File12 サヨナラ愛しき世界 Good Bye, Fucking World.
「え……?」
何が起きたと私は頭の中で問う。いや、すぐに答えは出た。彼と初対面の時、不意打ちで私に向けた一蹴り。あれと同じだ。同じ法則だ。
「さぁさ、もっとかかってきなさいな」とインコードは余裕の笑みでリラックスしたスタイルをとっている。
その拳は距離的に届いていない。届いていないはずなのに、当たっている。相手は見えない弾に撃たれたように殴られたであろう顔面を首ごと仰け反らせ、一歩下がる。
もう一発。当然カテゴリαはバックステップで避ける。私も避け切ったように見えた。しかし、パァン! と軽快な、しかし強い一発を顔面に喰らった。
「せぁっ!」
その蹴りは軌道的にずれている。しかし避けた相手は見えない何かによって蹴られた挙動をとり、吹っ飛ばされる。
その繰り出しが弾丸のように早い。あのとき私に向けて放った蹴りよりも断然早かった。早すぎて読み取ることができない。まるで音速を突破した鞭。その身は筋肉繊維や骨格の規則を無視している。つい流動する液体にでもなったのかと目を凝らしてしまう。しかし人より比較的優れた私の動体視力でも全く捉えることができない。
吹きつける風のように速く、流れる水のように滑らかで、無駄がない。感嘆するほど綺麗な動き、そして一貫的な力強さがあった。
未知の存在は右腕をかざし、力ませる。力を集中させた右腕はピシシ、と割れるような音を立てながら蔦のような白い紋様を浮かべる。体表面に留まらず、立体投影のように浮き出てきては腕を軸に巡り回る。蔦型から電子回路模様に切り替わっていく。
「――っ」
それを見たインコードは咄嗟に特殊駆動拳銃をホルスターから抜き取り、自らの腰部に突きつける。
その瞬間、インコードが静止する。彼の時間だけが止まっているようにも見えた。
「まさか……っ」
この目に映ったインコードの筋肉硬直状態で、私は気づく。しかしただの筋肉の硬直ではない。運動神経の電気信号を止められている。心臓の鼓動も一気に小さくなった。
まるで身体の内外問わず何かに雁字搦めで縛られたように動けなくなった彼を、光る紋様が刻み込まれた右腕を向けたカテゴリαは左手に闇色の炎を発生させる。その炎に触れた大気分子が飲み込まれている。光子が吸い込まれている。
『THURAS-ORDIAS-VEROMIS……』
Dub-Stepのような機械的な音声で言葉を発する。
まずい、いくらなんでも生物の神経信号をストップされては太刀打ちできない。どうあがいても、筋肉を動かすための運動神経が言うことを聞かなければ身体を動かすどころか生体活動にもかなりの影響が出る。心臓の音が止まるのも時間の問題――。
「――テメェら人類舐めすぎだ……!」
息を吹き返したように、インコードは喉を絞っては声を出し、動かない指を震わす。その指はトリガーを引く指。
「――ぁあああっ!!!」
伝達しない電気信号を強制的に送り、否、それだけではなく他の細胞が筋肉活動の代わりを補い、担ってくれていた。無理矢理動かした指はとうとうトリガーを引く。スタンガンと同じ電力が銃口から放たれ、彼の腰部の少し上の筋肉に穿つ。
全身感電。強度の神経麻痺。それによってカテゴリαの魔法ともいえる一種の金縛りから解放された。
闇色の炎の一撃を躱し、後ろ回し蹴りでカウンターを決めた。両腕の魔力の発動を中止したカテゴリαの顔面横は回し蹴りによって深く損傷していた。
「殺す気で縛るなら、もっと強く縛っておけ。ワケわかんねぇ存在が手抜きを覚えんじゃねぇよ」
駆動拳銃を咄嗟に向け、電磁波の光線を放った。左腕を盾のようにかざし、腕から湧き出た銀色の蒸気が瞬時に円盤状のシールドを形成させる。しかし、その光線に含むものはイルトリックの特異分子をエネルギーごと消滅させる反物質エクティモリア。簡単にシールドは貫通し、被弾した左腕と共に膨張・破裂し、ボタボタと黒い液をまき散らす。
『……!』
「何世紀も神気取りでいられると思ってんなよ。御遊戯は終わったんだ」
『……Yuglias-LesthunzAliveng――』
「――人類は神に扮した現象に打ち勝つ手段を手に入れたんだ」
『――Soohumnal-jergeus-bolyaild-habbus!』
呟いた不可解現象は大気を歪ませ、地面を凹まさんばかりに強く蹴り、インコードに闇色の炎を纏った一蹴を繰り出す。大気ごと切り裂かんばかりの猛威だった。
しかし薙刀のように振られた脚をしゃがんでは躱し、重心であった軸足を蹴る。電柱が金属バットのような棒に殴られ、無理矢理崩れたような音。髄ごとへし折られた足は大地から離れ、一瞬だけ浮いたカテゴリαが見せる表情も無ければ顔もなかった。
「最後にお返し、だっ!」
人体では弱点である鳩尾に中段正拳突きを与え、カテゴリαは大きく吹き飛んだ。とてもただの人間が殴ったとは思えない程の衝撃と威力。
高速道路でトラックに轢かれたように吹き飛んだカテゴリーαは三回ほど結晶の大地を抉りながらバウンドし、岩のような物質芸術品に衝突し、軋む音を立てる。堅硬そうなボディに罅が入っていた。
『――アァァ、コリャア流石ニ……げふん、苛立ちを覚えます』
機械音を混じらせた男性の声。気怠そうに起き上がったカテゴリαは周囲に色とりどりの何かの粒子を大気中から湧き立たせる。その粒子から紐のような光る糸を出し、互いに結びつき、紐を棒のように硬化させてはじめて、それが分子的結合であることを知る。粒子の大きさは推定水素原子一〇〇〇万倍――画鋲の穴と同じぐらいだ。
その原子を模した粒子はシナプスを繋げるようにどんどん結合していき、カテゴリαの周囲は何かの立体構造を組み立てる。見たことない有機化合物の構造模型。ひとつあるベンゼン環に右手首を通したとき、その纏うように漂っている立体分子配列は機械的動作を起こし、右腕に収束される。一瞬だけニトログリセリンに似た構造式が見えた気がし、嫌な予想をする。
『G59M4510-DB007271-CHNcKyRG-SINOBAGDOL-UHFFELDISENT……脅威判定更新・対象を直ちに排除してください』
粒子がすべて吸収された時、右腕がドロリと溶解する。中から機械的にデザインされたカノン砲が展開される。歴史に刻まれたミラ暦の世界大戦時に使用されていたM256口径一〇五mmカノン砲が、その得体のしれない人体の右腕から顔を出した。
「っやべ」
インコードは撃ってきたこぶし大以上の大きさをした砲弾のような白い岩石を咄嗟に避ける。ヒュン! とカーブを起こしながら過ぎ去り、建造物に被弾する。連鎖的な大爆発が起き、爆風でガラスを打ち砕き、震災対策されている建物を容易に粉砕しては奥の鉄塔をガラガラと崩していった。地鳴りが足裏と肌に伝わってくる。
「あっぶな……」
「……」
何度も思っているけど、逃げたい。超逃げたい。もう帰りたいよこれはマジで。
私の知っている都市伝説じゃない。
そう思った矢先、カテゴリαはその腕の銃口を私に向けた。
「避けろ!」
わかってるって! 言われなくても避けるよ!
発射。ゲームでよく聞く砲撃音に映画のグロテスクシーンでよく聞く肉が裂けるような音が混ざっている気がするのを最後に、白い砲弾が迫ってくる。
このままじゃ死ぬ。確実に死ぬ。さっきの威力はヘタすれば小さな町を消し飛ばせるほどだ。掠っても一大事だろう。変則軌道で向かってくるため、ただ避けるだけというわけにもいかなかった。
そのとき、一瞬にして演算を行った私の脳は、無駄に等しい一種の反射ともいえる現象を引き出していた。
弾速、弾丸軌道、結晶の光の反射、音より弾丸の来る方向、角度、着弾時間、座標……あらゆる条件を要因に計算を開始。処理され、データ化された視界のフィールド。一瞬ともいえる思考だが、それでも遅すぎる程だった。
早く早く早く!
さっさと体動いて!
「――っ!」
頭の中で叩き出した解答。それを数値化するよりもさきに、私の身体が動いた。
間一髪。まさに髪の毛一本分の差で私の顔は吹き飛ばされずに済んだ。バリン、と建造物に突っ込んでいった弾はガス状の巨大な赤い爆発を起こし、着弾物を四散させる。まるでプリニー式噴火。チリチリと熱い熱波が肌を殴る。
「ナイス回避だ」
『……っ』
カテゴリαが私の方を狙ったおかげ……とは言いづらいが、その隙を狙い、インコードは黒い刀剣を現実拡張、実体化させ、その金属ボディを斜めに斬りつけた。電光の一閃がボディに刻まれており、斬られた身から放電を発していた。
しかし、別離しかけた体は動き出し、インコードから離れようとする。その速さは速く、半ば透明な液体を斬られた部分から洩れていた。その内部に微かに見えた何かの光。いや、光を反射している何かが喉元に入っている。「やっと顔を出したか……!」
「喉を狙え! そこに核がある!」
インコードは叫ぶ。咄嗟に私は手に持った特殊駆動拳銃を構え、撃ち放つ。ゲームセンターでは体感できないような衝撃が手に伝わる。
だが、案の定、弾丸は外れる。被弾した結晶柱は液状化し、溶血した赤血球のように破裂する。
不幸なことに、その奇襲は失敗したどころか、逃走から闘争へとモード変換し、ターゲットが私の方へと切り替わった。
「……っ、ヤバいってこれ」
思わず口に出てしまう。言葉の通り、本当にヤバい状況だ。危険すぎる。
こっちに向かってきている。猪突猛進の如く向かってきているならまだ単純だった。速度も進行方向も出鱈目すぎる。インコードの先程の業の真似でもしているのか。距離感が変則的に変わり、いつ来るかわからない。
半分液状化しているケモノは餌の周りを徘徊するハイエナのよう。影分身ともいえるその現象はいざ体感すると、どこから来るのかがわからない。まさにホログラム。そのどれもが幻影だ。
「冷静になれ! アンタの業で自分自身を殺してくるんだ!」
二秒ほど経過したところで、インコードの声が聞こえてくる。
「……」
そういえば、私は何の為にここにいる。何の為に、命を張っている。
一度に大量の記憶がフラッシュバックしてくる。死の直前であるが故に、走馬灯のようにも感じ取れた。
私があの青年についていったのは、必要とされたいから?
それは違う。とは言い切れないが、それ以上のものがある。
新しい道を選んだ私の意義。償い。責任。
今までの自分を斬り捨てる為、今ここにいる。
過去の私を死なせるために、武器を握っている。
「私は――」
読み込む。
この世界を私は解読する。
自由に羽ばたく現象という蝶の群れを捕まえ、愚かな人間なりの加工・変換・同定を行うことで自然現象は数値情報として記録・導入される。口では言い表せれない演算がレコードのように高速で回転し続け、音という別の形となって私の意志という鼓膜に伝わっていく。
世界はデータ化する。
温度、13.3℃
気流、0.04。
風速、168.2度より秒速0.002m。
気圧、1522.8hPa
湿度、50.0%
重力、12.9N/kg
大気成分比率、63。7%不特定物質。エラー。
必要範囲、半径54.3m
推定弾速、秒速2020m
方角、x94.4、y62.9
182:331:440:539
空間座標を特定。
筋出力、シナプスの僅差調整。固定。
焦点、84度、フォーサーズ12mm
パースペクティブの最終調整。
視力倍率2.0
3.41秒後の対象の位置座標を推算。
対象速度、秒速6021mと推定。
目標、対象の甲状腺。尚、人体部位として変換したものとする。
……変動係数0.00112。直ちに訂正。
標準化、完了。
成功率――100%
「――撃て!」
目に映るのは心臓ただひとつ。重い引き金を引いた。
発射された一発の弾丸。それが一筋の光線のように見える程、金属光沢のある弾丸の速さは凄まじいものだった。
銃弾型特異反物質はカテゴリαの喉――甲状腺に被弾し、液体がそのまま凝固したかのような水晶の塊が粉砕される。金切り声と電力の出力が低下する音が混じった断末魔を最期に、カテゴリαの機械と骨質骨格の身体が泥のように形状を保てないまま結晶の大地にびちゃっ、と倒れ、瞬く間に跡形もなく蒸発していった。何とも呆気なかった。
「ハァ……はぁ……」
無意識に息切れが生じていた。構えた銃を見つめたままであり、腕を降ろすことができなかった。唖然ともいえるほど、忙しなかったはずの頭の中は空っぽだった。そんな感覚を味わう。
忘れていた本当の静けさ。それがどこか気持ちがよかった。
「やるじゃねぇか、新人」
そう笑い、インコードはこちらに歩んでくる。本気でやればこいつ一人でも片付いたんじゃないかと思ったりするが、後に行われる"適合試験"とやらのことを考えれば、これでよかったのかもしれない。以前の時よりはなんだか自信がもてた気がした。
「……まぁ、なんとか、ね……」
疲れた声で私は答えた。
「なんというか……もう、なんでもありだなって」
「はははっ! もうなんでも信じられるだろ。いろんな意味で、受け入れられる器が大きくなったと思うぜ?」
「いや、もう何も信じられないっていうことはよく理解できた……」
溜息交じりにそう答えたときだった。
「おっ、やーっと終わった感じか? こっちはとっくに終わって本屋に立ち寄ってたわ」
欠伸をしながらカーボスがこちらへと来る。相変わらず気の軽い男だとインコードは息を吐く。「カナちゃんおっつー。最後の真剣なとこ、ちゃんと見てたよー」と軽い嘘をつく男に対し、私は苦笑するだけだった。
ズガン、と上空からぐしゃりと潰れている全長一メートルほどの正二十面体の物体が落下してくる。その上にはスティラスがいた。臨戦時の見開いた瞳と悍ましい殺気はどこへいったのか。普段と変わらぬ、眠たそうで気怠そうな雰囲気を醸しながらスタン、とカテゴリγ(ガンマ)らしきウイルス型の物体から降りる。
「スティラスもおつかれさん。少しは解消できたか?」
「……まぁ」とだけ言って、口を閉ざした。本当にほとんどしゃべらないんだなと思ったりする。
「インコード!」と呼ぶ声の主はボードネイズだった。その手に電脳転送武器は持っていなく、硬化した肌も収まっており、ここから見ればただのがたいのいい初老だった。「サンプルは大体回収した。無事本部へ転送したよ」
「おう、ありがとうな」
彼らの雰囲気が緊張から少し緩んだ気がした。元々彼らに緊張はあったのかと疑問に思いたいところだが。
「んで! カナちゃん、初めての任務どうだったよ。いきなり緊急任務で、それも武力行使での討伐だったから相当ハードだって思えたでしょ?」
「は、はい、まぁ……」
まさにアプローチ。顔を近づけて話すのも個人的に好きではない。
「そういう話は後だ。カナも数えきれないほどの死線を体感して疲れているだろうし、すぐに撤退するぞ」
あれ、そもそもこの悲惨以外なんでもない壊滅はどうするの?
複合施設内含め外観も大爆発の連鎖で半壊のレベルを越えている。まさに戦争が終わった跡。損害賠償金どのくらいだろうと不安に思っている中、
「そうだな」とカーボスはインコードに人差し指を突き出す。「はい出して。もう手に入ったんだろ?」
インコードはポケットからただの石ころを取り出し、カーボスの前へ見せる。なにそれ、と言おうとしたところでボードネイズが親切にも教えてくれた。
「あの石もイルトリックの一種……というよりはさっきのカテゴリαの核の分身だ」
「分身?」
「万が一自分の核を壊された時の為にも、あらかじめ保険として予備を作っておくんだ。案外慎重な奴らが多い」
「そ、そんな都合のいいことが……」
つまりクリア条件であるボスを倒しても、ゲームクリアさせないために同じボスを何処かに配置させるという卑怯設定が備えられていたというわけか。
「これを壊せば……」
「この悪夢から帰れるというわけだ」
そうカーボスがいい、指先からパチン、と放電をする。カテゴリαの核らしい分身である石は弾かれる様にパンッ、と飛び、きれいな放物線を描く。
サッとカーボスは駆動拳銃を抜き、その石ころを狙って弾丸型のビームを放つ。散り散りに石ころが粉砕した時だった。
「――っ!!」
視界が一度ザザッ、と砂嵐に襲われる。耳も目も数世代前のブラウン管によく見られた砂嵐一色に襲われ、感覚が狂いそうになる。
しかし、その時間は短く、すぐ元に戻った。目を擦ると、結晶に覆いつくされた異世界的景色は一変し、サイバー空間に似た世界へと切り替わっていた。建造物の立体設計図の中に取り残されたような感覚。しかし、頭痛と共に、そのサイバー的な空間は浮き出てくる電光数字に埋め尽くされ、本来の物質の色を取り戻していく。一度だけぼやけた景色。ふわりとした意識の揺らぎ。なんとか自我を保とうと気を強く保った。
頭痛も収まり、瞬きする。目の前に広がっていたのは硝子建材の店舗が並ぶ施設内屋外街道。色鮮やかな光アートとホログラムが活気よく人々の目を楽しませている。何もなかったはずの空には名前のつけられた星々が規則的な配置で、うす暗いともいえる光を放っていた。
イオンアークヒルズの内部屋外。損壊したはずの建物や、結晶の大地も一切ない。元の世界であることを流れる風と煩わしく感じていた人の声が教えてくれる。
「終わった、の……?」
私は呟く。
「ああ、無事解決した」
その言葉で安堵を覚える。どっと疲れてくる身体。しかしもう助かったという安心感が上回った。
それにしても、本当に何もなかったことにされるんだなと、一切変わっていない景色を見渡す。本当に先程までいた世界はここの世界から切り取られた世界だったのか。ただコピーされただけなんじゃ、と思ったりする。
「とりあえず、おつかれさん」と肩にポンと手を乗せたインコード。「でもホームに帰るまでが任務だ」と付け足して。
『いやぁ~おつかれさまっすーみなさん!』
「おう、ラディとエイミーもよくやってくれた」
『まったまた~、いいですよお世辞なんて。本当にこれと言ったことしてないし。あ、カナちゃんカナちゃん! 初陣の感想、中で聞かせてね!』
「あ、はい、わかりました」
通信回線も修復したようで、スピーカー機能で全員に聞こえるように無線機からラディとエイミーの陽気な声が聞こえてくる。私は彼女の勢いに押され、ただ了承する以外の選択肢がすぐに思い浮かばなかった。
「にしても、最後はいいとこ取ったな。他の会社じゃ新入社員にいきなりこんないい思いさせないぜ?」
あっはは、とインコードはイタズラに笑う。
「早く退却するぞ。先程フィニジャンク統括から連絡がきた」
腕時計を見たボードネイズはインコードに言う。さり気なく見てしまった初老の付けているブラウンの腕時計はサクソニア・オートマティック。マジですか、お値段が軽く百万越える代物ですぜ。
さぞかしこの会社の給料はお高いのだろう。
「くそー、買い物できないじゃん。欲しい靴あったのに」とカーボスは口を尖らせる。「つーか今日オフだったから行くつもりだったのに!」
「まぁいいじゃねーか。今度一緒に行くか。飯なら奢るし」
「その言葉が実になったことあったか?」
「あっただろ」
「ないって意味で言ってんだよこっちは」
「じゃあこれが最初だな」
「っていったのもこれで四十を越えた」
「俺そんなに約束破ってたのか。……四つの間違いじゃないのか? おまえ被害妄想激しそうな声してるし」
「被害妄想激しい声ってなんだよ。ツッコミすら思いつかねぇ」
「ま、今は帰ろう。ダイヤモンドフェイスの叱責は夏服で吹雪の中に突っ込むより嫌だしな」
インコードはそう笑っては歩き出す。スティラスはとうに先へとスタスタ歩いていた。
私もインコードについていく。ヘッドホンを着け、好きな音楽を再生して、人々のうるさい声を遮らせようとしたときだった。
急に息がしづらくなった気がした。頭もクラクラする。貧血なのか。まぁ今日はいろんなことがあったから多少なり体に不具合が起きてもおかしくはないと、珍しく思考しない頭で根拠のない推考を出した。
「――ぅがふっ!」
咳にしては痛々しく、腹の底から何かを吐き出さんばかりの嘔吐寸前の声。
喉から込み上がってきた熱い何か。口を抑えた手についていたものは粘性のある、唾液と胃液の混ざった真っ赤な血。口の中に吐き出されたものは錆びた鉄臭さと顔をしかめるような酸っぱさ。
しかし、血の付いた手よりも赤い何かに視線がいく。視線を更に下に向ける。自分の腹部が真っ赤に染まっていた。
「え……?」
なんでこんなに血が出ているの?
いつ? 誰? どこから?
もうイルトリックは解決したんじゃなかったの?
こんなの――。
痛い。
痛い痛いいたいイタイ!
苦しい! 死んじゃう!
助けて! 誰でもいいからたすけ――。
声すら出ず、私は倒れたような衝撃を全身に感じ取る。
鼓膜に響いたのは多数の人の声。阿鼻叫喚含む雑音の中で一番脳に強く伝わったものは、私を新しい道へ導いてくれた青年の声だった。
ぼやけた世界はあてにならない。
私は思う。
世の中はやっぱりつまらない、と。




