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Paradigm-Records_Pro.【打切】  作者: エージ/多部 栄次
Disc1 Close Encounters of the Inexplicable.
20/35

File18 ふたり A method of settlement.

 私は悶絶した。

 体内を駆けめぐる電撃。神経が溶け爛れそうななほど。まるで感覚が狂い、筋肉もぼろぼろに引きちぎられ、骨髄ごと骨を粉砕され――。

「っ! ぁああああぁああぁああああ!!!」

 ただ、狂うように叫ぶことしかできなかった。

 激痛。激痛。激痛。

 一秒でもはやく、死にたかった。死んで楽になるのなら、今すぐにでも命を捨てたかった。


     *


「っ、こりゃあ、ちとまずいんじゃないか?」

 席に座っていたボードネイズは目の前の強化ガラスに映し出された人工イルトリック内部空間――リプロダクト越しの映像を見ては、苦笑した。

 荒っぽい音がその場で聞こえてくる。ドン、とガラスの壁まで押し出され、背中を叩きつけられたのはインコードだった。

「だから言ったんだ! いきなりカルマを発動させるなんざ無理があったんだよ!」

 インコードの胸ぐらを掴んでいたのはカーボスだった。目を丸くしたナティアはすぐに制止させるよう前へ出た途端、「引っ込んでろ!」とカーボスが叫ぶ。

「マジでいい加減にしろよおまえ。緊急任務んときも、今回の最終調整も、あいつに無理させるにもほどがあんだろうが! あいつはおまえじゃねぇんだよ!」

「それはわかってるさ」

「だったら!」激昂は治まらない。

 ボードネイズはその様子を表情一つ変えずに一瞥しては、モニタ越しの二人の状況を見続けていた。

 何かを言おうとするも、開きかけた口は躊躇い、歯を噛みしめる。インコードは冷静にカーボスを見続けていた。

「……いつになっても、おまえの考えていることだけはわかんねぇ」

 インコードを突き放し、カーボスはその場を去る。呆れたというよりは、疲れ切ったような目。彼の足音すら聞こえなくなり、静かになる。しかし、訪れた沈黙は長くはなかった。

「まー、俺からもいろいろ言いたいことはあるが」ボードネイズはやや気の抜けた声を出す。

「中断する気はないんだろ?」その問いにインコードは襟を整えながら頷く。

「あいつは必ず乗り越える。"遺伝児ジェネティアクター"はこんなレベルで屈するようなもんじゃねぇ」

「で、ですが、だからといって」ナティアが口を挟むも、インコードは話を切る。

「ほかの奴らと同じ過程を積んだって、その潜在能力を全部は引き出せねぇんだ。俺が言いてぇこと分かるだろ」

「……」

「大丈夫だ。今は見守っていればいい。最悪のケースには絶対にさせねぇからよ」


     *


「……またあなた?」

 痛みはなくなっていた。しかし、体が直立したままで一歩も動けない。いや、動く気になれなかった。

 場所も違う。リプロダクト内部なので唐突なバックグラウンドのチェンジぐらいあるだろうが、ここは現実味のない不可解現象イルトリックよりも現実じみた身近さと幻想じみた虚構感があった。

 前に会ったのは水に浸された蓮の花畑だったか。今度は田舎にあるような廃れた駅の中。相対式プラットホームの古い駅。線路は水没しており、水草が生えている。トンボやアメンボがそこにいた。

 私がいる、干ばつのようにひび割れたプラットホーム。線路越しの向かい側のプラットホームには、夢の中で出会った黒髪のきれいな女性が立っていた。どことなく明るそうな表情に小さな苛立ちと呆れを覚える。

「やっ、またあったね」と笑って迎える。

「あなたがいるってことは、また死にかけている寸前ってことですよね」

「お、ものわかりが早い! さっすが!」とうれしそうに言う。笑うと綺麗と言うよりは無垢な少女のようにかわいらしさが出てくる。だけど気にくわない笑顔だ。

 いや、それよりも死ぬ間際なのか。現実の私は倒れているのか?

「ここってね、私の子供の頃に育った場所なんだよ。近くにね、森があるの。ひっそりとした、とっても大きな森」

 なにが話したいのか。彼女は話を続ける。

「針葉樹のトウヒやマツ、広葉樹のオークやブナが混じり合っていてね、季節ごとに新緑から濃緑へ、赤や黄色から白銀へと色合いを変えていくのがとっても綺麗なのよ~」

 おばちゃんみたいな話し方だ。先ほどまでの最終審査の真剣なムードからの死ぬほどの激痛、そしてこの別世界での世間話である。感情がついていけない。

「特に冬の間がすごくてね、夜の間降り続いた雨が森全体を濡らして、夜明け前の冷たい空気がその木や草の表面の水分を氷に変えるの。草木は気温の上がる昼間での間、氷に閉じこめられて真っ白な姿で立ち尽くしているその姿がなんとも神秘的で……ちょっと聞いてる?」

「聞いてますけど、それどころじゃないです」

「まぁそうだろうねぇ。あ、さっき死にたがってたじゃない。人生捨てて私と一緒に来る?」

 冗談でもない。いや、さっきは本気でそう思っていたっけ。目の前の水に浸った線路が三途の川に思えてくる。彼女は線路を挟んで向こう側にいることだし、あちら側があの世なのか。実際にあの世があるかなんて宗教ぐらいでしか信じられてはないけど。

「いや、遠慮しておきます」

「つれないなぁ」

「ノリで簡単に死ねないでしょ」

「でも戻ったらまた死にたくなるほどの激痛が待ってるよ」

「……」

 思わずためらってしまう。それを見抜いたであろう女性は、近くのベンチに腰を下ろした。

「今までの人生を変えたかったんでしょ? そのために命を捨てる覚悟で新しい道を選んだんでしょ? あんたの覚悟はその程度?」

「……それは」

「死んだら死んだでそこまでの命。そういう運命をあなたは選んだってだけ。でも、どうなるかわかんない未来を恐れて自分から負けを認めるなんてのは、ちょっとかっこわるいんじゃないかな」

「……」

「簡単に死ぬ気でだとか、命を懸けてだとか、必死にだとか、口では簡単に言えるけど、実際それを実行した人間なんてほんのちょっぴりしかいないのよ。限界突破だなんて言うけど、所詮限界の上限が上がっただけ。そのボーダーを抜いたら死んだってことよ」

「……私は」

「どうする? もうちょっとがんばってみる?」

「……やるわ。乗り越えてみせる」

「だったら」と続ける。その表情はゆるみ、微笑みかける。

「ちゃーんとやり遂げてきなさい。あきらめるには、まだまだ早いわよ」

 彼女はにっこりと笑ってはウインクをする。

 無音だったはずの世界に音が生じる。聞き慣れた音のようで、どこか違う。

「電車……?」

「それじゃ、またね」

 彼女の言葉を最後に、一本の電車が世界の境界を裂くように遮った。うるさい音が鼓膜を響かせる。

 電車が通り過ぎた後、彼女の姿はいなくなっていた。物語などでよくみる現象に既視感を覚えつつ、私の意識はそこで途絶えた。


     *


 ハッと私は目を覚ますように意識を取り戻す。目の前は……蒸気水銀の花粉を振りまく白幹の樹とパリトキシンを吐き出すいろとりどりの花畑。そして電気信号を強く発するユンの姿。

 戻ってきたのか。私は地面に落としたデスポネリストを拾う。

 痛みはじくじくと感じる。しかし、疲れはなく、力がみなぎってくる感じがした。それだけではなく、感覚が鮮明で、研ぎ澄まされたような。不思議と落ち着いていた。

「――っ」

 いや、画期的に見える景色が異なっていた。

 ごったがえしにあふれかえっていた情報の数々。しかし、今はそれが整頓され、鮮明に景色が見えていた。パンクしそうな脳内がすっきりとしていた。まるで重たかったパソコンの処理機能が格段にアップグレードしたような。

 全身の神経が鋭くなっている。その情報空間把握能力は、私自身の姿や顔をも鏡なしでみれるようにもなった。変な感じ。しかしすぐに適応する。

「っ見える……!」

 リプロダクトの世界だけではなく、本来の現実世界――試験会場の無機質な部屋もこの目に映っていた。上階の窓越しにいるインコードたちも、そして、人工カテゴリδ(デルタ)も。

 カテゴリδはカツオノエボシに似た姿で雲のように漂っていた。あんな気持ちの悪い姿にもなれるのかと率直な感想を浮かべつつ、ちゃんと撃てば当たるのかと不安をよぎる。

 ふとユンをみると、ちょうどカルマを発動している最中であり、専用武器のダガーで切った手首からは当然、赤い血が吹き出していた。

 しかし、その赤く刻まれた傷は流れ出している血とともに腕、肩へと伝い、その赤い模様ともいえる傷から燃えるような赤い血――いや、血液でできた独特な翼が腕から肩へと生え始めていた。

 炎のように燃え上がっては揺らめき、羽が集まって形成された翼と言うよりは翼の形をした一種の器官が突出したよう。その翼に熱はあるものの、炎のように熱くはない。スティラスのように猛毒や爆発性の性質もない。一部が顔面にまで達し、瞳の形も変わる。

 獣化に近い何かか。そう一瞬で考えたとき、ユンは回転する形で身をねじらせ、舞うように腕から肩胛骨にかけて発達した始祖鳥のような翼を羽ばたかせる。飛ぼうとしているのではない。周囲の毒素を振り払うためだ。

 帽子をかぶっていればとばされそうなほどの強い風。毒素こっちに飛んでくるじゃん、と思ったが、その金属毒と動物毒のどちらともが地面へと落ちていく。付着性があるのか。翼から分泌されるSPM(浮遊粒子状物質)の吸着性とその重みで舞い上がらないようにしている。その化学式は――大学の本ですら見たことない。より専門の先にある合成物質か、今ここで作られた彼女オリジナルの物質なのか。

「……」

 もしかして、と私は瞬時に考えつく。

「ユン!」

 呼びかける。4mほど先にいたユンは大きな声で返す。

「っ、なんですか」

「私と協力できる?」

「なんですか突然。今は――」

「いいから! ひとりでやらずに、ふたりでやるの! これから同じアンダーラインの一員になるんだから、こういうときこそ協力プレイするってもんでしょ」

 まずい、思わず協力プレイといってしまった。これはゲーム癖のせいなのか。

「……わかりました」

 あまり快く了承してくれなかったが、ユンは頷いた。まぁ水銀中毒にはなりたくないしね。治療できるけど今時の生活豊かな現代っ子に毒という言葉は無縁だから恐怖があるのだろうと、相手の心を読むことなく自分勝手な解釈ですませる。

「それで私はなにを?」

「今やったことを十時半の方角に向けてもう一回やってほしいの。できるだけ遠く、今すぐに」

「? 粒子を飛ばすことですか?」

「うん、そう」

 なんだか疑っている。「今は私の言うこと信じて」とつけたして、やっと「わかりました」と言ってくれた。

 腕を――否、腕の翼を振るい、指示した方角へと粒子をとばす。

 変速がなければ、指示後、その方角に五秒間、カテゴリδが通過するポイントがある。

「――ビンゴ」

 やはり彼女の鱗粉ともいえる酵素型の粒子は対イルトリックの成分を含めていた。非実体であれ、それを実体化させる物質なのだろう。粒子にふれている部分だけが患部として実体化していた。

「っ!?」ユンはどういうことといわんばかりに驚く。短い鍛錬期間では気づけなかったか。

 私はデスポネリストを向ける。

『――対象・近似カテゴリδ・シフト係数64・モードを変更します』

 モード・テリアメディカ・リアクション。対カテゴリδ処理用のモードへと変形させる。すかさずカテゴリδに向けて発砲した。

 その集合した気泡体に風穴が空き一瞬だけ青紫色の泡が分離しかけるが、ユンの浮遊粒子によって結合を解くことができずにいた。

 そして、全体の姿が可視・実体化したのだろう。ユンの目を見てすぐに確信できた。

「今なら触れられる! 行って!」

 ユンに向け、声を上げる。「わかりました!」と律儀に応えるユン。

 ここまで懸命になったことは人生で一度あったかどうかと、どうでもいいことを思い返す。

 ユンは風のように駆ける。体から生えた翼の形状をした噴出物質は炎に見える。浮遊ドローンの噴射口に着地し、その噴射力によって目にも留まらぬ速度を発揮させた。

 その赤い一撃は、カテゴリδの不可視の核ごと気泡体を潰した。二十四体目――最後の一体は完全に消滅した――かのように見えた。

「もう"解ってる"わよ」

 三時の方へ私は銃口を向け、発砲。着弾対象は"二十五体目"の人工イルトリック。ユンのドローンとほぼ同じ形状の卵のような滑空物体。

 殻が割れるように壊れ、液状化しては地面に落ちる。途端、熱い鉄板に水をかけてすぐさま蒸発するかのように消滅していった。

「終わった……」

 そう呟く。翼を生やしたまま、ユンは私の方へと近づいてくる。

「なんとか終えることができましたね。審査の結果がどうなのかはわかりませんけど」

 ああ、やっぱりこの娘はすごい。私は生きることだけで精一杯だったというのに。まぁ実技試験で「生きるだけで精一杯でした」なんて言えば即不合格だろうな。彼女が普通か。安堵している私に対し、未だ緊張を解いていない。

「……おかしい」

 しかし私もすぐに警戒する。疑問の意の言葉を空に放った。

 審査が終わったのなら、なぜこの毒の花畑の景色は残っている。まだ全滅させていないのか。もう一体カテゴリδがいるのか。しかし、シフト値は十一ほど。この環境から発するシフトのみだ。個体はいない。

「まだどこかに隠れているようですね」と臨戦状態に入るユン。根拠のないことを言うが、私のようなカルマを持っているわけでもない。しかし、いないという根拠を知っている私は戸惑うばかりだった。

「なんで? 何で元通りにならな――」

 まさか、と思わず呟く。

 

 ああ、そうだった。これは復習試験。一度教わったではないか。

「――灯台もと暗し」

 前にあの男が言っていたな、とふと思う。身近なことはかえってわかりにくい。確かにその通りだ。

「ユン」

 彼女は私の方へ振り返る。同時、その額に銃口を当て、「ちょっと我慢してね」といっては引き金を引いた。

 肌を通じ、神経がびりびりと伝わるほどの電流。意識を失った彼女は花畑に倒れる。そして、その姿は透明化するように、ゆっくりと消えていった。

「やっぱりね」

 確信。私は自分の頭に拳銃を突き当て、引き金をゆっくりと引いた。


     *


「ほぉ、さすがじゃないか。最初にしてはなかなかやる」

 一部始終を見ていたボードネイズはベンチのような席に座ったまま意外そうに驚いた後、賞賛の言葉を贈る。インコードはニッと笑った。

「だろ? 俺が見込んだだけの女だったろ」

 そのお調子者ぶりに、苦笑する。

「まぁ、このまま杞憂で終わればいいが……あの灰髪のお嬢ちゃんもかなりやるようだが、力んでいたな。緊張か、それとも何かにムキになってたようにも見える」

「そういやそう見えたな。……レズビアンかな? だとしたらカナと傍にいて緊張したってのも――」

「違うな」

 即答する。「それで、査定は?」

「んーどうだろ。なっちゃん、あのふたりどうかな。結構いけた方だと思うんだけど」

「そうですね、すぐにはコンピューターにデータを送って判定材料にするまで決められませんが、私個人の判断だと、あなたの連れてきた受験者は厳しいかと」

 堅い口調でナティアは言う。

「えーなんでだよ」とインコードは口をとがらすが、「そりゃそうだ」と言わんばかりにボードネイズはため息をつく。

「そうさせたのはあなたでしょう」

 インコードの前に立ち、まっすぐとその黒い瞳をみる。


「今回ばかりはカーボス隊員に同意します。今回のケースは流石に厳しいものがあります」

「でも乗り切っただろ。遺伝児ジェネティアクターはあれが丁度いいんだって」

「今回の受験者……まだ起きてから一度も能力カルマを使ってないのでしょう。それどころか、肉体トレーニングすらせず、手術が終わって回復したばかりだというのに」

「いーのいーの。カナ(あいつ)は生まれつき潜在能力カルマを発揮できてんだし」

「それでも最低一週間の調整が必要不可欠です。それを通した上での"最終調整"なのですから。それに彼女が今対峙してるあれは適合試験用のレベル2ではなくて、一般訓練用のレベル3ではないですか。それにカテゴリδを組み合わせた複合体のプロトタイプまで引き出して……いったい何を考えているのですかあなたは」

 半ば叫ぶように強く言う。それをなだめるようにインコードは話すが、眉を寄せているボードネイズは腕を組んだまま話に耳を傾けるだけだった。

「まぁまぁ、無事に終わったんだからいいじゃないの。あいつは脳や神経を使うに当たってはプロの領域にいる。人間が死に物狂いで何年もかかるような古武術や剄道の開きも、あいつは数分で修得できる。思考演算で適応するタイプだし、チュートリアルみたいなことしなくてもあいつはやりこなすさ。大丈夫大丈夫」

 数秒の見つめ合い。いや、というよりはにらみ合いでもあっただろう。

「あなたの考えは本当、いい加減ですね。それでも特策課の第三隊リーダーで、2ndランキング三位のインコードですか?」

「それとこれとは関係ないっしょ。ま、賭けはうまくいったわけだし――」

「賭けは私が一番嫌いな言葉だと知った上で言っていますか?」

「あっははは、そうだったな。ごめんごめん」

 場を明るくするように笑う。しかし、ナティアとボードネイズは表情を変えない。

「……何を焦る必要があるのですか?」

 そう口に出す。ボードネイズは立ち上がり、その場を辞した。

「いや、別に焦ってねぇよ。俺は――」

「そこまでして早く彼女が必要なのですか」

「……」

 黙り込む。明るい表情は消えていた。

「また、あのときの二の舞になるだけですよ」

「……わかってるさ。そのぐらい、わかってる」


     *


 試験終了後、私とユンはボードネイズとアルタイムのおじさん二人に迎えられた。カルマ発動後、絶大な疲労感を残し、枯渇した脳は今すぐにでもブドウ糖がほしい気分だった。カルマ発動になれているユンは何ともなかった。

 結果は遅くとも翌朝までには発表されるという。大抵は数時間後らしい。

 各自ルームに戻るよう指示された後、専用携帯端末にマップを受信された。これを元に辿ればいいらしい。

 おじさんふたりは他の仕事があるからと、急ぎ足でどこかへ行ってしまった。他の社員のことも聞いたが、急遽仕事が入ったらしく、案内できないという。私とユン、二人っきりになった。

 ロビーらしき広い空間、適度な濃度の酸素とを放出する緑の樹が立っている前。気まずい沈黙の中、ユンから私に話しかけてくれた。最終審査の時のようにパーカーを脱いだ姿ではなく、ちゃんと黒いパーカーを着ていた。

「カナさん」

「な、なんですか?」

 思わず敬語。そういえば年下だったけこの娘。

「今回は確かに、二人で協力しないとあの状況から切り抜けることができませんでした。カナさんのおかげです」

 ありがとうございます、と頭を下げられる。「いいいやいやいいですよそんな全然そんな」と半ばパニックになりつつも、ちょっとだけにやけては全力で否定する私。なんだろう、この差は。

「……ですけど」

 私の動きが止まる。ここからが一番伝えたいことか。

「インコード先輩のこと……ちゃんと覚えておいてくださいね。私は本気ですから」

「そ、それってどういうこと……?」

 どういうことかぐらい、分かってはいた。それでも聞き返してしまう。立ち去りかけたユンは踵を返し、私に近づいては、

「私、絶対インコード先輩のものになるから。だから、覚悟しておいてください」

 今度こそ、ユンは私の進む方向とは逆の方へと去っていった。静まりかえるロビー。足音だけしか聞こえない。

「……」

 なんというか、典型的なライバルキャラだな。でもそんな筋合いはないし、別に私はそんなつもり全くないのですが。

 しかし客観的に見ればインコードが私に注目しているのは明らかだ。まぁ私という珍しいおもちゃに夢中になっているに過ぎないだろうけど。

「はぁ」とため息をつく。なんだか変な勘違いされているなぁ。

「……」

 嫉妬、か。と私は呟く。

 憧れと嫉妬。似た形で私にもあった。彼女の気持ちはわからないわけではなかった。あの頃と立場が違う以上、"つばさ"も今の私のように、"アイツ"に対しては、そこまで気になってはいなかったのかもしれない。いや……そうだったとしても、それはあの時までの話だ。もう忘れるべきなんだ。

 疲労が溜まっている足を前に出す。一気に重たくなった体。あまり深く考えられない。一度目のカルマ発動だったからこそ、反動が大きい。ルームにたどり着く前に倒れなきゃいいけど。


 案の定、私は倒れたらしく、緊急治療を受けたのはまた別の話。今度は三日間の社内入院だった。

 その時に告げられた適合試験結果――合格だと、上司インコード口からあっさり発表された。そのお祝い品として、カーボスが作った卵プリンをいただいたが、今まで食べたプリンの中で一番おいしかったことは覚えている。

これで第一章は終了です。

次章第一話(予定)「仮面の男 Category ψ」

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