【第六話】 鞘
エニシダ村で夜を明かした次の朝、キトラ達一行は少し早めに出発した。
昼ごろに到着した二番目の目的地は「コゴミ」と呼ばれる大きな街。
南州の中では、天空船ターミナルのある「ロロ副都心」の次に栄えている場所だ。
そこへ急いだのには理由があった。
コゴミは昔から陶器や皮製品、鉄製工具や刃物などが盛んに造られている。
つまり、職人の街というわけだ。
キトラはそこで腕のいい皮製品の職人に会い、ブッシュナイフの鞘を手に入れるつもりだった。
今はいちいち箱から出し入れして使っているが、これからはそういうまどろっこしいことはしていられない。
危険な場所へ行くことを決心した覚悟の証として、キトラは常にナイフを携帯する事にしたのだ。
「だが……キトラのでかいナイフは明らかに違法な品だろう。職人がそう簡単に作ってくれるものだろうか」
ミガトはかなり不安そうな顔をしていた。
当然、キトラもその事は想定していた。
たとえ革製品の職人であっても、違法なナイフの鞘を作れば罪になる。
恐らく、みんなやりたがらないだろう。
しかし、キトラにはある考えがあった。
「多分、いきなり革の職人を訪ねてもやってもらえない。だから、先に相談に乗 ってくれる人を探すんだ」
「相談?」
「鞘を作ってくれる職人がいるかどうかをさ」
「誰に相談するんだ」
「オレのブッシュナイフを作った人」
キトラにブッシュナイフを贈ったのはリン。
リンは、ナイフがコゴミで作られた品だと話していた。
ナイフにはその製造元の刻印が刻まれていた。
その名は「バウアー・ファクトリー」。
キトラはまず、その店を探すつもりだった。
「すいません、ナイフとか刃物の職人はどのあたりにいますか?」
「刃物は五番町だよ。陶器の四番町の向こうさ」
通りすがりの男は、街の北側を指差した。
コゴミは職人の街として市街が整備されており、それぞれ一番町から十四番町までの各街区に同じ職業の職人たちが集められている。
そして、それぞれ番地ごとに「○○の△番町」と呼ばれ、街に初めて来た者でもどこに行ったら自分の欲しいものが買えるのか分かるようになっているのだ。
キトラがまず目指した五番町は四番の陶器町と並んで街の山側にあった。
刃物の職人は火を使うため、煙や熱が市街に影響しないように配置されているのだ。
「よし、じゃあとりあえずここでバウアー・ファクトリーの場所を探すか」
「結構広いわよ。すぐ見つかるかしら」
「とりあえず、三人で手分けして聞いてみよう。キトラ、集合場所は五番町の入り口でいいか?」
「うん。悪いけど、二人とも頼む。プラジアーナ、一人で平気?」
「迷子になったらおっきい声で呼ぶわ。じゃあ、後でね」
三人は別れて五番町の中に散った。
大都市コゴミの一区画は大きく、一つの町の中に数十軒の鍛冶屋や刃物工場が軒を連ねている。
キトラは片っ端から職人に声をかけた。
だが、なかなか知っている者はいなかった。
「バウアー? 知らねえな。多分、新しい店だろう」
「この辺りじゃ聞いた事ないねぇ。誰かの紹介かい?」
「ホントに五番町か? 他のとこも行った方が良いぜ」
職人たちはみんな首を振る。
試しに店名の読み方が違うのかとも思い、ロゴも書いて見せた。
が、それでもよく分からない。
なかなか有力な情報はなかった。
唯一聞けたのは、こんな話だった。
「ああ、親父の代の時にそんな店があったな。いい職人がいたらしいが、もう潰れちまったよ」
バウアーという名の職人の店は二十年前に閉店してしまった。
主が死に、後継ぎがいなかったのだ。
その職人は残念そうな顔でそう言った。
試しにその店があった場所に行ってみると、店は看板を下ろしてしまっており、工場の煙も上がっていなかった。
どうしたものか。
キトラがその空き店舗の前に立っていると、暫くしてミガトもやってきた。
「キトラ、お前もここに来てたのか」
「うん。ミガトももしかして……」
「ああ。昔あった、という話を何人かに聞いてな」
これはもう、ここで決定か。
そんな事を話していると、やがてプラジアーナも合流してしまった。
やはりここで行き止まりなのか。
そう思っていると、一人の青年が三人に話しかけてきた。
「あんたらどうしたんだ。観光客か?」
深く刈り上げられたうなじ。
やや長めに遊ばせた癖の強い金髪。
年の頃十代後半くらいのすらりとした男は、薄汚れた作業着のような服を着ていた。
ルーデンス族によくいるタイプの今時の若者だった。
「うちに何か用?」
「うちって、ここ、君の家?」
「一応な。あんたら、ここの人間じゃなさそうだな。道が分かんないなら教えるぜ?」
青年はキトラ達をコゴミに来た観光客と思ったらしい。
コゴミには良い品物を探して世界中から観光客が訪れる。
そのため客あしらいには慣れているらしく、「営業スマイル」を浮かべて近づいてきた。
キトラはバウアー・ファクトリーという店を探していると話した。
すると、青年は確かにここだと言った。
「バウアーはオレだよ。訳があって、今は店開けてないんだけど」
「君が?」
「まぁ、そうかな。これでもナイフの職人だよ。用があるなら中にどうぞ」
バウアーと名乗った青年はキトラ達を裏口から中に通した。
中にはナイフを作る道具や、金属を熱する炉などがきれいに整頓されていた。
そして机の上には、作りかけのブッシュナイフがあった。
「あ、これ……」
「あー! お客さん、それはだめだ! 触んないで!」
キトラが手に取ろうとすると、バウアーは酷く慌てた。
刃渡り二十センチ以上の刃物は違法。
禁制品を咎められると思ったらしく、誤魔化すように布で包んで隠してしまった。
「いやぁー、刃物は危ないからねー。怪我したら困るからこれはしまっとこうかー!」
「なんか、すごい大きいナイフだったけどそれって……」
「あー! これねー! じ、実は包丁作ろうとしてたんだけど失敗してちょっとでかくなっちゃったんだよねー! あはははははは!」
「あ、あのさ、もしかして……五十センチくらいの長さの大きいナイフ、二年前くらいに女の人に売らなかった?」
「……何?」
五十センチのナイフ。
それを聞いた途端、バウアーの顔色が変わった。
やはり、知っているらしい。
キトラはあの箱を取り出し、バウアーにナイフを見せた。
「オレの先生が、大学院の入学祝いにオレにくれたんだ。君の作ったナイフだよね?」
「そっか……あんた、あの女の人の生徒か」
バウアーはナイフに彫られた自分の店のロゴを確認すると、観念したように話を始めた。
それは二年前の事。
キトラの大学院入学が決まった直後の三月下旬、リンはこのコゴミの五番町を訪れていた。
リンは「とにかく大きいナイフが欲しい」と言って店を回っていた。
だが、彼女がキトラに持たせたがっているようなナイフはどこにもなかった。
「でかいナイフは違法だから、みんな売りたがらなかったみたいでさ。リンさんはあっちこっちの店に断られてた」
バウアーがリンを見かけたとき、彼女は札束を握りしめ、近所の職人と大喧嘩していた。
金は払うからでかいナイフを作れと言うリン。
ダメなものはダメだと怒鳴る親方。
それを見たバウアーは、ちょうど手元にあったナイフの事を思い出した。
「その時、金に困ってて、つい出来心で声をかけちまったんだ。もしかしたら、あの人なら売っても平気かと思ってさ」
ナイフはまさしくリンが探していた大きさと形だった。
リンはバウアーに礼を言い、大金を払ってナイフを買い取った。
そしてそのナイフがキトラに。
すべての真相が明らかになった。
「この二本はオレが今まで作ったナイフの中でも一番の出来だったんだ。だから、買ってもらえるならうれしかったし、金も……さ」
「なるほどね」
「反省はしてるよ。悪い事だとは分かってた」
「そんな、とんでもないよ。オレはこのナイフがあったから生きられたんだ」
キトラはバウアーに今までの事を話した。
自分がこのナイフを武器として使っている事。
そして、何度も自分の身を守ってきた事。
キトラの話を、バウアーは信じられないような表情で聞いていた。
「オレ達はこれから、危険な旅をする。だからそのために、オレはこのナイフで戦わなきゃいけないんだ」
「戦うって……何なんだよ。あんた、軍人なのか?」
「違うよ、一般人さ。実は、世界で大変な事が起きてる。オレ達はそれを、確かめに行きたいんだ」
北の大森林を目指す事。
ゴブリン族と戦わなければならないかもしれない事。
そして、取り戻さなければならないものがある事。
熱を入れて話すキトラの話をバウアーは黙って聞いていた。
「アーガ族と全面対決になるような事態はもちろん避けたい。でも、実際に一度戦って、オレはこのナイフに命を救われた」
「オレの……ナイフにか」
「だからいつでも使えるように、ナイフの鞘を探してこの街に来たんだ。協力してもらえないかな」
バウアーはぽかんとしていた。
まさか、自分のナイフがこんな風に使われるなんて思いもしなかったに違いない。
暫くキトラのナイフを眺めた後、彼はぽつりとこう言った。
「オレは、死んだ親父に認めてもらえなかったんだ。考え方が合わなくて、ケンカばっかでさ。だから、この店の屋号の『バウアー』っていう名前も、親父が死んだ後に勝手に継いだんだ」
バウアーの父が死んで、店は閉店してしまった。
しかし、バウアーはどうしても諦められなかった。
子供の頃から目にしてきた質のよいナイフの美しい光沢。
プロを呻らせる確かな仕事。
自分も父や祖父の生きてきた世界で自分も生きたいという夢。
それが捨てきれず、バウアーはその名を名乗り始めた。
そしていつの日かその名にふさわしい仕事ができるようになったら店を開けようと誓った。
「結局、反則してナイフを売っちゃったんだけどな。あんたには悪い事した。半人前の商品を使わせちまって」
「そんな事ないよ。こんないいナイフ、めったにないって!」
「そうかな」
「オレ、素人だけど分かるよ。使えば使うほど手に馴染んできて、なんていうか……自分の身を預けられるってそう感じるんだ」
キトラがそう言うと、バウアーはぎこちない笑みを浮かべた。
「嘘でも嬉しいな。そう言ってもらえるのは、オレたち職人にとって何よりの喜びだ」
そう言って立ち上がると、バウアーは店の二階に上がって何かを持ってきた。
古い布の袋に入っていたもの。
それは、ブッシュナイフ用の鞘だった。
「これ、爺さんが生きてた頃に用意してた鞘なんだけど、よかったら使ってくれ。でかいナイフが禁止されて、使えなくなったんだけど、いい仕事がしてあるからって記念にとってあって」
「すごい……これ、サーレ・ドラゴンの皮だよね!」
「分かるか。火にも水にも強い、最上級の鞘だよ」
二つの鞘はどちらもあつらえたようにスッ、とナイフが収まった。
火山地帯に生息するサーレ・ドラゴン。
その皮は軍事用品にも使われる最高級品である。
キトラにとって、願ってもない品だった。
「ありがとうバウアー。これで一安心だよ」
「だけど……本当に北のアーガ族に会いに行くのか?」
「うん。帝都で許可が出次第ね。難しいかもしれないけど」
キトラがそう言うと、バウアーは壁にかかった写真を指差した。
それは、バウアーによく似た若い男。
彼は軍服に身を包んでいた。
「オレの先祖だ。爺ちゃんの話によると、四代前の皇帝陛下に仕えた軍人だったって」
「陛下に?」
「北の森に行って戦ってたんだ。一番戦いが激しい時だよ」
バウアーの先祖は勇ましい軍人だった。
当時の皇帝は彼を重用し、直属軍の司令官に抜擢。
激しい戦いを繰り広げた。
しかし、アーガ族は強かった。
特に、森を守るアーガの戦士は高い戦闘力を持っており、普通の者では歯が立たない。
バウアーの先祖は大怪我を負い、その戦いで軍を辞めた。
「ナイフの職人を始めたのは、その戦いで脚を失くして戦場で走れなくなったからだ。それでも、そんな怪我は軽いほうだったって。この人のいた隊は八割が死んだって話だよ」
「そんな事があったのか」
「だから、森のアーガには手を出すなっていうのがオレの家の家訓だ。軍隊でもダメだったのに森に行って何かやろうなんて無謀すぎる。鞘は譲るけど、やめといた方が良いとオレは思うぜ」
「心配無用よ、バウアー」
深刻な顔をするバウアーに、プラジアーナが言った。
「私もキトラも、それからこのミガトもすごく強いの。そんな大変な目には遭わないわ」
「は? アンタも行く気なのか?」
「あら嫌だ。人は見た目で判断しない事よ?」
プラジアーナはにやりと笑って見せた。
「アーガの怖さはもちろん分かってる。でも、どうしても知らなきゃいけない事があるの。そのために―――」
その時だった。
外から、激しいサイレンの音が響いてきた。
何事か。
工房から出てみると、近所の店の者たちもみんな外に出て騒いでいた。
「おじさん、何なんだよこのサイレン。また火事か?」
「バウアー、外に出て来るな! ヤバいのが来てるんだ!」
「ヤバいの?」
「北のアーガ族だよ! お客を連れて隠れるんだ!」
「なんだよ……それ……」
バウアーの顔が強張った。
警戒警報が鳴り響くコゴミ市街の上空。
遥か上に、黒い塊が舞っているのが見えた。
殺気立ったアーガ族の群れ。
それはハシダテ集落で見たものよりも遥かに大きかった。
「何て数……! この街を本気で襲う気だわ!」
「プラジア、どうしたらいい?」
「アーガに襲われたら、家の中に逃げるだけじゃだめだわ! 壁を蹴破って入ってくるもの!」
「何だって!」
アーガはその鋭い嗅覚で、人が家の中に逃げても嗅ぎつけてしまう。
確かにそれは、キトラもハシダテ集落で見た光景だった。
家の中に隠されていた家畜も引きずり出され、殺されていたのだ。
「一体どうしたら……!」
「頑丈な大きな建物か、それから……地下室か」
「地下なら八番町の下だ! 建設中の『地下エネレール』の駅がある!」
近くにいた男が叫んだ。
コゴミの街では二年後にロロ副都心からこの街を繋ぐ列車の路線が開通する。
地下に掘られた空間はこの街の住民を皆収容できるほどに広いという。
話を聞いていた者たちは他の地区に伝えるべく急いで走り出した。
「八番町の地下までは、もうあっちこっちに入り口ができてる! みんなをそこから避難させるんだ!」
アーガの群れはゆっくりと旋回し、こちらの様子を伺いながら降りてきていた。
彼らは「いざ」というタイミングでリーダー格の者がGOサインを出し、奇襲をかけるという。
街に襲撃の合図がかかるまで猶予はない。
プラジアーナはバッと翼を広げた。
「どれだけ食い止められるか分からないけど……行かなきゃ!」
「プラジア!」
「キトラとミガトは街の人たちをお願い! 私、行ってくる!」
ゴォッと湧き上がったオレンジの炎。
プラジアーナは炎の塊になって黒い群れに突っ込んで行った。
上空に待機するあちらの戦力は数千。
微力だが、やるしかない。
キトラもナイフを手に迎え撃つ準備をした。
ミガトを見ると、近くを流れていた生活用水をバケツでくみ上げ、彼のエネルギーの源である水を頭からかぶっていた。
やはり彼もやる気のようだった。
「マトモに戦うのは難しいだろう。だが、せめて逃げる住民の援護くらいはせんとな」
「行こう、ミガト!」
「ああ」
キトラはミガトと共に五番町を抜け、子供や年寄りを誘導しながら四番町との境まで走った。
そこには八番町地下まで続く地下道への入り口。
いろいろな職業の作業着を着た男たちが声を掛け合い、協力し合って女や子供、年寄りを地下へ逃がしていた。
「落ち着いて進むんだ! 焦ると転げ落ちるからな!」
「足の悪いやつを優先してやれ! 後ろは向くな!」
「こら、ガキども泣くんじゃない! 泣くとアーガ族に食いつかれるぞ!」
キトラとミガトは住民を誘導する男たちの後ろにつき、入り口を守るようにして立った。
上を見ると、真昼の太陽のように燃え上がったオレンジの炎が黒い群れを追い散らしている。
プラジアーナはやはり強い。
しかし、それでも敵は多かった。
群れはプラジアーナに襲いかかるものと街を襲うものに別れ、後者は降り注ぐようにしてこちらに向かってきた。
「来るぞ!」
けたたましい鳴き声と、大きな羽音。
街中から悲鳴が上がった。
アーガ族は人々が地下へ逃げ込むのを見ると、やはりこちらをめがけて襲ってきた。
だが、無防備なところを跳びかかられるわけにはいかない。
キトラはミガトと共にその前に立ちふさがった。
「らぁあ!」
「タァーーーッ!」
これが、ユピテルのかつての同胞。
そう思うと、胸が痛んだ。
だが、こちらも街の人が襲われるのを黙って見ているわけにはいかない。
押し寄せるゴブリンの急所をめがけ、キトラは容赦なくナイフを振るった。
飛び散る鮮血。
断末魔の悲鳴。
獣臭い血汐を浴びながら、キトラは鬼のように戦った。
ミガトもその細腕で信じられないようなパワーを発揮した。
舞うように身を翻し、鋭い蹴りを繰り出す。
へし折られたアーガの首はごきゅり、と嫌な音を立てた。
次々に増えてゆく黒い骸。
しかし、倒しても倒してもアーガは次々に襲いかかってきた。
ナイフは血と脂が染みつき、だんだん切れなくなる。
ミガトを見ると、彼も息が荒くなっていた。
「……っ、きりがないな」
隣接する六番町や三番町のほうからはパニックに陥った人々の悲鳴が聞こえてくる。
恐らく、他の街区には戦える者などほとんどいないのだろう。
武器を持たない人々が傷ついていると思うと、心の中に焦りが生まれた。
だが、キトラにもミガトにも近くにいる人々を庇うのが精いっぱい。
そして、自分たちの体力の限界も近かった。
「もういいよ! アンタらも逃げろ!」
地下の入り口からバウアーが叫んでいた。
「みんなもう非難した! 早くこっちこい!」
周囲にはもう人はいなかった。
バウアーや、一緒に逃げた職人の男たちがお前らも早く来い、と叫んでいる。
しかし、上空ではまだプラジアーナが戦っている。
キトラには、彼女一人に戦わせる事などできなかった。
「バウアー、君は早く地下へ!」
「でも!」
「プラジアが上にいるんだ!」
ブッシュナイフはほとんど切れなくなっていた。
だが、このまま自分たちが下がれば、もしかしたらその分が上にいるプラジアーナの方へいってしまうかもしれない。
キトラは下れない。
ミガトも引かなかった。
すると、バウアーはしびれを切らしたようにこちらに飛び出してきた。
その手には熱した金属を伸ばすときの大きな「槌」が握られていた。
「くそっ! どいてろ!」
バウアーは両腕に力を込めた。
大槌が空を斬り、ヴンと呻る。
その重い金属の塊はアーガの脳天へと振り下ろされ、石のように固い頭蓋を容易く割砕いた。
巨体のアーガ族は声も立てずに地面に倒れた。
「バウアー!」
「逃げろ! 後はオレがやる!」
バウアーは叫んだ。
「お客をこれ以上危ない目に遭わせるわけにはいかねえんだよ!」
彼は、本当は怖がっているようだった。
肩を震わせ、恐怖におののきながらもバウアーは必死に立っていた。
彼のその姿に奮い立ったのか。
避難していた地下通路から、職人の男たちがわらわらと出てきた。
その手には地下にあった工事用のつるはしやスコップ。
彼らは日ごろの労働で培った剛腕でアーガ族に向かっていった。
「みんな!」
「バウアー! 『八番鐘楼』に走れ!」
巨大な鉈を持った木工の職人らしき男が叫んだ。
「鐘を鳴らすんだ! 急げ!」
「分かった!」
バウアーはそれを聞くと、道を北へ向かって走り出した。
キトラもミガトと一緒に走って彼を援護した。
向かう方角にはひときわ高い塔があり、大きく開いた窓から黒い鐘のようなものが見えた。
「あれは……?」
「軍隊を呼ぶための鐘だ!」
バウアーは息を切らしながら言った。
「鐘が鳴れば十分くらいで南州の陸軍が来る。街に何かあれば鳴らす係がいるはずなんだけど……多分、アーガ族にやられたんだ」
鐘楼に向かう道にはむごたらしい姿の人々が倒れていた。
「ひっ」と顔を引きつらせるバウアーに、ミガトが「見るな!」と怒鳴った。
死体を見るのは初めてだったのだろう。
だがとにかく今は走らなければいけなかった。
「気をしっかり持て。生き残った人たちを一人でも救うんだ」
「……分かった、もう平気だ」
「大丈夫だ。オレ達がいる」
ミガトのその言葉に、バウアーは笑って頷いて見せた。
鐘楼に駆け込むと、上へと続く螺旋階段があった。
その下には血を流して倒れる男。
傍らには鐘を叩くための柄の長いハンマーがあった。
恐らく外で襲われ、必死にここへ駈け込んだが間に合わなかったのだ。
「……後はオレ達に任せてください」
キトラは開いていた男の瞼をそっと閉じさせ、鐘楼への階段を駆け上がった。
外は風が強いらしく、大鐘はゆらゆらと静かに揺れている。
三人は息を切らしながら、必死でそこに駆け上った。
しかし、ついに鐘に手が届くかという場所。
そこに、最後の敵が待ち構えていた。
「ガァアアアアアアッ!」
牙を剥く、片目の潰れたアーガ。
それは他のアーガ族よりも一回り以上も大きな体をしていた。
明らかに普通ではない。
もしかしたら群れのボスかもしれないとキトラは思った。
「あんたが……ユピテル先生を襲わせたのか?」
血糊を拭い、キトラはナイフの柄をぎゅっと握りしめた。
バウアーは明らかに委縮してしまっており、唇が小刻みに震えている。
キトラとミガトは彼を庇うように立った。
「一体、何のために関係のない街や集落を襲うんだ!」
言葉など、通じないかもしれない。
だがそう思っても、その屈強なアーガ族を前に問わずにはいられなかった。
何故襲うのか。
何故殺すのか。
目の前の獣は、ゴロロ、と喉を鳴らしてキトラを睨んでいた。
その目は野生の獣のものだった。
しかし、やがて低い音が人間の言葉をその喉から発した。
「捜している……」
アーガは深い洞窟の奥から響いてくるような声で言った。
「ロクゾクノオウ……ここに」
「……っ!」
不意に、真っ黒な腕が空を斬った。
飛び散る鮮血。
鋭い爪が、ミガトの腕を大きく切り裂いた。
キトラは次の一撃を加えようとするアーガの腕を血に染まったナイフで防いだ。
しかし、振りかざしたその金属部分はもう刃物としての用を失っている。
未だ全くダメージのない敵を前に、こちらは明らかに不利だった。
「ロクゾクノオウとは……何だ!」
切れないナイフで、キトラは必死にアーガの爪を防いだ。
後ろではバウアーがミガトの腕に止血を施そうとしている。
しかし、出血が止まる様子はなかった。
このままではやられる。
そしてついに、キトラのナイフの片方が弾かれた。
「……うっ!」
カーンという音を立てて階段を落ちていくナイフ。
どうするのだ。
目の前のアーガは笑っているように見えた。
もう、後はなかった。
一か八か。
止めの一撃が振りかざされた一瞬の間。
キトラは爪の一撃を喰らう事を覚悟でアーガの懐めがけて飛び込んだ。
左肩に激痛が走る。
右によろめいたキトラの体。
アーガは無防備になったキトラの首めがけてかっと歯を剥いた。
今だ!
キトラは生き残った右手を振り上げ、その左目にナイフを突き立てた。
「ギァアアアアアアアアア!」
すさまじい悲鳴と共に、キトラの体は投げ出される。
見えていた片目の視力を奪われ、もはや光を失ったゴブリンは両手で顔を押さえ、痛みと混乱に悶え苦しんでいた。
「バウアー! 今だ!」
キトラは叫んだ。
バウアーは大槌を握りしめ、台の上に駆けあがる。
そして、力の限りその側面を打った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。
空気を震わす音が街中に響き渡る。
キトラはミガトに支えられ、身体を起こした。
鐘楼の窓から見えたのは、地上からむらむらと湧き上がる黒い群れ。
それが一つに固まり、北へ北へと逃げていた。
アーガにはこの音が何なのか分かったらしい。
軍隊が来る前に撤退する気なのだ。
群れの中から、鋭く高い声が何かを呼ぶように聞こえた。
両目を失ったアーガは、血を流しながらふらふらと立ち上がった。
そして、鐘楼から落下するように飛びたち、さっきの声を頼りに群れへと吸い込まれていった。
「終わった……」
キトラは膝を折り、そのままがっくりとその場に崩れ落ちた。




