美人の妹、或は姉妹の運・不運
わたしには女のきょうだいがいません。まあ、従姉妹はいますが、年齢や在所が離れているので、身近な存在とは言い難い。そんなもので、同性のきょうだいがいるのはどんなものだろうと想像することがあります。(兄弟、姉妹と書き分けたり、説明したりが煩わしいので、平仮名で「きょうだい」と表記しています)
平安時代、藤原道長には六人の娘がいました。まず、四人は天皇のお妃になりました。今一人は、元皇太子の小一条院と婚姻。残り一人の娘は、「ただびと」、皇族ではなく、臣下と結婚しました。臣下といっても、村上源氏で、武士ではなく、道長ご一家と親しいお公家さんです。
ここは学生の時に先生から教えられたので、出典は不明ですが、この娘は後にこう述懐していたそうです。
「姉たちは天皇のお后になったり、皇族と結婚したりしたけれど、背の君に先立たれたり、自身が早死にしたりした。わたしは「ただびと」と結婚するのを不満に感じたこともあったが、夫婦して長く連れ添うことが出来て、ずっと仕合せだった」
長女の上東門院彰子は当時では高齢の八十七歳まで生きましたが、夫の一条天皇とは二十代前半で死に別れ、彼の女所生の二人の親王もそれぞれ天皇になりましたが、母親より早く亡くなりました。
政治の表舞台で頑張りたいとの意欲を持たない女性であれば、姉の人生を羨ましいと思わないのでしょう。
山形の戦国武将に最上義光がいます。最上義光の妹・義姫、二女・駒姫の知名度が高いです。義姫は伊達政宗の母ですから伊達家経由で有名。二女駒姫は戦国時代の悲劇の美少女として知られているようです。
豊臣秀吉の甥・秀次が九戸征伐の帰途山形に立ち寄り、駒姫を見初めたと言います。まだ年弱の為に、後日と約束して秀次は帰りました。
駒姫が数え年で十五歳になり、催促され、上洛しましたが、秀次は秀吉より謀反を疑われて高野山に追放され、追って切腹を命じられました。駒姫は「お伊満の方」の候名を与えられていましたが、秀次との対面はしていませんでした。しかし、ほかの秀次の妻妾や子どもたちと一緒に三条河原で処刑されました。
最上家や伊達家も同様に謀反を疑われ、危機にありました。徳川家康の取り成しで疑いを晴らすことが出来ましたが、最上義光はこの時、娘だけでなく、妻も心労か自害か不明ですが、喪っています。深い恨みを抱いて、これ以降、徳川家に接近していくようになります。
駒姫の話はこの辺までにしておきますが、駒姫は二女ですので、当然長女がいます。下に妹もいました。駒姫に比べてさっぱり有名でありません。
長女は松尾姫といいました。家臣の野辺沢光昌と結婚しました。で、わたしは郷土史に詳しくないので、「長女は次女と違って、顔も性格も政略結婚向きでなかったのだろうか?」と思っていました。しかし、郷土史に詳しい弟から、「野辺沢は家臣といっても、最上家の権力拡大に伴って君従するようになったので、元は家臣ではないから、政略の意味はある」と教えられました。
人権意識とか、平等主義の考え方がないし、身分制度がある時代です。好いて好かれて所帯を持つのは庶民のすること、大名家の姫と生まれたからには、何らかの政略で結婚するのは当然と考えていたと思われます。
『源氏物語』を愛読していたという最上義光の娘ですから、『更級日記』の作者のごとく『源氏物語』を読み、恋を夢見ていたかも知れません。夢見る恋のお相手は、貴公子であり、身分が下の男性ではないでしょう。
駒姫は数えで十五歳、丁度中二の年齢です。
天下人の側室になり、寵愛を得て、後継者となる男子を生む。当時、淀殿という生きた見本がいました。淀殿が二人目の男の子を生んだために、秀次をはじめとする秀吉の養子たちの立場が危うくなったのはまた別の話になりますが、義光や駒姫に野心や期待が少しもなかったとは言い切れません。
松尾姫の結婚の時期はよく解りませんが、夫となる人物が三つ、四つ年下だったので、未婚で、妹が関白秀次の側室になるため上洛する準備をするのを、城内で間近に見ていた可能性があります。
妹の上洛、そして刑死、母の死、最上家の危機などを山形で伝え聞き、どんな気持ちだったのでしょう。美人の妹を羨んで、家臣に嫁ぐ自分と比べていたかも知れないけれど、いくら武家の娘らしく立派な態度だと涙を誘ったと噂されても、河原で斬首されるのはあまりにも酷い最期です。天下人の親類に見初められるような容貌でなくて良かったと考えたかも知れません。
駒姫の件で懲りたのか、元々の義光の戦略だったのかは調べていないので解りませんが、長女の松尾姫だけでなく、三女竹姫、四女禧久姫も最上家の家臣に嫁いでいます。(娘の名前に、松、竹、菊があるのに梅がない)家臣は代々の譜代もいれば、権力拡大の中で組み入れられた家もあります。
家格が上の相手、もしくは義姫のごとく緊張関係にある家に嫁いで同盟を強める外交官の役割を務めたり、子どもを生み婚家をコントールするように立ち回ったりするのと、家臣の家に降嫁して実家との連帯を強める役割を果たしていくか、どちらが仕合せで、より良い人生だったのでしょう。
淀殿は関白の側室で秀頼の母、末の妹お江は徳川秀忠の正室で家光の母、真ん中のお初さんは一大名の京極家の正室で子供がなかったため、お江の娘を養女にして、夫が側室との間に儲けた男子とめあわせました。子どもがいなかったための気苦労はあったかも知れませんが、将軍家の後ろ盾がある姪っ子を養女にして、老後を安泰にしました。きょうだいのような天下人の妻、母の立場を羨んだか、そんな大変なの真っ平と思ったかは、だあれも知りません。むしろ、豊臣家と徳川家の間をうまく泳いで、戦国の世を渡り切った印象があります。
歴史上の親子、きょうだい問題もかなり深いです。
子供の頃読んだ郷土史の本や、「最上義光歴史館」のホームページを参考としました。




