ある年の上杉祭
山形県米沢市では毎年四月二十九日から上杉祭が開催されます。平成二十三年は東日本大震災で春ではなく、秋の九月に開催されました。
わたしの生まれ育ちは山形県の山形市ですが、短大進学で米沢市に住んでいたことがあります。時代小説が好きでしたが、歴史の研究分野として興味があったのは戦国時代や江戸時代ではなく、奈良時代や平安時代、古代でした。ですから、米沢にいても特段現地でなければ調べられない事跡はないかと歩き回ったりはしませんでした。
そんなこんなで、あまり上杉祭そのものに熱心ではなかったのですが、何故かその年だけは良人が上杉祭を見物に行きたいと言い始めました。
米沢のお祭会場になる場所は城下町そのままで、道路幅が狭い、駐車場を探すのが大変かも知れない、と抗弁しましたが、下調べをして、駐車場は大丈夫だから行こう、と説得されました。では、米沢駅前で火縄銃演武があるから、それを必ず見ようと条件を付けて、家族でドライブがてら出掛けました。
わたしが学生をしていた頃と違って米沢駅前も、お城の周りも大分整備されて綺麗で、移動も便利なようになっていました。山形新幹線も通ったし、二十年前と同じな訳はないのですが、時の流れを感じました。
すぐに駅近くの駐車場に車を停めて、早速駅前に行きました。
武者行列はなかなか華麗で楽しかったです。米沢市長さんはノリの良い人のようでした。
で、火縄銃演武ですが、火縄銃はたとえ空砲でも五十メートル先のベニヤ板も打ち抜くと知っていましたし、火薬の爆発の音と衝撃はかなりのものです。中学生の二男より、高校生の長男の方が怖がりなので、後ろで見物していた方が安全だし、驚かないよ、と後ろ側に場所を取りました。
時間が来て、火縄銃の演武というか、実演が始まりました。火縄銃に火薬と紙を詰めて発砲します。
やはり、音と空気の振動は後ろでも強く感じます。乳幼児はびっくりして泣き出してしまう子もいました。長男もちょっと怯え気味。
火縄銃の演武が一巡して、二巡目が始まりました。
あれっとなる光景がありました。右斜め前方の観客の老婦人が驚いて側の警備員を見ています。警備員さんは顔を押さえてよろめき、倒れました。
何があったのかしら。右端で火縄銃を撃っていた人の姿勢が火薬の爆発を抑えきれなかったようにも見えました。
一時騒然というか、動けませんでした。
元々銃を使う演武なので、警察官が立ち会っています。警察官が倒れた警備員さんに駆け寄ったり、火縄銃を扱っている人たちに集まるように指示したり。観光客は見守るばかりでした。
しばらくして、救急車が来て、警備員さんは運ばれていきました。そして、銃に詰めていた紙が警備員さんの眼鏡に当たって怪我をしたこと、火縄銃演武は中止になったことが発表されました。
「流れ矢や流れ弾の事故は莫迦にしちゃいけない。これは戦国武将のゲームでは有り得ないことだね」
怪我をされた警備員さんには失礼になりますが、歴史を学びたいと考えていた長男には貴重な体験になったと思います。
この後、家族で昼食を摂り、また駅前を通りかかったら、すぐに現場検証が始まっていたらしく、「KEEP OUT」の黄色いテープが一帯に巻かれ、火縄銃の実演をしていた人たちが、何度も発砲のポーズをとらされていました。
午後からは川原で「川中島の戦い」の再現ショーがあるので、それを見物。
「川原っぷちじゃなくて、スタジアムみたいなところですれば、もっと見やすいのに」と、良人が言いました。川原の土手はもう見物客で一杯になり、その上の車道で人の頭の間から川原を眺めていたので、そんな感想が出てきたのでしょう。
「馬を走らせたり、銃の発砲を許可してくれたりする豪儀なスタジアムがあったら、グラディエーターみたいでいいかもね」
「いやそこまでしなくてもいいんだ。単に見づらいって」
その時の上杉祭はもう頭からすっ飛んでいて、怪我した警備員さんは無事だったろうか、と心配ばっかりしていたのでした。
発砲の位置から十~十五メートルくらいしか離れていませんでした。その後、新聞やインターネットの記事から、警備員さんは鼻を折った、とわかりました。眼鏡がクッションになっていたのでしょうが、至近距離で顔に当たるとはお気の毒でした。そしてそれを目の前で目撃した老婦人もショックだったでしょう。
後ろで見物していて正解だったと思ったものでした。




