだろうと思いました。一緒に観ていた良人は水道があるのに何でだと納得しがたいようなのですが、「湯水のように」の言い回しが通じるのは日本だけかも知れないのだからと言いあった覚えがあります。
その後、『北の国から』のビデオを良人から観せられた時、北海道の大自然の中、川から生活用水を引いてきて、必要に応じて汲んでいるので、やはり台所では食器を溜めすすぎで洗っているシーンがあるのです。
日本でだって、水をジャブジャブ使えなきゃ、溜めすすぎじゃないか、このシーンを覚えていないんだなと思ったものでした。実際そんなものです。(同じく震災の時、米のとぎ汁を食器の下洗いに使おうと牛乳の空きパックに入れていたら、邪魔と姑に捨てられたこともありました。だって水が勿体なかったんですもん)
文明の恩恵は計り知れないもんです。