やっぱり地震のことばかり思い出す
地震に関する話は考えないようにしようと思ったが、やはり地震のことを思い出し、考えてしまう。
昭和53年に故郷の山形市でも揺れを感じたのが宮城県沖地震であり、わたしにとっての初めての地震の体験だった。
宮城県沖地震はだいたい30年から40年の間隔、チリ地震津波の大規模なものは20年くらいの間隔で来ると言われている。
成人して宮城県に住むようになってから、何回か地震を体験した。その度に震度やマグニチュードを確認し、宮城県沖地震に該当していないのかと感じた。幾ら震度が強くても、建物が壊れようとも、マグニチュードが5や6では宮城県沖地震に該当しないらしい。ここらへんは地質学者さんの見解となるから素人としては、大きな地震だったけど、震源が宮城県沖でも、まだまだなのかと不安があった。
五年前まで、「近い将来高い確率で起こるとされる宮城県沖地震」は、何かと連呼されており、姑がよく聞いているラジオでは、午後五時を過ぎると、昭和53年のこの時間に宮城県沖地震が起こったことを時報のように伝えていた。
平成20年の内陸地震の時以来、買い物に不便な所に住んでいる所為もあって、備蓄を心掛けるようになった。内陸地震で被害を受けた栗駒市では、DH○の「栗駒の美味しい水」の発売は中止になり、今に至っても再開されていない。山津波ともいうべき被害であって、山に入っていた行方不明者はどこを探したらよいものか判らないような状態たった。温泉の湧く場所が地震でずれたらしいとも報道があった。
平成23年3月9日の地震は、後で知ったがマグニチュードが7を超えていた。二日後の地震の規模はそれどころではなかった。地震の揺れの途中で停電になった。ガスも止まった。水はまだ出ていたが、いつ止まるか判らないから汲めるだけ汲み置いておけと言われて、慌てて風呂桶にも空いているボトルや鍋に水を汲んだ。やがて水道も止まった。食料や調味料や水、紙類は備蓄していたが、カセットコンロのガスボンベの買い置きがなかった。まだ寒い時期だったから、ストーブを出しており、ストーブで調理をしていたので、なんとかしのげた。水はいくら給水を受けても心許ない気分であった。給水車が来るほかに、ボランティアで農家の方が自分の敷地の湧水を汲んで持ってきてくれていた。本当に有難いことであった。わたしたちの住まいは恵まれていた。津波のない内陸部で家屋の被害がほとんどなかった地域だったので、自宅避難で済んだ。
二男の中学校では一学期期間中、体育館は避難所として使われていた。中学校は田圃の真ん中だった。そこを辿る道は結構デコボコになっていた。
昭和48年竣工だかの仙台市庁舎は耐震補強を繰り返し、武骨なまで不格好な建築物になり果てていたが、震災に耐えた。平成『ガメラ』映画で怪獣の攻撃で仙台市が壊滅した画像の中でも残っていた某生命保険会社のビルが地震の揺れで天辺が壊れた。地盤の弱い場所の某建設会社の社屋ビルの一階部分が潰れた。
昭和56年の建築法の改正による耐震性の強化、その後の阪神・淡路の震災を受けての耐震補強はいくら建物が見栄えが悪くなっても必要なものだと感じた。
しかし、良人が武蔵国に単身赴任の際、社屋の耐震補強を請け負ってくれる企業がないと言っていた。場所が武蔵国では、やはり震災の復興とオリンピックの計画が先になりがちで、耐震補強は儲けが薄いらしい。また企業にとっても宣伝になりにくいのだろう。
個人としてできることは少ない。でも努力と工夫はしたい。備蓄品には介護用の清拭綿でもなんでもいいから、体の拭ける大判のウェットシートを入れて! 実際、今、九州で不足している。手を洗う水さえ不足する中、清潔を保つ手段はいくらでもあった方がいい。
東日本大震災の時、衛生面の心配で、ツツガムシ病を予期するような週刊誌の見出しを見たような気がするが、ツツガムシ病は新潟・山形・秋田など日本海側の風土病。実際太平洋側でのそれはなかったように記憶する。
これから農作業や学校の活動が本格化する直前での地震、そして温かくなる中での狭い環境。
九州で被災された方々、どうか、どうか、健康面に気を付けて、お過しください。何か娯楽を提供できれば、お気持ちが軽くなるかと思うのですが、今のわたしには祈ることしかできません。どうかお許しください。




