山形の中将姫伝説
平安時代の歌人に藤原実方がいます。『百人一首』に歌が採用されていますし、清少納言と交友があったようですし、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とも言われています。この人のお墓が宮城県名取市にあります。
何故、京の都の貴族の墓が陸奥の国にあるかというと、この方は陸奥守の在任中に客死したからです。
陸奥の国の歌枕を見てまいれ、と時の帝の一条天皇から陸奥守に任じられ、陸奥に来て、どれくらい国司としての仕事をしたのか知りませんが、歌枕をあちこち回ったそうです。残りの歌枕が「あこやの松」となり、その松の在所を調べていましたが、解りませんでした。そうしたら、ある老爺が現れて、「あこやの松」は陸奥の国ではなく、出羽の国にありますよ、と教えてくれたそうです。
古代の行政区として東北全体が陸奥と呼ばれていたのはもっと以前のことで、奈良時代に陸奥と出羽に分けられているので、これは眉唾くさい伝承、もしくはそれほど都人には縁遠い場所と考えられていたといえます。
実方の中将は喜んで、出羽の国に出掛けようとします。名取にある道祖神を祀る社に差しかかり、この道祖神の前では下馬してくれと土地の者が言うのを無視して、騎馬のまま通ろうとしました。祟りなのかなんなのか、実方の中将は落馬して、亡くなりました。
この落馬事故、出羽に「あこやの松」を見にいく往路(「あこやの松」がある山形側)、見たあとの復路(名取側)、両方の説があります。
亡くなった国司のためにお墓が作られ、現在も残っております。五、六年前にわたしが見学に行った時は、芭蕉が植えてあり、松尾芭蕉の句碑がピカピカとしておりました。勝手に修復などできないからなのでしょうが、実方中将の墓本体は木陰の奥に風化しかけておりました。ここには西行法師が来て歌を詠んでいますが、松尾芭蕉は梅雨時の雨とぬかるみでここまで行きつけなかったというのに、芭蕉に軒を貸して母屋を取られたように感じるのは、古代史好きの僻目なのでしょうか。
肝心の山形県山形市にある「あこやの松」ですが、現在の県庁近くの千歳山にあります。万松寺というお寺があり、そこには実方中将のお墓があり、実方中将の姫のお墓があります。
都に残された実方中将の娘が、父が命を失っても見たがった「あこやの松」を見ようと、遠い出羽の国に下ってきたという伝承があるのです。万松寺にある実方のお墓は娘が父を供養するために建てたと言われています。
出羽の国出身で「あこやの松」の伝承に親しんできたので、「中将姫」と聞くと、藤原実方中将の娘で、十六夜姫と呼ばれた女性と真っ先に頭に浮かびます。
しかし、亡き祖父の蔵書の『山形縣 史跡と沿線名所』(早坂忠雄 初版が昭和十四年)に、「阿古耶姫」の項があり、「右大臣藤原豊成の女、中将姫の妹である。」と載っており、えっ、中将姫って? となったのでした。
平城京の遷都千三百年の年、色々と奈良の名所を案内する番組がありました。その一つで、奈良の當麻寺が紹介されていました。その番組を見ていて解決しました。
昔NHKの人形劇で放送していた『死者の書』、あの藤原南家のお姫様かぁ。そう思いあたって、『日本<聖女>論序説-斎宮・女神・中将姫』(田中貴子 講談社学術文庫)折口信夫の『死者の書』までやっと辿り着いたのでした。
そうか、全国区で中将姫といったら、奈良の當麻寺の蓮糸曼荼羅を織ったと言われる女性で、ツムラの「中将湯」のパッケージに描かれているお姫様なのか。系図を調べてみると、藤原豊成の子どもに中将姫が載っています。
また一つ知識が増えたとその時喜んだのを覚えています。
伝説とか伝承といったものは、いつの間にか、組み合わさっていくものでもあるのだなぁ、きっと奈良の當麻寺の中将姫と、実方中将との「中将」関連から拡がっていった可能性もあるのかしら、と考えています。
『やまがた 歴史と伝説 後藤嘉一著作集第一巻』(山形県民芸協会)
吉川弘文館の『国史大系』の「尊卑文脈」、「古事談」、「十訓抄」を参照しました。
実方があこやの松を探し求める題材があると聞き及んでおりますが、謡曲や能楽には知識がございません。




