File2 可笑しな日 My New Life Has Started.
目が覚め、咄嗟に息を吹き返すかのように意識を前へと向ける。市内の少し広めの石畳の公園。数人の子供が駆けまわり、ペットと散歩している老人などの市民が目についた。あの"人"としての気配が感じられなかったような違和感がない。音が聞こえる。呼吸も安定。体も重たくない。まるで元の世界に戻ってきたような感覚。
いや、それよりも私は生きてるのか。ベンチにに座っていた私は咄嗟に額のあたりを恐る恐る指で触れ、撫でまわしたが、弾痕どころか傷一つなかった。血も出ていない。
もしかして夢だったのかと気怠さを感じた一方で、安堵した自分がいた。太陽の位置から大体三時あたり。随分と時間が経っているが、この弱弱しい眩しさに恩恵を感じていた。
「よかったぁ……」
つい声が漏れてしまうが、こんな小さな声だったら誰にも聞かれてないだろうと息を吐いた。
「ホントによかったな。生きて帰ってこれて」
言葉にならないような変な声を出してしまった。驚きのあまりベンチの左端までスライドする。
私を撃った好青年が隣に、同じベンチに座っている。男は私の方を見ずに、ただ端末の2D画面のアプリゲームをやっていた。有名なパズルゲームの見慣れた画面に一度だけ目が行くが、それよりも優先するべき感情が込み上がっていた。
言葉の見つからない私よりも先に、青年はゲームをしながら話を続けた。
「俺が万が一アンタを見つけられなかったら、あのまま死んでたぞ」
「……っ!」
「言っておくけど、アンタがさっきまで見てきたのは夢でも何でもねぇ。けど、ちょっぴり幻覚も混じってたな。やっぱり以前に精神病でも患っていたか?」
冗談に言ったつもりだったのだろうが、顔が笑っていない。青年の視線はゲームに集中している。
あれは夢じゃない。唐突にそう言われても、受け入れられるわけがない。
「後ろ見てみろよ」
言われたとおりに背後を見てみる。
高く聳える高層ビルの複層ガラスが見事にすべて粉砕されていた。砂と化したガラスは氷結した雪のように道路に撒き散らされている。道路も罅割れ、幾つか穴のような窪みが見えた。まるで小隕石よりも小さい火球が降ってきたような跡。
ここからではあの横転したバスまでは確認できなかったが、その異様な光景は夢ではないことを目に焼き付かせた。ふと、自分の服にもガラスの粉末がついていることに気がつく。
「え……あれ……?」
しかし、その結晶粉末は水溶液に溶け込むようにゆっくりと消滅していった。それだけではない。顔を見上げると、景色がフェードのようにすーっと元の光景に戻っていく。砂粒と化したガラスの破片は消え、ビルの割れた窓にガラスが再構成され、アスファルトにできた罅や穴がふさがっていく。現実の再確認からまた夢の中へ引きずり込まれたような気分になった。
どういうこと……?
そう口から出たかどうかも分からないほどの小さな声で呟いたときだった。
「……?」
手に何かが当たる。見てみると、私が途中で落としたヘッドホン型音楽プレーヤーだった。「あっ」と思わず声を出し、無傷であることを確認した私は頭につけ、耳を塞ぐようにヘッドホンで覆った。
やっぱりこうすれば落ち着く。聞こえづらいのが丁度いい。
「それアンタのでいいよな。一応拾っておいた」
青年は変わらずゲームに目を向けたまま口を開く。
「うん、その……ありがとう」
初めてまともに話せた気がした。ちょっと嬉しさを感じた瞬間だったが、あの街並みの悲惨だった光景はまだ受け止められない。刻まれた記憶を思い返しながらもう一度街並みに目を向けると、嘘だったかのように、いつもどおりのつまらない景色となっていた。人々も何の疑いもなく、通行している。
「情報によれば死亡数はゼロ。怪我人はいるけど、一次災害で終わったし、それなりに記憶は書き換えられているだろう。ただ、ここら一帯のネット環境もエラーでしばらく機能停止しているけどな」
「……書き換えられている? 記憶が……って」
「あぁ、この都市に起きたことをなかったことにされるんだ。壊れた街並みは自動的に修復。"あいつら"はうっかり巻き込まれたり目撃してしまった人々の記憶も都合のいいように書き換えたり消したりするんだ」
当たり前のように説明する青年に不気味さを覚える。
私の表情は信じられないの一言で表せただろう。何がどんな目的で何の為に……いや、考察するほどの結果材料が揃っていない。
とりあえず、大事故には至っていない、ということでいいのか。それよりもこの男は何をどこまで知っているのか。ちらりと男は私の目を見、「精神は安定しているし、大丈夫そうだな」と一言。
「大抵はパニックになって錯乱状態か思考停止して放心状態。でもアンタのように耐性があるタイプもいる。まぁアンタの場合、ゲームのし過ぎで現実と区別がつかなくなっている奴に近いけどな」
アプリゲームを終え、端末をポケットにしまう。そういえばネットエラーなのにアプリゲームできたのはどうしてだ。
しかし、そんなことを考える気にもなれず、やっと私も内心の平静を取り戻し、男に訊いた。
「あれは結局なんだったの? 本当に現実で起きたこと?」
それとも、テロなのか。そう心配しているのを読み取ったのか、「とりあえず、映画みたいによくあるようなテロじゃねぇよ」と答えたが、現実に起きた出来事であるのは当然のように肯定した。まるで私が間違っていると教えているかのような答え方だった。
「なんていうんだろうな、幻想であって現実に存在する科学の歪、矛盾、盲点。まぁ、簡単にいえば……『都市伝説』か」
「は? 都市伝説ってアンタねぇ……」
意味を知っていっているのか。根拠が曖昧で不明であるもの、という意味ではあってはいるが、民間的口承・疑似的な歴史の意味としては間違っている気がする。
聞いて呆れた私が言おうとしたことを遮った男の言葉は、聞き慣れないものだった。
「不可解現象。通称『道化の悪戯』」
ベンチに背をもたれ、このとき初めて私の顔を見る。『悪の奇術』? その単語の意味を脳内で詮索するが、どれもこの男が言っているものと違う気がした。
「難しいことは言えねぇけど、このご時世けっこう技術進んでるだろ? 高度な科学は魔法に追いついたっていうSNSの呟きもあることだしな。それでも、まだ盲点は山ほどあるし、完全に解明できていないことの方が多い。そのひとつが『イルトリック』。さっきみたいなバケモノ現象もそのひとつだ」
現象にも様々な意味が挙げられるが、この自然とはかけ離れたような都会で発生する現象なんて、ビル風やヒートアイランドあたりのものだろう。しかしそれは、とっくの昔に改善されているとネットで把握済みだ。
言葉を咀嚼し、思考を反芻しながら、男の話に耳を傾ける。
「イルトリックは現象そのものもあれば、それを引き起こす何かを指すこともある。結構ジャンルが多いから分類が大変なんよ。ぶっちゃけて言えば、不思議なこと起きたら全部イルトリックによるもの。幽霊とかの怪奇現象もUFOみたいな未確認物体も、物理法則無視した超常現象みたいな感じで捉えればいいだろ」
「でも、幽霊って確か電磁波や赤外線の変動だって……」
「今の時代なら一昔前まで不可解だった幽霊も悪魔も妖怪も証明どころか科学的に生産できる。ま、新たな時代の新しい不可思議現象が密か~に流行ってるってわけだ。それに呪いといった迷信扱いの思念はちゃんと実在する。質量がないだけだ」
何とも言えないが、実際にとある国で伝承童謡の空想生物を作った研究団体がいたのは事実だ。当然その用途も含め世界に公表された以上、あとのことは分かり切っている。例外としてそれが許される国もないわけではないけども。
「とはいっても、不可解現象もある程度は既知的になったおかげで『不可解現象理論』から『巫山戯た悪戯』という名前になったわけなんだけどそれはいいとして、とりあえずこれは機密事項ね。一応だけどな」といたずらに笑う。
「あんなド派手に発生しておいて機密もありはしないと思うけど……」
真昼間であんなテロみたいな都市伝説があってたまるか。
「ま、科学的に証明できなきゃ都市伝説だ。ネットで騒がれても所詮は噂として流れるだけだし、政府機関も報道機関も上手く誤魔化すさ。それ以前に不可解現象群が証拠隠滅するけどな」
今の時代、科学も非科学も区別がつかないほど進化したなら何が起きてもおかしくねぇよ、と笑った。私は溜息をつく。
「ていうか機密事項っていったわね。一般人の私にそんなこと話してもよかったの?」
そう言った私だが、やろうと思えば"相手の考えることを読むことぐらい"造作でもない。とりあえずこの男は何者だろうかと黒い瞳を見つめる。
「ああ、そうだな。これを聞かれた以上、ただで帰すわけにもいかない」
その黒い瞳は鋭く私を見る。私も見つめ返す。ここで折れてはならない。
心の中で身構えた私は心の中で首を傾げた。それと同時に違和感。
この男の思考が読めない。
全くというわけでもないが、他の人よりも読み取りづらい、モザイクのようなものがかかっている感じだ。頭に何か装置でも施されているのかと警戒を強める。
「……どうするつもり? まさか拉致とかするわけじゃないでしょうね」
冷静を取り繕うが、内心はすごい焦っていた。こういった本場の緊急事態は日常生活であるはずもない。ゲームで鍛錬されていたとはいえ、仮想と現実ではやはり肌に感じるものが違う。
少しの沈黙。そして青年は息を吸い、閉じた口を開けた。
「あんた、俺らの会社に入んねぇか?」
瞬間、風が吹く。今までよりも強く、枯葉が舞い上がるほどに。
数瞬の沈黙、静寂。まるでそこの空間だけが切り取られたかのような寂寥さ。
その一言を理解した私は驚愕を示す。
「……ぇええええっ!?」
もしかしたら公園中に響いたかもしれない。公園にいた一般市民が声に気づき、こちらを向いたかもしれない。しかし、それを確認する余裕などなかった。
青年はニッと笑ったままだった。私の反応を楽しんでいる気もしたが、初対面の他人にウソついて楽しむのもどうかしている。おそらく本当の話だ。
「え、いま、会社って? え、えぇぇええっ!」
突然告白されたコミュ障みたいな反応をする私は更に驚愕の声を上げる。
普通は"センター"に行って"適性試験"して一番向いている職業を診断して、選択して、確認試験みたいな筆記試験や面接して入社するのがこの国の就職活動ってもので、そんな相手側から勧誘されるなんてことはこの社会、少なくともこの国にはないはずだ。
戸惑いを隠せていない私に青年はベンチから立ち上がり、私の前に立つ。透過端末のアイヴィーに顔写真付きの証明証みたいな画像を表示させて、それを私の前に見せながら、明るい雰囲気をした青年は口を開いた。
「自己紹介が遅れたな。俺は『United National Defence Excrescence Research-Directors』――"UNDER-LINE治安維持部門特殊対策課"の第三隊代表、インコードだ。コードサインはIcode29303。あのとき突然撃って悪かったな。鳴園奏宴をUNDER-LINEに勧誘しにきた」
これまた驚きの言葉を発した。推薦ではなく勧誘? いや、それもそうだが、それ以上につっこみたい部分があった。思わずベンチから立ち上がってしまう。
「私を勧誘!? そもそもアンダーラインなんて会社聞いたことも――」
心当たりはあった。都市伝説としてネットで密かに噂されていることのひとつに、大企業や政府を裏で支える大規模な秘密結社があるという、まるで取ってつけたような説がとある口コミサイトに乗っていたことを思い出す。
いや、気のせいだ。ただ私が知らなかっただけに違いない。ちゃんと正式に株式会社として――。
「単純明快にいえば秘密結社だ」
都市伝説は本当にありました。
駄目だ、一体どんな世界征服を目論んでいるんだこの悪の組織は。
「会社としては就職先情報にも全く載ってないし、他の会社とは殆どかかわっていないから非公式っぽい幽霊企業だけど、ちゃんと"お国"には認められている大企業だ。Sky-LINEは知ってるよな」
「そ、そりゃあ、まあ」
知っていて当然だ。この国一番の電波塔を持っていらっしゃる、就職希望率ベスト3に入るトップ企業ですぞ。ソーシャルアプリやモバイルゲームでいろいろお世話になっているし、その大企業はネットワーキングサービスやソーシャルユーティリティだけでなく、事業別でも非常に優れている。
運輸業で有名な『瑞樹エクスプレス』、精密端末機器企業『OBM』、情報通信業『WAVE・DOLL』、製造業の『Personal Kit』など、さまざまな企業と関わり合っている。まさに大木が大きく根を広げているかのような状態だ。
「その巨大企業『スカイライン』を支えつつ、裏で活躍するのが『アンダーライン』。独立した秘密企業といっても、スカイラインとはある程度関わり合っているけどな。あと名前の通り裏国際的だ」
そ、そうですか、としかいえない。
ていうかなんだよ裏国際的って。ビルダーバーク会議でもするのですか。
「で、その仕事内容は、イルトリックを専門とする研究開発がメインだけどー……結局は社会の汚れ役務めてるようなもんだ。それに、他の生温い会社とは違って、結構刺激的だぜぃ」
にゃはは、と笑う青年インコード。聞いていて不安になってきた。
「し、刺激的って、まさか……」
「そのまさか。俺らの会社の仕事、特に治安維持部門は刑事以上に命に関わることなんだよ。つっても、なんかの漫画みてぇに、どっかのマフィア相手に一戦やるわけじゃ……あったなそんなこと」
あったんかい!
ますます不安になってきた。そんな大変な会社に入ってしまったら命が幾つあっても足りない。しかし私はできるだけ冷静な表情を保つ。冷や汗が流れているが。
ということはこの目の前の男は相当危険な相手なんじゃ、と警戒する。
「まぁとりあえず基本は人間と戦争やる訳じゃねぇし、軍事機関とも関わってないから安心しろって」
どこを安心する部分がありますか。
「なっ、なんで私がそんな危なっかしいブラック企業なんかに……っ!」
「残念だけどよ、そっちには断る権利があんのかい。……犯罪者」
言葉が出なかった。豹変した青年の真剣な顔は刀のように鋭利な雰囲気を出していた。今の彼に刀を持たせるべきではないと察する。
「……っ!」
ここでやっと気づけた。自分のことは最初から調べられている。おそらく、"あのとき"からずっと監視されていた。
「前科持ちだったよな確か。担任の先生を無我夢中でぶっ刺しまくったって、二年前報道されていたな」
重い口調。この明るい青年はこんな声も出せたのか。
違う。あれは違うんだ。
「わたしは……っ」
「やっていない。というか記憶にないんだろ? 刑務所お得意の脳内調査データにはしっかりとその大脳皮質に狂気的に刺している視覚映像が刷り込まれてあるけど、自覚なし。都合のいい頭してんのな」
「……っ」
怖い以上に殴りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、私は堪え、奥歯を噛み締めた。
「でも、俺たちにとってはそんなことどうでもいい。今のはあくまであんたの拒否権を拒否する道具にすぎない。……一度不思議に思ったはずだ。傷害致死罪にしては刑期が短すぎるって」
「……?」
過ぎたことだった上に思い出したくないことだったので、それを言われるまで考えていなかった。確かに変な話だ。相当重い罪を犯したのにも関わらず、数年も経たずに私はこうして自由の身になっている。普通ならばまだ牢屋に入って善人へと調教されている頃なのに。
それ以前に改正少年法で成人犯罪と同等の刑罰、とまではいかないものの、より一層厳罰化し、それに近い処分を与えられるようにはなったが。
「最初は八年ぐらいの有期懲役だったんだろ? なのに"ただの"懲役一年ぽっきりになったのは明らか変な話だよな」
「……」
まさかとは思うが、刑を軽くしてくれたのって……。
懐疑的な表情だっただろう。私はまさかといわんばかりの目で青年を見つめ直す。その視線に応えたかのように、ニッと笑い返した。
「ま、察したなら社長に感謝しとけよ。あと俺にも」
「な、なんで……」
そうだ。私はこの男と出会ったのはこれが初めて。そのブラック企業と関わったこともないし、何の縁もないはずだ。私に何を求めている? オンラインゲームの華麗なるステータスや素晴らしきリザルトスコアぐらいしか持っていないぞ。あとは周りより学力成績がいいぐらいだ。
「なんでって、あんたの"力"が必要だから」
「っ! 力って……?」
ちょっと嬉しくなった私は教育課程八年生の心を忘れてはいなかった。しかし同時に心臓からドグン、と嫌な鼓動を鳴らした。そちらの方に心情が傾く。
勿論"力"なんてもの知るはずがない。ないのだが、もしかして自分の"あれ"に気がついているのかと思うと背筋がゾッとした。だとすれば、この男の務めている会社は、私のすべてを知っている。
「誤魔化してもらっちゃあ困る。物心ついたときから既に理解していたはずだ」
「な、何を言って……」
「これまでの人生振り返って見ろよ。そうだな……例えば、今までのテストで百点満点以外取ったことあったか? これまで人に訊かれてわからないと答えたことはあったか? 今日おじさんとおばさんに道を訊かれる前に教えようとしていたときも、俺から逃げるとき人混みをかき分けるときも、十分に心当たりはあるはずだ」
「……」
どこまで監視をしている。このストーカーが会社レベルで行われていたら相談所どころではない騒ぎだ。そう考えつつも、今までの人生経歴を思い返していた。
確かに心当たりは山のようにあった。教育課程が始まってから満点以外は一度も取ることはなかった。飛び級は個人的にしたくなかったので、普通に過ごしてきたが、大学入試の一次や二次試験だってすべて満点で、逆に信頼を失ったほどだ。どの生徒よりも、先生よりも博識な私はあの事件が起きる前から嫌厭されてきた。
そのことを蒸し返され、顔を思わずしかめた。だが、すぐに落ちついた表情に戻る。
青年は続ける。しかし、その声調は先程までと微妙に異なっていた。
「あと、このあと何が起きるか解っているってことはあったか?」
すると、男は私の顔面――の右に蹴りを入れてきた。
蹴りを入れるモーション。何コンマ秒後に、どこに衝突するか。その時点で解っていた私は"右"へ避けた。
ビュオッ! と強い風が真横から聞こえる。髪が揺れ、ヘッドフォンが左耳ごと裂かれそうなほどの鋭利な蹴りに、容赦のなさを痛感させる。
右に避けた私の目の前にまで向かってきた男の蹴りは、いつのまにか顔面の"左側"にあった。まるで男の位置を左へスライドしたかのようだったが、実際はもっと現実的で単純なはずだ。来るとは読めていたとはいえ、あのまま立ち尽くしていたら顔面骨折どころじゃすまなかっただろうと思うとぞっとした。
男は明るい笑みで
「流石、調べた通りだ」
と、脚を降ろす。
「正直、もしかしたらと思って速度を抜いてしまってたけど、まぁ避けてくれて安心した」
「……ブラック社員なだけあって、容赦なしね」
冷や汗が流れる。心の中で「あぶねー! めっちゃあぶねー!」と連呼して叫んでいる私がいた。青年は謝ることなく、私をなだめるように話した。
「まぁまぁ適性検査ということで試してみただけよ。俺の蹴りを避けられた一般人はアンタで最初だ。同じ部門の社員でも中々いないぜ?」
「つまり」と青年は結論付ける。
「あんたは非常に優れた五感と異常ともいえる記憶力・演算力・推察力などを兼ね備えた先天的天才。極論で言ってしまえば、『何でも解ってしまう』体質ってことだ」
「解ってしまう……」
なんでも解ってしまう体質。彼の言葉をなんども繰り返した。信じられないわけではないが、そうはっきりと言われてしまうと、いまいち受け入れにくい私がいた。
「そ。今は不安定だけど、その生まれ持った才能は量子コンピューターをも超える逸材だ。問題を"読み解く"力。それがあんたの業だ」
「……」
「だからあんたが必要なんだ。俺にとっても、会社にとっても」
強い意志が込められていた。真摯な目が私の心に刺したような痛みをもたらす。風がやけに涼しく感じた。
「もう一度訊く」
青年は改めて口を開いた。
「UNDER-LINEに入ってくれねぇか」
関わってはならないという常識の反面、同時に何かの感情が溢れそうになっていた。
学校で身に覚えのない問題を起こし、警察に延々と同じことを事情聴取され、罵倒され、挙句の果てには叩かれることだってあった。持ち物も、部屋の物も、証拠や情報として調査しては回収していった。プライベートの塊であるノートもパソコンも携帯端末のデータも一から全部を他人に見られたことは嫌でも忘れられない。誰一人味方になることなく、力になることもなく、私は一人になった。
……いや、例外はいた。だけど、たった一本のか細い蜘蛛の糸とも言えた救いすらも、私は振り払ってしまった。全部が嫌になって、解るはずなのに自分さえも信じられなくなって。あのときの後悔と罪悪感は今すぐにでも忘れたい一心だった。
理不尽で、しかし当然の退学処分・有期懲役となり、私の見慣れた居心地のいい部屋は刑務所の固い檻の中へと変わった。そこで過ごした日々など、一日でも早く忘れたい。
釈放されたあとも放浪とした日々を送っていた。家族や親戚、実家にどれだけ謝罪したか。携帯電話を取られた私は当然、友達にも連絡できず、いや、怖くてできなかった。偏執病と判定され、また当時鬱だった私は立ち直れるはずもなく、部屋に籠ってはネットに没頭するだけの毎日を送っていた。
価値のない、つまらない日々。
そんな腐った毎日を送る腐った人間なんて、誰も必要としない、不要品。
必要されていないとあのときからずっと思っていた。
「必要だから」不要な私に見知らぬ彼はそういってくれた。
嬉しいに決まってる。そんなことを言われてしまっては。
何がどうあれ、こんな自分でも必要としてくれる人間がいるのならば、それに答えるしかないのではないだろうか。差し伸べられたチャンスをここで逃したら、一生チャンスは来ないかもしれない。一生後悔するかもしれない。
失いかけた自分の存在価値を、彼は取り戻してくれた。大袈裟だが、閉ざされかけた心の扉を彼は再び開けてくれた。
嬉しい。たった一言のちっぽけな言葉。それが私に絶大な希望を与えてくれた。
苦しかった。今までの生活がとても苦しかった。罪人としての重さは感覚と記憶が麻痺するほどの苦痛。そんな痛みと、ぽっかり胸に穴が空いたような感覚と共に生きてきた毎日。
目を閉じるたび、思い出し、胸や頭に激痛が走る夜。自殺しようと考えたこともあった。誰も知らないときに、死にかけたこともあった。本当に、本当に辛かった。
裏切り者として学生を辞め、罪を背負い、どこにも所属していない、孤独の日々。
そんな裏切り者の殺人者を目の前の彼は救ってくれるかもしれない。人に頼ってしまうけど、こんな辛くて退屈で孤独な生活から抜け出せるのなら。
私は命を懸けてでもそのチャンスを掴み取る。
「……った」
風の音が聞こえるなか、ぽつりと聞こえたとても小さな声。「え」と青年は思わず聞き返す。
ヘッドフォンを耳から外し、青年の前に立つ。笑顔で彼の目を見、もう一度同じ言葉を強く放った。
「――わかった!」
「……それってつまり……」
「あんたらのしつこくてストーカーじみた勧誘に免じて、アンダーライン、入ってやろうじゃないの!」
青年はそれを聞き、虫を捕まえた子供のようにぱぁっと明るい笑顔を見せた。
「……っ! マジで! ホントに!?」
「だから入社するって言ってるじゃない。それとも何? この話は元々なかったこと?」
「いやいやとんでもない! 是非とも、よろしくお願いするよ!」
青年は手を差し出した。それを察し、私は青年と握手を交わした。これだけ嬉しい反応するってことは半ば諦めていたのだろうか。
「じゃ、よろしくね、おにーさん」
今日初めて、明るい声で言えた気がする。ちょっと気分が高揚している私に対し、青年も笑顔で応えてくれた。
「インコードでいいよ。あ、でもどうせおにいさんと呼ぶくらいなら『おにーちゃん』って――」
「誰が言うか!」
不覚だった。まさかの変態属性があったとは。
「うーん、そういわれたら余計に言わせたくなるね。俺がんばるわ」
会社以上にこの男が怖くなった。これが俗にいう『残念なイケメン』か。
「あ、そうそう、入社の手続きだけど……」
「契約書とか面接とかでしょ? 筆記もあるのかしら」
「全部パスさせた」
……今なんと?
軽くとんでもないこと言ったぞこいつ。
「……はぁっ?」
「いやもうなんか、俺からあらかじめお偉いさんに言っといたんで、あとは社長とあんたで話しつけてくれば、もう立派なアンダーライン社の一員だぜ。まぁ社長と面会するのは特例だけどな」
「じゃ、じゃあもう最初っから私はその会社に入社してたってこと!?」
「YES」
如何にも『うざい』という言葉が似合う笑みで返答した。語尾に星マークがついているのが目に見える。
断ろうが引き受けようがどっちにしろ変わりなかったということか。
「はぁ……」
「ん? どうしたんだい、かなえちゃん?」
「いや、その……なんでもない……」
何か釈然としない私であった。
あと、"かなえちゃん"て呼ばれるのも軽々しいからやめてほしい。私にいえることではないけども。
パーカーのポケットに手を突っ込むと、何か温かくて、固いものが手に当たる。そういえばよく無事だったなと感心しつつ、
「あ、そうだ。はいこれ」
私はインコードという変なコードネームの青年に『BLACK 珈琲』と表記されている赤い缶をぽいっと投げた。
「?」
「さっき自販機でアタリ出たやつ。こんなニート系犯罪者を会社に勧誘してくれたお礼よ」
「おお、ありがとな」
インコードはカシュッと缶を開ける。中から暖かそうな湯気が香りと共に漂い出てくる。今どきの缶は熱を逃がさないため、どんなときでも熱い状態で飲めるから便利になったものだと思いつつ、私も自販機で最初に買った栄養ドリンク『エルギニン』を飲もうとしたが、あのとき落としたのか何処を探してもなかった。急にどっと疲れが実感として現れてくる。
「へへ、なんだよおまえ。見た目の割結構気前いいじゃぶぼぁっ! なんっじゃこりゃあ!」
インコードは口の中に含んだ珈琲を豪快に噴き出した。
「あら、結構熱かったかしら?」
「……あ! これよく見たら炭酸入りじゃねぇか! なんだよこれ、なんの罰ゲームだよ!」
「なにおぅ! せっかく私のお気に入りをあげたのに文句つけるわけ?」
「えぇ! おまえ炭酸入りの珈琲がお気に入りって! ぶははっ、どんな味覚してんだよ」
「う、うっさいわね! いいからさっさと全部飲み干しなさい! そうすりゃあんたもその珈琲の素晴らしさに気付くはずよ!」
「誰が気付くかこんな化学兵器! こんなん全国でおまえぐらいしか飲んでねーよ!」
「あーもう許さん! この素晴らしさを知るまであんたの家に炭酸珈琲箱詰めで送ってやる!」
今日ほど不可解だった日はなかったかもしれない。
私は心の中でこれから来るであろう新しい人生に微かな希望を抱いていた。
そして、彼についていけば、"あのとき"のこともわかるかもしれないと期待をしていた。
あのときの事件。私は証明が欲しかった。間違った模範解答は誰だって納得がいかないだろう。
珍しいことだが、その日は予報に反し雨が降らなかった。