寛容の意味するものとは
「寛容」の国語の辞書にあるような意味は知っています。「広い心で相手を受け入れる、ゆるす」といった意味。
何事にも寛容でいたい、執着しないでいたい、人間の理想の姿でもあります。
学生の頃、思想史の先生が丁度「宗教的寛容」のテーマに取り組んでいて、講義の内容もそれで進められていました。
講義の資料として、『尼僧ヨアンナ』と『イージー・ライダー』の二本の映画を観ました。時代設定も、テーマもまるきり違う作品です。当時、講義の内容をちらと父に話したら、恐らくリアルタイムで観たであろう父は、『イージー・ライダー』はそんな映画じゃないと言っていました。
『尼僧ヨアンナ』は中世フランスの尼僧院であった事件をモデルにした、20世紀の小説を原作にした映画です。閉鎖された尼僧院の空間、厳しい戒律と信仰生活。その中で悪魔憑きと判断された尼僧長ヨアンナと、時にヨアンナとシンクロしてしまう尼僧たち。悪魔祓いをするために呼び出された神父や力仕事を担当する寺男や周辺に暮らす人々。
ヨアンナを縛り付けて悪魔祓いをするものではなく、格子ごしに神父はヨアンナと話をして、悪魔を去らせようとします。出家の身の者同士とはいえ、男女二人で語り合うのです。神父の側にもヨアンナに感応してしまう可能性が出てきます。
ラストは暗く、やり切れなくなります。それでしか解決できなかったの? もしかしたら神父は身の破滅であっても、至福を感じたのかも知れないし、ヨアンナにとって安定をもたらしたのかも知れません。
寛容というよりは、抑圧と解放の物語のように感じました。
対して『イージー・ライダー』こそ「寛容」と「不寛容」の問題を含む作品だと思いました。
冒頭、主人公の二人が、麻薬か何か、非合法のクスリの運び屋であぶく銭を稼ぎ、そのお金を持っている描写があります。二人は立派なバイクに乗って、気ままな旅に出ます。途中ヒッピーの集団が暮らす所に寄ったり、ネイティブ・アメリカンと暮らす牧場主の許に滞在したりしていました。やがて、目的地の南部に着き、謝肉祭を見物しようとするのですが、風紀を乱す輩と目を付けられて、散々です。ちょっとずれているような若い弁護士も加わって野宿しますが、そこを襲われて、弁護士が亡くなります。
そして、有名なラストシーン。二人のライダーは走行中、やはり前方を走行中の車に乗った地元の人たちから銃撃され、亡くなります。
「不寛容な大人」と「自由を謳歌する若者」の対決と済ましていいものではありません。銃撃したおやじたちは南部の白人で、きっと共和党支持者で、銃規制の反対派で、ついでに妊娠人工中絶手術反対派で、ガチガチのプロテスタントであろうことは画面を観れば読み取れそうです。銃を使わず、素手でやり合っても勝てそうな頑健さもあります。
二人のライダーはまっとうなお金の稼ぎ方をしていません。しかし、南部のおやじたちは――リンチを加える酷い奴らですが――、地に足を付けて働いている人間なのでしょう。
LSDでラリって娼館のお姐さんたちと遊び、ふらふらと気ままにバイクを飛ばしている、ヒョロヒョロ、チャラチャラしているのに若い女性がキャッキャッと寄ってくる(ここらへんが一番気に入らないでしょう)、北部のふしだらな風俗で南部の若者(主に娘)を害そうとしていると、おやじ臭く憤っているのです。
意識せず二人のライダーはその地では通じない価値観、風俗を持ち込み、ひっかきまわしている、そして注目を浴びているのに、その地の保守派に無警戒でした。
おやじの言葉を使ったから思い付きましたが、二人のライダーは「父殺し」を全く意図せずに自分の自由を主張する若者でしたが、銃撃したおやじたちは反抗する息子を返り討ちにした「父」と位置付けてもいいかもしれません。
「父」たる権威が、新しい秩序を「寛容」をもって見守るものなのか。(アメリカ合衆国は建国の経緯からして男性的な保守の国です)
「自由」は「自己決定」、「自己責任」と言い切るにはあまりにも残酷な作品です。
そして、現在の世界の混乱は「不寛容」の結果なのでしょうか。
「寛容」とは同じ宗教を信ずる者同士、同じ言語を使う者同士、同じ民族同士でしか通じないものなのでしょうか。
わたしの頭では考えても考えても、答えは見つかりません。時々地下鉄で席に余裕があるのに立っている年配の方にお座りになったらと声が掛けられない、足を組んで場所を大きく取っている人や荷物の置き方が悪い人に注意できずもやもやしている自分には、まだまだ「寛容」の境地はほど遠いのでしょう。