Introduction 不確定な現実 ―Uncertainty Fact―
※本文中にタイトルロゴを挿入させていただいております。この場をお借りして、ロゴを作成してくださった蒼原悠さん(ID:373813)に深く感謝申し上げます。
Knowledge is limited. Imagination is more important than knowledge.
(知識には限界があり、また空想は知識より重要である)
――Imagination encircles the world.(想像力は世界を包み込む)
――Albert Einstein
世の中はつまらない。
これが、生涯を過ごしてきた私が編み出した結論である。
世界は物事でできている。それは、法則や理論、論理があるのと同じ。
物事には因果律が成立している。それは、結果と原因に等しい。
結果と原因、つまり問題と解答があるということ。
故に、世界のすべてには解答がついている。
だから、つまらないのだ。
Theory of Everything――万物の理論を打ち立て、宇宙の既知の性質がすべて予言できるようになったら、我々「考える葦」――人間は何をしようとするのだろうか。
ある人はこの理論から派生するものを探しに思考の旅へ出るだろう。
ある人はその理論に自己矛盾がないことを気に留めるだろう。
ある人は逆に気にせず、理論がひとつだけだと証明できないことに頭を悩ませるだろう。
万物の理論。それは文明が続く限り、永遠に彼らの心を捕え続ける。
彼らは、全く同じ結果をもたらしながら、これまでに考えられてきたものとまったく異なる宇宙を意味するかのように、まるで見かけの違う万物の理論を見つける可能性もある。しかし、それが「科学」であると主張した学者もまた、究極理論に心を奪われた囚人にすぎないのだろう。
考える葦「人間」はそのような囚人の一人として「解答」を欲し、溢れかえる「疑問」や「問題」に必死になって取り組む。それは一瞬で「解決」できるかもしれない。もしかしたら一年、十年、いや百年を超えるかもしれない。もしくは生涯かけても「解答」は見つからないままかもしれない。
しかし、そのあらゆる「問題」を容易に「解答」できるとしたら。
正直、それは誰もが憧れるものだろう。誰もが欲するだろう。
もし、そんなことが誰にでもできるとしたら、人類はどうなるのか。人によっては様々な仮説が挙げられるだろう。しかし、これだけは明確だった。そんなもので解決しても、また新しい問題が出てくる。それも、深刻極まりないほどのものが。
世界に存在する文明や文化。それらはすべて「解答」を求める途中式の副産物に過ぎない。だが、完全な「解答」を知った時、世界は最高値の人類生産物、つまり文明を超えた何かに覆われると同時に、甚大な危険性も発生するということだ。解答は問題と二重螺旋で繋がり合っている。
とはいえ、人間がそんな究極解答を得ることは到底不可能だろう。何しろそこは、神様の知識の域なのだから。
人間が神様の知恵を得ることは不可能かつ許されない罪。
だが、そんな罪を背負う人間がこの世にいた。
「問題」を「解答」する神様の知恵を持った人間が未だに存在していた。
しかし、その人間は「解答」を得る知恵を持っていながら、裕福でも尊大でもなかった。
その全知の人間が言い放った「答え」は、
"世の中はつまらない。考えることさえ許してくれない"、と。
いつも通っている学校。朝、昼、夕方、夜……太陽の位置が変わるだけで見る世界が一変するも、それは錯覚。学校は学校。変わったのは目に映る校内の構造ではなく、それを見た人間の心理のみ。
そう、心の中だけ。
景色はどちらかといえば赤い。絵本に描かれてあったような、信じがたいほどの赤い色が光の形として窓から入り込み、眩しいほどに目を微かに痛める。教室ではない。廊下だ。私はこの確認を六回も繰り返している。
3-A、木目床の誰もいない三階の教室……一人だった私はそこで帰り支度をしていたはずだ。しかし今、目の前に映る景色はリノリウム一色の無機質な廊下。左手の窓から赤い光が射している。右側を見れば図書室。
ここだ。この時点でおかしい。
図書室は一階にしかない。
「……ぁ……ぁあ……」
白い廊下が赤く染まっていたのは外の光によるものだけではない。もっと生々しい、生温かいものだ。
血だ。
そう認識した瞬間、景色は一気に血の赤を強調し始めた。感じなかった臭いも一気に鼻に入り込んでくる。顔と足に何か生温かいものがこびりついている。服は生ぬるいお湯のシャワーを浴びたような濡れた感覚。黒いニーソまでもうっすらと赤を含んでいる。
床や壁に染み付いた赤色が広がっている。何かの拍子に跳ねた血がそこかしこで凝固している。錆びた鉄臭さが鼻腔を侵す。
そして足元を見る。
「……っ、ひぁ……っ!?」
知っている。私はこれを知っている。
足元に転がっているペンシルストライプ柄の布を着た赤い塊が、私の担任教師だと一瞬で把握した。ただ、顔は悲痛に歪んでみれたものじゃない。一向に動く様子もない。
「……うそ……」
どうしてこんなことになっている。悪い夢でも見ているのか。
ふと、手に何かの感触があることに気がついた。あまりにも突飛な出来事に手の感触も失っていたようだ。確か鞄に片付けようと筆入れを持っていたはずだ。
「え……?」
しかし、持っていたのは刃が長めに出ているカッターナイフ。根元までしっかりと赤いものがへばりついていた。
筆入れにはそんなもの入っていなかった。違う、そういう問題じゃない。
もしかして私は先生を……。
「ちがう……」
恨みとかまったくない。そんなことする動機もない。憶えがない。
でも、息が切れている。手にも何かの疲れが残っている。しっかりと握っている。鼓膜に残っている悲痛。網膜に焼き付かれた狂気。脳に一度は覚えさせた快楽後の虚無感。
本当に私がやったの?
「ぃ……嫌……」
私は叫べなかった。あまりにも信じがたい出来事の連続に硬直している。だけど、固まっている場合じゃない。
血にまみれた教師。それを見下している私の手には血の付いたカッターナイフ。
そんな景色を見れば、誰だって私を犯人と断定する。人に見られたらまずい。
時の進みの感覚も麻痺し、何秒たったかわからない。もう一度あの廊下の景色へと視界を変えたときだった。
「あ……」
見られた。
人に見られた。
廊下の曲がり角。顔もはっきりと見える距離。あったこともない、下の学年であろう女子生徒。
唖然と恐怖。
駄目……なにもしないで……何も話さないで……!
途端、悲鳴。
甲高い絶叫は麻痺していた聴覚を呼び覚ます程の痛覚を引き起こし、廊下中に響き渡った。
誰か、誰か来てと助けを求めたような聞きたくもない言葉。
「ち……ちが……っ」
手を伸ばそうとした。だけど、伸ばした手を間違えた。カッターを持った方の手だった。
さらに悲鳴が鼓膜に響く。
「ぁ……まって……」
行っちゃ駄目!
誰も呼ばないで!
私じゃないの!
お願い信じて!
「ちが……ちがぅ……っ」
どうしてこんなときに声が出ないの? どうして身体が動かないの?
わけがわからない。
理由がわからない。
原因がわからない。
問題がわからない。
そう思えたのはいつぶりだろう。これが初めて?
そんなことはどうでもいい。
薄暗くなる。日が沈みかけている。私はゆっくりと窓を見た。
廊下を駆ける数人の足音が聞こえる。聞いたことのある生徒の声、教師の声。悲鳴。
私は知らない。
私はやっていない。
やっていないのに。
どうして笑っているの?
「……ぁはは」
もう、どうでもよくなってきた。なにをしても、手遅れ。
もう、引き返せない。
何も考えたくない。
このまま、夢を見るように、眠りについてしまいたい。
このまま、夢から目を覚ますように、真っ暗なところから光が射すところへと帰りたい。
このまま……このまま……。
――都和区警は十九日、高校教諭米沢憲一さん(46)を殺害した女子生徒を準現行犯の疑いで逮捕した。
目撃した生徒によると、十九日午後六時ごろ、校内の一階廊下で女子生徒が教師をカッターナイフで何度も刺していたという。そのあとは何もすることなく、その場に立ちすくんでいただけであり、抵抗することは一切なかった。
被害者は全身に十七カ所の刺傷があり、頭部にも刺し傷があった。
区警によると、殺人容疑者の同高校三年の女子生徒は「なにもしていないし、覚えていない。気がついたら目の前で先生が倒れていた」と供述し、容疑を否定している。区警は今後も――
――12月21日(土曜日) 都和タイムス地域紙より