File4 入社 Welcome To The UNDER-LINE
分厚い金属でできた自動ドアの先は三メートル四方の空間のみ。行き止まりだった。しかし、エレベーターの中にいるかのような振動と気流の変動を感じる。一瞬だけ途絶えた意識と空間。体感したことのない、まるで細胞が崩れたような気持ちの悪さ。しかし体はなんともない。
気になった私だが何も口に出すことなく、「では、下へ参りまーす」と女性アナウンス口調でふざけて言ったインコードを無視した。
辿り着いた先はこの案内役の青年が務める大企業(らしいもの)がある。どれほどブラックなのかはわからないが、今までの生活よりはまだマシな人生を送れると信じていた。
「詳しい説明はまたあとで改めて話すけど、これだけは心に据えておけ」
少しだけの静寂の後、突然の厳しい口調でインコードは言った。思わず身を引き締めてしまった。
「これから関わる人は全員、アンタが思っているような普通の人間じゃない。そして、この会社のことも、そいつらのことも、これから知識として叩き込まれることの一切を口外した場合、人間として生きていけなくなることを肝に銘じておけ」
悪寒が走る。
冷徹な瞳が語った言葉。それはどういう意味で言っているのか。ただ、ろくなことがないのは明確だろう。
今更引き返せない。私は覚悟した。
「それさえ守ってくれれば大体は大丈夫だ。畏まる必要はねぇし、言うほど束縛はねぇから」
先程とは一転し、ぱっと明るくなった笑みと温かい言葉にほっとするが、大抵の会社紹介での説明ほどあてにならないものはないわけでもない。しかしどこか説得力に欠ける。
ポーン、と電子音が空間に響く。着いたようだ。音声と同時に鋼鉄ドアが開いた。
「ようこそ! 我が社『UNDER LINE』へ!」
インコードが大げさに手を差し伸べた先の景色。そこはまるで大都市のターミナルホールのような、芸術の自然が広がっていた。
硝子の柱のようなカプセルエレベーターが等間隔でぐるりと六つ配置、ホールの壁側に全十四層のフロア。しかし通路の天井や壁はガラス製であり、その向こうには太陽の下でその暖かな光を反射している紅葉の空と緑育む海が映り込んでいた。――いや、これはスライド式液晶パネルで覆われているのか。流動する像があまりにも細かで、私の"目"でも一瞬だけ判別がつかなかった。
吹き抜け構造の複合商業施設のような、タワーマンションの中庭――中央ホールの高い天井はドーム型であり、脳神経のような幾何学模様を描き、その表面を層として覆うように、分子配列のようなガラス色の骨組みが確認できる。そこから放たれる仄かな照明が円柱型のホールを十分に照らしていた。
一階から天井までのぽっかり空いた中央の空間はホログラムで作られた粒子オブジェが天を舞う竜のように限られたスペースで動いている。色とりどりに変わり、雲、魚の群れ、幾何学模様など、形を変えながら流動するその様はアートを越えていた。まるでここが鳥籠の中のようだ。
壁際やモニターウィンドウで覆われた白い柱の側には、ちゃんと育っている植物があり、またどこからか水のせせらぎが聞こえてくる。これらが無機質に生かされている空間と、生命の温かさとのバランスを保っている。
演出としてガラスに映り込む自然の景色。メタリックミラーとクリスタルガラスを強調したブルーライトの塔。その内部を見ている私は、とても地下にあるものとは思えなかった。暗色なのに、窓から差し込む太陽のように明るい。
そして、そのホールを地上の通行人のようにいろんな人たちが行き来していた。手すりにつかまり、真下を見れば、一階フロアの会社員らしき人たちが移動している。しかしスーツや白衣より私服の方が多く、また国外の人も結構いる。現在いる階層は七階。辺りを見渡す限り、他にもルームはあるようだと私の脳が教える。
私は感嘆の溜息をついていた。その景色に釘付けになっていた。
「ここは第二エントランスホール。社内のいろんな役職をもった人たちが交流する、公の場だ。ここよりも更に広い『センターホール』ってのもあるぞ」
私の口はぽっかりとあけたまま、ただ深い息を吐いていた。
そして、やっとその感想を口にすることができた。
「地下にこんな場所があったなんて……」
それを横目に、インコードは微笑んだ。
「アンダーラインはスカイラインの『根』なんだよ。空へ大きく枝を伸ばすスカイラインの大きさだけ、アンダーラインは地下へ大きくその根を張るんだぜ」
「他にも場所があるの?」
ちょっと興味を持った私の様子に気が付いたインコードは嬉しそうに微笑する。
「まず、社長んとこへ行こう。場所案内はそれからだ」
*
私は驚愕した。
勿論、誰にも知らない秘密結社みたいな企業が存在している上、こんなに広大なんだってことも、それが地下深くにあるってことも。
だが、何よりも驚いたことが、
「あんたって意外にもすごい人だったのね……」
アンダーラインを案内してきた得体の知れない変人じみた青年「インコード」がこの会社の社員に会うたびに「インコードさん! お疲れ様です!」とか「昨日は本当にありがとうございました!」とか言われちゃっている。後輩らしき人だけでなく、年上の人たちからもそのように慕われているのだ。
簡単な話、こいつは地位的にも人情的にも結構高い人だった。
ここの大体がこの青年インコードに敬語使ってたし、畏まってたりしてた人もいたし、そんな尊敬されてる男に対してタメ口で話したり怒鳴ったりしてた私は何とも言えない気分に襲われていた。
「ははは、凄いってことはねぇよ。ちょっと世話になって顔が知れてるだけだ」
こんなときだけ謙虚ぶるから腹が立つ。
「なんだよ、そんな睨んだような顔して。尿意か?」
「……なんでそうなるのよっ!」
意外過ぎる発言に一瞬間が空いたあと、つっこみを決める。
申し訳なさそうに言ってるのがまた腹が立つ。
「悪いな、そーいうことに配慮できてなくて。あ、トイレなら今の道を引き返して……」
「人の話を聞け! 違うって言ってるでしょーが!」
正直な話、私はこれだけ社員のみんなに尊敬されている、信頼されているこいつに嫉妬していた。自分にはない、得ることもできないものが彼にはあった。
それが、ただ羨ましかった。
幻影瞬くエントランスホールを抜け、白い柱と段差のある白い天井が連なる通路を歩く。床が光反射するほど綺麗であり、水でも撒けば滑性がすごいことになりそうだ。ところどころ見かけるパネル映像や二m級の固定型ホログラムオブジェを見、どこかの美術館を思い出させる。すれ違う人と何度か目が合い、思わず目を逸らした。飛び込んできた他人の思考をヘッドフォンの音楽でかき消す。
八つ並ぶエレベーターの内、左から二番目のそれに乗り、インコードは幾つかの階層ボタンをデタラメに押す。何故そんな子供の悪戯のようなことを今ここでしているのかと思ったが、次の一言でそれは勘違いとなった。
「んじゃ、社長さんのとこに行くとしますかね」
しばらくして、着いたところは最上階――地下一階ではなく、何階でもない隠し階層だった。電子表示パネルにフロア数が示されていない。ぶ厚い自動ドアが開く。
そこは、管理室や上層部の人たち専用のエリアだと言ってもよいほど、殺伐とした雰囲気を放っていたような気がした。ゲームでも見たことあるような、近未来の無機的な雰囲気。
「そんな畏まらなくていいぞ。ヤバそうなとこでも雰囲気だけだし、堂々してりゃなんてこともねぇよ」
「よ、余計なお世話よ」
声が微かに震えている。やはり緊張しているのだ。
ただ通路を歩く音だけが聞こえる。大理石のような重たい床。緊張でその床が何でできているのか"読み解く"余裕すらない。
「着いたぞ。ここがこの会社を指揮する総統括、つまり、社長のいる部屋だ」
豪く無機質な自動ドアが目の前にあった。ただの金属質の自動スライドドアなのに、そこから放たれる威圧が私の小さい身体を覆い潰す。そんな錯覚を覚える。
インコードは何かのカードを取り出し、ドアの傍のタッチ端末にそのカードを当てると、そのドアがシュン、と滑らかに開いた。私の心情に合わせることなく、友達の玄関に入るかのようにあっさりと統括のいる部屋へと入ってしまった。
「ちょ、ちょっと、まだ心の準備が……」
ドアが開いているので、私は小声で訴えかけた。
そもそもこんな服装でいいのか。まず入室の時は……。
「大丈夫だって、そんなんいらねぇよ。早く来いって」
「うわっ、ちょっと」
インコードに手を掴まれ、部屋の中に引っ張りこまれる。
ドアの先。そこには待っていたかのように私とインコードを見つめていた目があった。眼鏡をかけた三十代半ばに見えるこの国の人種ではないブラウンヘアの男性が社長室にでもあるような専用の大きな机の後ろにある社長椅子に腰かけていた。
ミラノラインモデルの高級スーツを着ており、いかにも真面目そうだったが、どこか優しさのある雰囲気を漂わせていた。スーツのコンパクトで柔らかなフォルムがその男とマッチしていた。スーツが似合う男とはこの人物のことだと言ってもいい。
しかし、視力回復治療や手術簡易化、メカニカル発達による義眼の高性能化もできる今の時代で眼鏡をかけるとは珍しい。伊達眼鏡なのか。
「失礼します、社長。例の彼女を連れてきました」
インコードはさっきまでのふざけたテンションとは大きく異なり、凛々しく敬語を使っていた。それは当たり前のことであるどころか、ビジネスではもっと礼儀正しい振舞をする必要があるにしても、彼が言うとどうも変な感じがあったため、彼の敬語は聞き慣れない。
「お勤めご苦労。早速だが、まず君に言っておきたいことがある」
その穏やかな声色と安心させるような優しい口調が、返って気持ちを不安にさせた。
こういう優しいとこが怖いんだよな。ギャップがありそうだ。
それに、この国の言語を巧みに使っている。一応この国の言語は世界基準である標準語なので話せるのはおかしくないことだが、最近では簡易的"翻訳エンジン"によって簡単に異国言語も話せるので、それを使っている可能性も少しはある。
「いきなり入社試験や研修、適合試験を全部パスさせてほしいなんて難題、できるわけがないだろう。それも、君がたまたま見つけた……精神疾患の病歴があって、その上前科持ちの一般市民をアンダーラインに勧誘するとは……」
社長は疲れたような表情で溜息をつく。私は目を丸くし、バッとインコードを見た。
ちょっと待て話が違うぞチャラ男。会社が必要としてるってまるっきり嘘じゃねーか。おまえの独断だったのかよ。
目で訴えても、インコードは気づかない。真剣な目で抗議する。
「お送りしたデータの通り、彼女は一般市民にはない……いや、サヴァン症候群をも超える特別な力を既に発揮できています。必ず、アンダーラインに必要な人材となります」
「しかしなぁインコード、それにしたって突然すぎるだろう」
「それでも、なんとかするのが総統括でしょう」
インコードはニヤッと笑う。社長はため息をつく。
「まぁ、できないこともないが……条件がある」
「なんですか」
統括は眼鏡越しの穏やかな目を鋭くする。
「ひとつ、『適合試験』は必ず行ってもらう。このあとすぐにだ」
するとインコードはピクリと目の色を変える。何か言いたげな目だったが、目の前の社長は手を組み、それを既に見抜いていた。
「何か言いたげな顔をしているね。予め言っておくが、この会社の人材がどういうものか、君なら明確に知っているはずだ。適性審査で不適合判断を出されたとしても、『BHO』の実施、『CC』の導入、そして『PDMR-4』の照射は治安維持部、特に『特策課』では絶対条件だ」
「……」
黙り込むインコードに、社長はふぅ、と息を吐き、
「君だって彼女を死なせたくないだろう。そう思えば、適合試験をやる意味は十分に有る」
「……わかりました」
あのインコードが深刻そうな顔をしていた。
そこまでその『適合試験』は過酷なのだろう。双方の思考が読み取れない以上、それが何なのか全く分からない。
「よし。それ以外の契約や三か月の研修、そして適合試験を除く十二種の試験は一切行わないから安心したまえ。……特例だからな」
社長は冷静に言い放った。その声も穏やかだった。
入社条件、所謂試験という義務でさえもインコードは一つを除きすべてパスさせる。総統括、所謂社長と呼ばれてる目の前の一番偉い人がそれを許可する辺り、インコードは本当にすごい人なのだと思わせる。それかプライベートで関わりがあるのかと考えたが、そうだとしても私情をビジネスに持ち込むのは言語道断だろうと私は考える。実際はどうなのだろうか。
「二つ目。面倒はすべて、インコード。君に任せる」
「あぁ、それは最初からそのつもりだったので」
さっきまでの深刻な表情はすっかり姿を消し、あっさりと言った。
「そうか……では三つ目。これは君より、そこのお嬢さんに言った方がいいな」
「え……私?」
突然話しかけられたので不意を突かれる。第三者のつもりで聞いていたから尚更だった。
私に対しては優しく語りかけるように社長は話した。
「そう。鳴園奏宴さん、だったね。私はこのアンダーラインの総統括と社長を務める、リチャード・アルベルグだ。今後とも、よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いします……!」
私は深くお辞儀をした。ろくに面接も就職活動もしていないので、ぎこちなさは自分でもわかっていた。
リチャード・アルベルグ。真名ではない。この人もコードネームか。本名を知ろうと目をじっと見つめたが、インコード同様、読み取ることができなかった。
そのとき、総統括のアルベルグはにこりと笑う。
「鳴園さん、初対面の相手の思考を探るのはマナー違反だ。人の裸姿を見るのは控えた方がいい」
「……っ、す、すみません」
読んでいることを読まれてしまった。寧ろ私の思考を読まれているようで背筋が凍る。
「君のような"心を読む"人間を何人も見てきている。情報が洩れないように、それなりの訓練をしているだけさ。そこのインコードだって同じだ。君の礼儀を見れば、とうに試しただろうけど、"表面"ぐらいしか読めなかっただろう」
私は横にいるインコードを見る。「まぁそういうことだ」と自慢げに笑っていた。
このままじゃあの総統括に呑まれてしまう。本題に戻った方が賢明な判断だ。
「あ、あのっ、それで、三つ目の条件とは……」
アルベルグは「あぁ、そうだったね」と謝り、脚を組み直す動作をした。
「条件はおそらくここに来る前に彼から聞いたとは思うが、君がこれから体験する出来事も、この会社で働くことも、必ず内密にしてほしい。勿論、家族にもだ」
「……」
それだけ国家的に重要な仕事をするのだろう。どんな内容かは知らないが、この人の"中身の表面"を"読む"限り、薬物のような危ないものは扱わないことだけは解った。
その"内密"という言葉の優しさの裏には、一体どれほどの残酷さが含まれているのか。計り知れない恐怖を抱く。
「わかりました」
その了承に「よし」と言わんばかりの笑みを総統括は見せる。
「では、もう下がっていい。今日から君はアンダーラインの正社員だ。治安維持部門特殊対策課第三隊として正式に認定する。そこのバイタリティー溢れる青年に感謝することだね」
感謝も何も、私から頼んだ覚えはないけどね……。
そう思った私は横を見る。上司の嬉しそうな顔がなんとも子供のように素直さを示していた。
「ありがとうございます、社長! では、これで失礼し――」
電子音が鳴る。何事かと思った私だが、「どうぞ」と総統括が言ったので、誰かが入室すると把握した。
カシュン、とドアの開く音が聞こえる。同時、ゾワリ、と背筋が凍りつきそうなほど鳥肌が立った。振り返ろうにも振り返られない、委縮。
「失礼致します。治安維持部門統括フィニジャンクです。お忙しいところを申し訳ございませんが、昨日の調査報告書の件で――」
なんだこの委縮してしまうほどの圧力は。いや、圧力というより重力に近い。万有引力定数が吊り合いをとれずに揺らいだように、空間が重たく感じる。
足音の大きさ、単振動と踏み込みから体重は重たい。およそ百を超えているから肥満系、いや違う、足取りは軽いので相当な筋肉質だ。機能性香料に混じっている2-ノネナールとジアセチルはやや強く、通行人を平均化・比較し五十代。声質は太め、だが滑らかで発声もいい、喉と周囲の筋肉、言語や含む前頭葉が発達、年齢は五十二~五十四に特定。声が聞こえた位置より身長は一九〇から二〇〇ほど。
まず思わせたのは軍人の人物像だった。背筋が張ったまま、動けずにいた。
そのとき、ドンと背中を叩かれる。インコードだった。
「しっかりしろ」と一言。気を取り戻したとき、フィニジャンクという人物は社長の前に書類らしきものをみせていた。その後ろ姿はシャープなスーツ越しでさえ筋肉質であると物語らせる。
巨漢ではない。しかし、体格は軍人並みだった。私から見れば巨人に見える。
要件を言い終えたのか、会釈し、振り返って初めて、その顔を見ることができた。
スポーツ刈りの金髪と鋭いイメージを沸き立たせる細い縁のブロンズの眼鏡。表情は無く、厳ついマネキンがそこに立ってるかのように見えた。ダイヤモンドフェイスと例えられるほどだ。それもそのはず、右目が義眼だった。普通の目と変わりないが、私には判別できた。
「統括、そのメガネどうしたんですか? 普段かけてないでしょう」
私の気も知らず、インコードは毅然たる態度で強面軍人に話しかけた。その軍人統括は目だけが動き、口を最低限の大きさまで開ける。必要最低限の動きだった。
「その話題を持ち込むな。場所を考えろ」
凍てつくような声。対象が私でもないのに、吹雪に直撃したかのように全身から鳥肌が立つ。筋肉が硬直していて、表情筋すら動かない。
それにインコードさん、それわかりづらいけどグラスディスプレイ、メガネ型の情報端末機です。察してください。
「すいません」と苦笑してやってしまった感を出しているインコードから、その鋭い視線は私にへと移り変わるのを感じた。心臓がレイピアで貫かれた錯覚を感じる。
「インコード、こいつは誰だ」
冷や汗が止まらない。心臓からいやな音が鳴りだす。やけにうるさい。肺循環で気体交換されないまま二酸化炭素濃度が濃い血液で全身を巡るような気持ちの悪さ。そういえば今日の昼ごはん食べていない。だけど胃の中から何かが込み上がってくる。
今までにない恐怖を覚え、脚が震えだす。
そんな私のことを気にもとどめず、インコードは買ってもらったおもちゃを親戚のおじさんに自慢するように私を紹介した。
「今日から入社することになった鳴園奏宴です。ほら、前も言っていたじゃないですか」
それを聞き、思い出したのだろうが、表情はピクリとも動かない。なんだこの超合金生命体は。今どきのアンドロイドだってこんな顔しないぞ。
殺気に似た視線を再び感じる。
「そうか。おまえが言っていたことはこいつの事だったか」
なんだか結構前からこの青年に目をつけられていたんだなとストーカー疑惑を起訴したいという気持ちはすぐに打ち消され、私からもなにか挨拶しなければと思うが、思考が回らない。外見以上に中身がとんでもないパニック衝動を受けている。この人が面接官だったら志望動機すら離せないままシャットダウンするに違いない。
「はい、これから"適合試験"を受けさせるところでして」
と言ったとき、フィニジャンク統括は私の前に立ち、そのダイヤモンドフェイスを接近させてきた。
ちょっと待ってちょっと待って! おじさんちょっと待って!
恐怖と共に戸惑うばかり。
目の奥を白眼視で見続ける。見下されている気分だったが、それよりも殺されるのではないかと錯覚し、鼓動が早まる。今すぐにでも逃げたい一心だった。視線から逸らしたいが、逸らした瞬間、心臓が停止するかもしれない。
緊張を越え、筋肉のATPが枯渇し、アクチンとミオシンが結合してアクトミオシンが生成される。人を見て死後硬直になりかける体験は今後一切ないと願いたい。
長い数秒が過ぎた後、統括はアルベルグ総統括の方へ顔を向け、口だけを動かした。
「総統括。先程の件ですが、特策課第三隊に任せようかと思います。この娘を連れることを優先条件として」
「……え?」
そう声を出したのはインコードだった。この一室の中でいちばん驚いていた。
「統括! 流石にそれは……っ!」
「危険があるのは承知だ。だが、こいつを見る限り、とても適合試験に受かる気配が微塵にもない。勿論手術も含めてだ。心理的にまだ、この仕事に命をかける覚悟ができていないのだ。お前にとっても、この会社にとっても必要な人材なのだろう? だとすれば必ず試験には受からなければならない」
「確かにその通りですが……」
「せっかく見つけ出した才能を『不良品』判定で手放したくないだろう。だとしたら尚更、今回の命に関わる事件を彼女に体感させねばならない」
「つまり同行させ、脳に死の覚悟を刻み付けないと、適合試験はパスできないってことですか」
「そう何度も言っているだろう」
統括は冷たく言い放った。だが、その表情はひとつも変わっていない。
心理と身体は大きく関わっている。それについては高校の時にも授業で教わった。死に隣接した恐怖の体験――扁桃核にとてつもなく強烈な刺激を与えることが適合試験の合格必勝法なのかと私は硬直状態から少し緩むことができた脳で考え出した。それか長期増強の増加も因子に入っているかもしれない。
「……わかりました」
インコードは意を決し、誓うかのように静かにそう言った。
「総統括。それで――」
いいでしょうか、と言い切る前に、アルベルグは口を開いた。
「構わないよ。リスクを考えるなら、そちらの方がいい」
「感謝します。では、私はこれで」
失礼します、とフィニジャンクはインコードに何も言わず、そのまま退室してしまった。その瞬間、重力値が数十mGal下がり、重圧感が無くなる。もう死後硬直のような感覚になるのはごめんだ。心の中で安堵の溜息をついた。
「……インコード、すぐにそちらの"ルーム"とメンバーの端末に件のデータを送っておく。直ちに出動するように」
「かしこまりました」
インコードがそう言い、踵を返した時だった。
「ああそうだ、鳴園さん」
「は、はい……?」
突然呼ばれたことに驚きつつも、顔を向ける。
統括はふっと笑い、しかしその眼は真剣だった。
「仕事もそうだが、これから行われる任務も、適合試験にも腹を括っておきなさい。半端な覚悟で挑めば……死んでしまうからね」