頼朝と義経
源義経ファンの方は読まないでください。
源頼朝はあんまり評判が良くない人物ではあります。「判官びいき」の言葉があるとおり、義経に同情する気持ちから、頼朝は、義経だけでなく、ほかの兄弟、範頼も討伐していることもあって、身内に冷たい政治家となるのでしょう。
政治の面ではよく判りませんが、頼朝に範頼や義経に兄弟としての情があったのかどうかは疑問です。だって、みんなお母さんが違うんですもの。
頼朝は源義朝と正室の女性との間に生まれた嫡子ですが、範頼も義経もほかの女性の所生です。
女の側の感覚だと、父親が同一人だから兄弟だと仲良くできるだろうか、考えちゃいます。歴史の話をしていて、やはり女性同士のお喋りだと、頼朝は義経を弟と思って仲良くしようなんて考えてなかったんじゃないと、なってしまいます。
NHKで『平清盛』を放送していた頃に、歴史を勉強していた長男に、頼朝と義経は兄弟としての情があったかどうかの話をしたことがあります。
「父親が同じでも、母親が違う。年齢も十歳以上違う。別々の場所で育った。初めて会ったのは大人になってから。
これが頼朝と義経の関係となる訳だけど、兄弟?」
「兄弟とは思えないかなぁ」
そりゃウチの息子どもは父も母も同じで年齢がそんなに離れておらず、一つ屋根の下で生活しているので、そんな条件出されても、想像できなかったでしょう。
義経は数々の命令無視をしています。安徳天皇の身柄と三種の神器は安全に確保するようにと、頼朝から言われていました。しかし、戦線を拡大し、壇ノ浦の合戦では安徳天皇と三種の神器の一つの内の草薙剣が行方不明。朝廷側に示す大事なカードを失いました。(しかも頼朝の実母は草薙剣を祀る熱田神宮の大宮司の娘ですよ)
また、武士に対する恩賞は頼朝を通して行わなければならないのに、勝手に罰したり、自分は朝廷から官位を授かったりしました。鎌倉に朝廷とは別の権威を組み立てようと模索しているのに、棟梁の方針を無視したので、兄貴としてより、上司として激怒したでしょう。
長い歴史の流れの中では様々な残虐行為がまかり通ってきたので、義経が戦の中でしてきてことは、はぁーそれがぁー? と、言われてしまいそうですが、当時奇襲は卑怯と言われていました。義経は一の谷の合戦で、平家の陣の後ろから攻めるという奇襲を行いました。
壇ノ浦の合戦では、当時海戦では非戦闘員とされ、攻撃してはいけないとされていた水主を弓で狙い撃ちさせました。
義経は船上で戦いを挑んできた平家の武者を避けて、八艘飛びをしたのは、果たして恰好良いのか、逃げ足が速いだけなのか。(一騎打ちが恰好いいという一騎当千のつわものではないんでしょう)
軍人としては優れていたけれど、長期的な戦略眼がなく、頼朝や東国武士の政治的な意図なんて解ってなかったんだろーなあ、と印象が残ります。これも別々に生活していた期間が長かった為でしょう。
義経も鞍馬寺で坊さんになるか、奥州藤原氏の許で生活しつづけるか、別の所で暮らすと選んでいればまた違った人生だったかも知れないのに、兄貴の所に顔を出したばっかりに、東国武士の組織の中で行動しろと言われても、人事体系を理解せずに突っ走っちゃった感、大です。




