美女と野獣
サン=ジュストが小娘時代の偶像で、『熱月』なんて短編小説を書いたと紹介すると、女ってのは男を顔で選ぶのかよと、言われちゃいそうですね。実際、フランス革命に参加していて、サン=ジュストやロベスピエール、ナポレオンの姿を直に見ていたはずの画家ダヴィットの描いたサン=ジュストの肖像画は、気取った雰囲気ながら、なかなかの美男。
ジャン・コクトー監督の映画『美女と野獣』も、おとぎ話と詩人のイマジネーションの映像化に目を奪われて、あんまりベルと野獣が打ち解けた様子がなかったように思います。野獣が人間の姿に戻り、ベルに一緒に行こうと声を掛けると、ベルが、「あなたと一緒なら危険も素敵よ」と言い、二人で空を飛んでいくラストでした。これも「女は顔で男を選んだ」と一部の方々から評判がよろしくないようです。
だあって仕方ないじゃないですか。野獣から人間に戻った姿が、あのジャン・マレエですよ。性別はともあれ、男性に性的魅力を感じる嗜好の持ち主ならジャン・マレエから誘われて、いい気分にならない者がいるでしょうか。ジャン・マレエはただの優男ふうではなく、ギリシア彫刻のような美貌の持ち主。ジャン・コクトーだってジャン・マレエを愛したんですよ。
ディズニーのアニメはビデオで観ました。映像技術は上でも、フランスのおとぎ話がアメリカナイズされて、ジャン・コクトーのイマジネーションの方がいいかなぁと個人的に感じました。舞台も観にいってませんね。
一昨年あたりの公開されたフランス映画の『美女と野獣』のベル役はレア・セドゥ。レア・セドゥはその前の、『アデル、ブルーは熱い色』を観ていました。(彼の女がボンドガールの007は観ていません)
『アデル、ブルーは熱い色』で、同性愛者の役でしたが、今回はおとぎ話のヒロイン。どんな感じかな、と観にいきました。
19世紀あたりのロマンチック時代のハイウェストのチュニック風ドレスを着ています。実際、父親の仕事が貿易商と、衣装やら背景やらがその時代らしい。父親は船が難破して、貿易に失敗し、財産を失いました。色々と遣り繰り算段をしながらの道行き、父が迷い込んでお城で一泊したところで、ベルから言われていた薔薇の花を一輪摘み取ると、恐ろしい怪物や野獣が現れ、旅人をもてなしたのに、仇で返すのかと言われます。父親は娘から花を一輪、お土産にと頼まれていたのでつい、と答えます。ではと、一旦家に帰ることを許すが、戻って来いと言われ、馬を与えられます。父が家族に事情を話すと、夜の明ける前、ベルは父の身代わりに馬に乗り、野獣のお城に向かいます。
ベルは野獣の城に迎えられ、部屋や服を与えられて、毎夜夕食を野獣とともに摂ることを約束させられます。
野獣との遣り取りが、フランス女性のコケットリー、ツンデレなんて言葉が生まれる前から存在している、ツンとお澄まししながらも甘えるような色っぽい感じ。
ベルは眠りの中、中世の王子とその婚約者となった女性の悲恋の夢を見ます。男性がカボチャブルマー、タイツ。女性が上半身をぐっと押し込めるようなドレスのスタイル。ベルの時代とは全く違うと解ります。中世の世界で王子とその側近は狩りが好き、しかし、婚約者は狩りを止めさせたい。一度は狩りを止めると約束しながらも、森に時折現れる黄金に輝く女鹿を射止めようとしています。やっと黄金の女鹿を追い詰め、矢を射かけます。するとその女鹿は婚約者に姿を変えました。女鹿は森の神の娘で、人に姿を変えて王子と恋に落ちたのでした。女鹿は王子を許しまして亡くなりましたが、父親の森の神は許さず、王子は呪いを受け、野獣の姿となりました。
事情を察して心を痛めるベル。
しかし、父が病に倒れていると魔法の鏡で知り、野獣に見舞いに行きたいと伝え、お願いします。野獣は必ず戻ってくることを約束させ、傷や病を癒す力のある泉の水を渡します。ベルは家で父を見舞い、父は泉の水の力で目を覚まします。ところがベルの兄たちがベルの装飾品を見て、ベルを野獣から取り戻すだけでなく、借金の返済に使えないかと考えます。兄から上手くお金を巻き上げているヤクザ者さえ現れ、お城へと様々な者たちが向かいます。
さて、どうなるのか。
戦いが終わり、傷ついた野獣はベルと兄たちの手で泉に浸され、ベルの言葉で人の姿に戻り、生き返ります。
女は顔で、そして王子の身分で男を選んだとは言えない、めでたしめでたしで締めくくられます。




