平成二十三年の三月
沿岸部ではない被災地の話です。
平成二十二年の年度途中からわたしはメンタルの不調で病気休暇を取得していた。そして、年明けての三月中もまだ休暇中だった。
三月九日に良人が有給休暇を取ったので、その日は仙台市博物館の企画展のポンペイ展を観にいった。火山噴火で埋もれた街から発掘された数々の美術工芸品、当時の富裕層の浴槽など、まことに見応えがあった。
博物館を出て、とあるこじゃれたレストランで二人で昼食を摂っていたら、地震が起こった。大きな揺れで、動かないでください、従業員の指示に従ってください、エレベーター、エスカレーターは停止しています、とアナウンスが流れた。レストランの厨房のガスが止まったが、電気は通じていた。
しばらくして何事もなかったように、エレベーターやエスカレーターは稼働しだし、道路に危険もなかった。
メンタルの病なので、自らの好奇心や集中力が低下しており、出掛ける気にならないのだが、少しでも興味を示すものには、出好きの良人はわたしを連れ出そうとしてくれていた。そういった外出の一つだった。
昭和五十三年六月十二日の宮城県沖地震は、午後五時を過ぎたばかりの時間に起こり、当時は津波被害がほとんどなく、家屋やブロック塀の倒壊が問題となった。六月上旬の五時過ぎはまだ明るく、外遊びの子ども達や散歩の人たちが多く、揺れでブロック塀や自動販売機に寄り掛かったら、倒れてきて潰された、のニュースが報道された。このため昭和五十六年に建築法が改正されている。
平成二十年六月に岩手・宮城内陸地震があり、平成二十二年二月にチリ地震津波があった。チリ地震津波では三陸で一メートルを超える記録が出たが、地球の裏側からくるので時間差がある、そしてその規模の津波は漁業被害をもたらしたが、陸にあまり被害がなかったので、(漁業関係者は養殖施設や水揚げの市場に被害があったので、そのようなこと言ってはいけないのだろうが) 大したことなくてよかったで済んだような記憶がある。
平成二十三年の三月十一日、病気休暇中のわたしは午前中に食料品の買い出しをして、自宅にいた。姑と長男も自宅にいた。二男は近所の友人宅に遊びに行っていた。良人は仕事に出ていた。
そんな中、午後地震が起こった。
地震と同時に停電となり、情報収集はラジオに頼るしかない状態になった。自宅は内陸部の高台、切土の団地なので地盤は安定している方だ。(それでも宅地の一部が地盤沈下した、地割れしたお宅があった。その反面何も落ちなかった、倒れなかったお宅もあった)
停電して、今後いつ通電するか解らない状態で、携帯電話でワンセグはバッテリーが勿体無い、メールもネットも通じない、ラジオを付けっ放しだった。
沿岸部に津波とニュースを聞いてもあれだけ大きな地震だったから津波も大きかったのだろうと想像するしかなかった。(後日、人間の想像力なんて大したことがないと思い知らされた)
良人は渋滞の中、夜に帰ってきた。家族は無事だった。
当時もっと様々な出来事があったのだが、ここで詳しく書くにならない。
非常時に精神的になんとかしなければ、と高揚したが、ライフラインの回復につれ、反動的にダウナー状態になったことだけ述べておく。




