初代山形県令
三島通庸が嫌いな方は読まないでください。
小学校の社会のテストで、『県令三島通庸は( )づくりに力を入れた』という設問があって、わたしはカッコの中に米と書き入れました。山形県出身なので、社会の中でも郷土史の問題でございました。
返ってきた答案には三角が付いていました。担任の先生によると、正解は道路なのだが、農業にも力を入れていたので、減点にして丸ではなく、三角にしましたとの解説でした。
先の話にも載せたとおり、桜桃をはじめ、様々な育苗の試験栽培、酪農の導入、師範学校や病院の設立、オーストリア人の医師を医学校へ招聘、山形の都市整備などインフラ整備を行いました。一番有名なのが、その道路づくり。
大手建設会社のない頃、当然人手は徴用、資金も税金で足りないので、富裕層から強制徴収。ダイナマイト事故で死者も出ました。
「人の嘆きを横目に三島、それで通庸なるものか」とざれ歌に唄われました。
山形の近代化を語るのに欠かせない人物なのは間違いないので、山形県自体の評価にしても、功罪のうち、功の方に多く目を向けられています。
ほかの県でも初代の県令が同じようにインフラ整備や産業振興に着手し、成功していたのか、他県の明治の歴史を調べていないので比較のしようがなく、わたしには何とも言えません。
自由民権運動の強くなった頃に山形から福島に転任したので、そこからまた評価が厳しくなっていったこともありましょう。
戊辰戦争で最後まで徹底抗戦した福島県の会津若松藩と、山形県の庄内藩の戦後の処遇の違いもあります。戦争でフルボッコにされ、武士以外の住民にも多数の被害が出た上、斗南藩に転封された会津若松藩と違い、西郷隆盛と庄内藩の重臣の中で色々と外交交渉があったらしく、寛大な処置で、場所はそのままでわずかな減封で終わった庄内藩。何故か庄内で『西郷南洲遺訓』(西郷隆盛の語録集、わたしは未読)が作成されています。
そんな土地柄に、大久保利通とも西郷隆盛とも親しい薩摩閥の人物が県令として乗り込んできたら、住民はどう迎えるか、緊張感が違ったことでしょう。
三島通庸が建設させた当時の山形県立病院、旧済生館本館は国の重要文化財に指定されていて、現在は霞城公園内に移築されています。
京極夏彦原作、実相寺昭雄監督の映画『姑獲鳥の夏』に出てくる病院の外観のモデルになりました。
郷土の建物が映画でモデルに使われたんだと、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにされたかのように、ちょっと嬉しい気分になったのでした。
三島通庸は大久保利通の信頼篤く、娘が大久保利通の息子と結婚しました。その夫婦の間に生まれた娘が吉田茂と結婚、つまり麻生太郎は三島通庸と大久保利通の玄孫です。ご先祖に鬼と呼ばれた官僚がいるというのはどんな気分なんでしょう。鬼と呼ばれる戦国武将がご先祖、というのとはかなり違いますよね。
総理大臣や財務大臣と多忙な人は、そんなこと気にしている暇もないか。