源氏読みの源氏知らず
前の話でエラそうなことを書いてしまいましたが、『源氏物語』を原文で読んだのは『若紫』までです。
小学生の高学年の頃、田辺聖子の『私本・源氏物語』と『新源氏物語』を知り、読んでいました。同時期に大和和紀の『あさきゆめみし』の連載がありました。
当時の『新源氏物語』は「宇治十帖」にあたる部分が刊行されておらず、『あさきゆめみし』も連載中で、「宇治十帖」は円地文子の現代語訳を読みました。
成人してから、橋本治の『窯変 源氏物語』、瀬戸内寂聴の『女人源氏物語』を読み、その後、現代語訳は大塚ひかりのものを「桐壺」から「夢の浮橋」まで通しで読みました。
あ、あとは丸谷才一と大野晋の『光る源氏の物語』も読みました。日本文学を闊歩する名前のない猫とはまた例えが面白いのでした。
『とりかえばや物語』は中村真一郎の現代語訳を読んだだけで、河合隼雄の『とりかえばや、男と女』の方を何回も読み返しています。
丸谷才一と大野晋の対談ではないのですが、古典の恋愛ものは、この場面は実事あり、とか、いつ場面転換しちゃったのよ、とか、思いながらもーそー無しでは読めません。