片恋に苦しむ男
小谷野敦の『<男の恋>の文学史』(朝日新書)を読んだのは大分昔だ。1997年の12月に第1刷発行とある。博士論文を書き直しての刊行だそうだ。その後『片思いの発見』(新潮社)、『もてない男』(ちくま新書)など読んできたが、全著作を読むほどの思い入れはない。芥川賞の候補になった小説を読んだことがない。つい最近『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社)を読んだ。(ネタバレを忌避しないと宣言し、その通りに書かれている)
評論家としてもあれこと活躍している方だが、ミステリとSFは好まないというか、理解できない思考回路の人物だとはっきり解った。クリスティーをバカミスの女王と評するあたり、怖いものなしのよう。松本清張の『砂の器』の第二の殺人トリックについては、わたしと同意見だが、ネタバレがよくないから誰も書かないだけで、既読の方々はみんなそう思っているのではないのだろうか。
蜷川幸雄演出で平幹二郎に舞台上でミステリについての不満を叫ばせたいと書いているが、成程、胸の内の不満や鬱憤を、蜷川流に平幹二郎や白石加代子に舞台で呪いの呪文を発する如く叫ばせたら、さぞかし楽しいであろう。
『<男の恋>の文学史』や『片思いの発見』で男性の片恋について論じている。叶わぬ恋に悩み苦しむのは、何も女性だけではない。男性も然り。しかし、フィクションでは、男性は、いや主要男性登場人物はなにもしなくても女性が寄ってくる、むしろそういったトラブルで困っているなどと、文学上の非対称性を論じている。
主役級の男性側が報われぬ思いに悶々としているのは王朝物語あたりまでで、中世、近世となると、「モテる男はつらいぜ」のストーリーになってきて、その傾向が現代まで続いている。報われぬ思いに苦しむのは、何らかのハンディキャップを負っていたり、ギャグだったりのパターンか、と。
読み返していないまま、昔の記憶で綴っているし、この著者の最近の論が変わってきているか確かめていないので、間違っていたら謝罪します。
ラシーヌの『アンドロマク』は、トロイアの王子ヘクトルの妻アンドロマケのトロイア陥落後の後日譚を基にして書かれたオリジナルの展開の戯曲。アンドロマケがフランス風になってアンドロマク、ネオプトレモスがピリュス。
ラシーヌでは、アンドロマクとヘクトル(エクトル)の間の息子は殺されていないし、ピリュスは真剣にアンドロマクを愛していて、妃にしたいと考えている。ところが、ピリュスには許婚でスパルタの王女エルミオーヌがいる。エルミオーヌは政略がどうか関係なく、ピリュスを愛している。ふたたび、ところがエルミオーヌを従兄弟でミュケナイの王子のオレストが愛していて、どうにかしてピリュスとの結婚を止めさせたいと考えている。肝心のアンドロマクは夫が忘れられず、忘れ形見の息子の無事な成長のみを願っている。
真剣な愛は全て一方通行、自分がどんなに相手を愛しているのか、どうやったら思いが通じるのか、古典劇らしく、台詞で延々と語られ、悩み、訴える。
岩波文庫で出ているのを読んだし、劇団四○の公演録画をテレビで放映していたのも観た。戯曲の内容は、当時の三一致の法則と、フランス演劇の台詞回しはこんなものかと、勉強になりました、といった感想だった。
劇場公演は劇場に行って鑑賞するもので、テレビで観てもライブの緊張感・臨場感は味わえないと解っているのだが、面白くなかった。理屈っぽい台詞を感情込めて語っているのだけれど、イマイチ叶わぬ恋に苦しんでいるのが伝わってこないなぁが、正直な感想。エルミオーヌの努めて冷静に振る舞おうとする驕慢さ(悪役令嬢モノってこうすれば書けるのかな)、アンドロマクの敗者となっても誇り高く優雅な様子は、こんなものかな、となるのだが、ピリュスとオレストは惚れた女を我が物にしたいとしている割には威厳があり過ぎ、悩んでいるように見えなかったのだ。ピリュスはアンドロマクを妻とするだけでなく、その子を我が息子として育てると神前で誓うと約束までするとか、オレストはピリュスを殺してくれればあなたの妻となるとエルミオーヌから言われてその気になるとか、そこまで頭に血が上っていたのか??
フランス男と日本男児は違うのか、劇団○季の演出なのか、ライブじゃないからそう見えるのか。わたしには謎だ。(それこそ蜷川幸雄演出ならどうなるのか、興味深い)
ギリシア神話では、前の話で紹介したとおり、アンドロマケとヘクトルの息子は殺され、アンドロマケはネオプトレモスの奴隷として過し、男の子を儲ける。その男の子が、マケドニアのアレクサンドロス大王のご先祖となるとの伝承である。
参考 『アンドロマク』(岩波文庫)
『王妃オリンピュアス』(ちくま新書)森谷公俊




