【第三話】 強奪と別れ
目が覚めると、ユピテルの家の中は妙に静かだった。
部屋にはまだ昨日いじっていた史料の山がそのままになっており、手元用ライトがつけっぱなしになっていた。
まだ眠っているのだろうか。
キトラは寝室のドアをノックしてみた。
返事はない。
そっとドアを開けてみると、ベッドは空っぽで窓が全開になっていた。
どうやらまだ、ユピテルは「興奮冷めやらぬ」という感じらしい、とキトラは思った。
きっと、結局あの後眠らずに過ごし、いても立ってもいられずに早朝から発掘現場に出かけたに違いない。
キトラは昨日、プラジアが作ってくれた夕飯の残りを少し腹に入れ、ユピテルの代わりに家の戸締りをして発掘現場に向かった。
道を歩いていると、キトラの顔を覚えた近所の老人が声をかけてきた。
「早いな、キトラ君。もう畑に行くのかい?」
「いえ。ユピテル先生の姿が見えないんで出てきたんです。もう掘ってるのかなと思って」
「先生かい? ワシは明け方からここで野菜をやっとったが、見なかったぞ」
傍らの井戸の傍には収穫されたばかりのウリやトマト、青菜などが山になっていた。
奥にいた老婆もユピテルの姿を見ていないと言った。
「この菜っ葉は暗いうちに採らなきゃなんねえで、じいさんと二人してずーっと あすこの畑におったが、先生は通らんかったで」
「なぁ。先生も無愛想な方だけども、挨拶しないで行っちまう事はねえもんな」
「おお。下にはいないかもしれんよ」
「とりあえず見るだけ見て、いなかったら帰ります」
遺跡にいるのではないのだろうか。
いや、あの老夫婦より前にでかけたのかもしれない。
キトラはいない、いないと言われながらもとりあえず発掘現場に向かった。
王墓周辺はまだ朝露でしっとり濡れていた。
とりあえず墓の中に入ろうとキトラが入り口にかかった雨除けのシートを外していると、上からプラジアーナの声が聞こえた。
「ちょっと、ダメよキトラ。先生がまだ来てないのに勝手に入ったら」
「え、先生まだ来てないの?」
「ユピテル先生は朝が苦手なのよ。こんなに早起きするわけないわ」
プラジアーナは毎朝、遅起きのユピテルの代わりに遺跡の見回りに来るのだという。
森に住む動物が巣穴を求めて入り込んだり、子供がいたずらする事があるのだそうだ。
そういえば、キトラがここに来てからずっと、ユピテルは昼近くに起床していた。
いつもならまだ寝ている時間なのである。
だが、墓の入り口の踏板の上には彼の足跡があった。
「ほら、この大きい靴跡、先生のじゃない?」
「ホントだわ。まだ新しいみたい」
「きっと先生、興奮して眠れなかったんだよ。そんな事もあるって」
多分、ユピテルは中でまたあのミイラを前に難しい顔をして考え込んでいるに違いない。
墓に入ると、案の定発電機が動いており、明かりがついていた。
これはレリーフを運び出した際に作業用に取り付けたものだ。
キトラはもはや通い慣れた墓の中を早足で進んだ。
今日はどんな新しい事が見つかるだろうか。
しかし、一気にあの洞窟まで進もうとした時だった。
後ろから来ていたプラジアーナが急に足を止めた。
「キトラ待って!」
「どうしたの?」
「何か、変な声が聞こえるの」
プラジアーナの尖った耳がぴくぴくと動いた。
ピスカ族はルーデンス族よりもやや聴覚が発達している。
そのため、キトラは何も感じなかったが、プラジアーナは何か異変に気付いたようだった。
「何かが唸ってるわ……これって、アーガ族の呻き声……?」
「えっ?」
「先生に何かあったのかも!」
ユピテルはアーガとルーデンスとのハーフ。
だが、体調を崩したり、痛みを感じたときなど、緊急時に発する声はアーガ族そのものだという。
キトラはプラジアーナと一緒に急いで奥へ進んだ。
レリーフがあったあの空間まで来ると、奥の洞窟へと繋がる配線がプッツリと切れてしまっていた。
「プラジア、中の電気が切れてる!」
「今繋ぐわ!」
電気が切れてしまえば中は真っ暗だ。
プラジアーナは指先に僅かな熱を発生させ、切れた電線を溶かして配線を繋げた。
洞窟の中が明るくなる。
すると、何者かの影がゆらりと浮かび上がった。
垂れ下がる鍾乳石とゆらゆらと揺らめく地下水。
そこに踊ったのは、大きな翼を持ったアーガ族の影。
そしてその傍らに倒れる作業服の男だった。
「せ、先生!」
倒れている男の服装はユピテルのものだった。
アーガはゆっくりとキトラ達を振り返った。
その手には、あの透明な物体に包まれたミイラがあった。
「お前、一体何を!」
「ガァアアア!」
ゴブリンは大きく咆哮を上げると、ミイラを持ったまま空中に飛び上がった。
そして翼を羽ばたかせ、まだ調べていない洞窟の奥へと飛んで行った。
「プラジア! 先生を頼む!」
傍らにはユピテルが使っていたらしき作業用のランプがあった。
キトラはとっさにそれを掴み、アーガを追った。
ここに何故アーガ族がいて、何のためにあのミイラを持ち出すのかは分からない。
だが、あれはユピテルが長年の苦労の末にようやく発見した貴重な考古学資料。
そして、プラジアーナの先祖の遺骸である。
黙って持ち去られるわけにはいかなかった。
「くっ、ま、待て!」
キトラは尖った鍾乳石を折り、アーガに投げつけた。
ブッシュナイフは初日以来一度も持ち歩いておらず、武器はそれくらいしかなかった。
だが、アーガはまるで背中に目がついているかの如くあっさりとそれらを避けた。
その間に水はどんどん深くなり、ランプが消えて辺りは真っ暗になった。
胸の辺りまで水につかり、流れが速くなる。
キトラがもう追うのは無理かもしれないと思いかけた時だった。
微かに前方に明かりが見えた。
アーガの羽音がそちらに向かっていた。
「ここ……別の入り口があるのか」
キトラはランプを捨て、僅かな明かりを頼りに前に進んだ。
洞窟は一度完全に水没し、さらに奥の空間へと続くらしい。
水没した狭い洞窟の闇雲に進むのは危険な行為である。
だがキトラは意を決し、その深い水の中に潜った。
「……っ!」
外気に触れた事のない地下水は身を切るように冷たかった。
だが、早く追わなければ見失ってしまう。
死に物狂いで明かりを目指し、流れに逆らって泳いだ。
キトラが水面に顔を出したとき、見えたのは大きな空。
そして、激しく水が流れ落ちる音が聞こえた。
そこは、集落の外れにある滝の真上。
危うく落下しそうになり、キトラはとっさにむき出しになった木の根にしがみ付いた。
アーガはもう、黒い点になって砂漠の上空を飛んでいた。
飛ぶことのできないキトラは諦めるしかなかった。
ずぶ濡れの体を引きずってキトラが元の場所に戻ると、そこには集落の通りで会った老夫婦と、泣き伏しているプラジアーナがいた。
老人はキトラの顔を見ると、黙って首を振った。
「首を絞められたらしい。もう、先生はお亡くなりになっとる」
老婆は泣きながらプラジアーナの体を抱きしめていた。
キトラはがっくりと膝を折った。
あまりにも悲しすぎる死だった。
そして、あまりにもあっけなさすぎる別れだった。
キトラは今まで、身近な人間の死をあまり経験したことがなかった。
幼い頃に祖父が病気で死んだ。
だが、その時は幼すぎて「死」というものが分かっていなかったように思う。
それゆえ、ユピテルの死はあまりにも重い出来事だった。
「キトラ君。これは都会に出た息子のだが、合えば着てくれ」
「ありがとうございます」
「本当に……何てことが起きてしまったのか」
喪服を貸してくれたのは、遺跡のレリーフの運び出しをやってくれた大工の棟梁だった。
集落の者たちは皆、普段は身に着けない真っ白な服に身を包み、礼拝堂に集まった。
プラジアーナは自分の家に篭ってしまい、出てこなかった。
彼女を小さいころから知るという近所の娘が、プラジアーナは自分たち幼なじみに任せてほしいと言った。
「プラジアはお父さんを早くに亡くしてるから、ユピテル先生は父親も同じなの よ。だから、暫く大変かもしれないわ」
「じゃあ、お葬式には無理に出ない方が良いかもしれないね」
「私たちも少し話してみるけど……もしダメだったらごめんなさい」
こんな時、女友達というのは頼もしいのかもしれない。
キトラは無力感を感じた。
だが、自分はまだプラジアーナと知り合って何日も経っていない。
彼女を案じるばかりでろくに何もできないのは仕方がないと言えば仕方がない事だった。
キトラはユピテルの死を、帝都にいるリンにもすぐに伝えた。
リンは「嘘よ……」と言ったきり言葉を失っていた。
そして、「講義が終わったらまた連絡するわ」と言って通信を切ってしまった。
それきり今まで連絡がない。
こちらからコンタクトを取ろうとしても、端末はシャットアウトされたままのようだった。
リンは人前で涙を見せる女ではない。
一人で泣いているのではないかと思うと胸が痛かった。
礼拝堂に行くと、キトラが初めて来たときにはなかったものがあった。
祭壇の右側の壁を埋めたレリーフ。
それは、あの墓の中にあったものだった。
「こういう勝手な事すると、いつもは先生に怒られるんだけどもな」
大工の棟梁は、これは自分たちの仕業だと言った。
急きょ葬儀が決まり、礼拝堂に置かれたままになっていたレリーフをどうするかと考えたときに、何もない祭壇の壁が目に入ったのだという。
そこでタイル張り用の漆喰を使い、ユピテルの葬式に間に合うように急いで張ったのだ。
「こうしとけば、オレ達はいつでも先生を思い出せるだろ。考古学の大事なもん かもしれねえが、これはオレ達のとこに置いといて欲しい。みんなもそう思っ てるはずだ」
学者の立場で考えれば、墓から出た遺物を勝手に礼拝堂の壁に使ってしまうなどとんでもない事だ。
研究のために、手垢ひとつつけずに保管しなければならないというのが常識なのである。
しかし、キトラは何も言えなかった。
礼拝堂に集まった集落の者たちの中には、祭壇とレリーフの両方に祈りを捧げている者が何人もいた。
彼らからユピテルの遺したそれを奪う事などできないと思った。
葬儀が始まる寸前になって、プラジアーナは友人たち数人に支えられるようにしてやってきた。
彼女はキトラを見ると、ただ小さく「ごめんなさい」と言った。
だが、それ以上の言葉は出てこないようだった。
「では、これより葬祭の儀を執り行います」
司祭が祭壇の前に跪き、祈りの言葉を読み上げると、列席者は誰からともなく弔いの歌を歌い始めた。
それは、聞いたことのない言葉だった。
後で聞くと、かなり古い言葉で、今は誰も意味は分からずに歌っているものらしい。
だがその歌を聞くと、キトラは涙が止まらなくなった。
どうか安らかに。安らかにお眠りください。
そしてどうか、私たちを忘れないでください。
なんだか、そんな風に言っているように聞こえた。
葬儀が終わると、ユピテルの棺は礼拝堂の裏に運ばれた。
そして、木で組んだ櫓の上に寝かされ、火がつけられた。
ユピテルが荼毘に付されるのは見ていられなかったのだろう。
プラジアーナは礼拝堂から出てこなかった。
炎がすっかり消えてしまうと、拾われた遺骨は小さな素焼きの壺に収められた。
そして、壺は礼拝堂の祭壇下にある地下の空間に置かれた。
そこには今まで集落で死んだ者たちの遺骨が並ぶ。
ユピテルは集落の人間として、住民たちの墓に一緒におさめられたのだ。
「キトラさん、今夜は『夜守』を頼めるかね」
司祭は集落のしきたりを知らないキトラに葬儀の夜の事を説明した。
ハシダテ集落では葬儀の夜に、「夜守」といって礼拝堂で一夜を明かすしきたりがある。
霊魂はすぐにはあの世へは行かず、一晩礼拝堂にとどまると言われている。
そんな死者が寂しがらないよう、一緒にいて安心させてやるのが夜守なのだ。
本来は死者の息子や弟など、男の血縁者がその役目をする。
だが、ユピテルには家族がいない。
キトラにはその代わりをして欲しいというのだ。
「嫌なら無理にとはいわないが、ユピテルさんはあんたをかわいがっていたよう だ。私としてはあんたに頼みたい」
「嫌ではないですが、知り合ったばかりのオレでいいんでしょうか」
「構わないとも。ここ数日、ユピテルさんはあんたが一緒にいてずっと嬉しそう にしてたと、みんな言っているよ」
自分で良いなら、とキトラはその守り役を引き受けた。
夜守、といってもすることはない。
ただ礼拝堂に泊まって、朝までそこを離れずに過ごせばいいのだ。
その間は誰かを一緒に呼んで酒を飲んでもいいし、寝てしまっても構わない。
キトラは結局、生前ユピテルと仲良くしていたという男たちと一緒に飲んで語り明かす事になった。
「ユピテル先生はあんな顔して下戸でよぉ。ろくに飲まねえうちにコロッと寝ちまうんだ」
「そうだったな。キトラ君はどうだい? いける口かい」
「オレも、そんなに強くはないですよ」
「まぁまぁ、とにかく飲んで、今夜は先生の思い出話でもしようや」
ユピテルは寡黙な男だった。
だが、酒に誘われれば付き合ったし、人の相談にもよくのっていたという。
顔は怖いがみんな彼を慕っていて、子供がよく懐いていたともいう。
しかし、住民が初めからユピテルを受け入れた訳ではなかった。
初めてユピテルが集落にやってきたとき、みんな怖がって彼に近づかなかったというのだ。
「なにしろまるっきりアーガ族だしな。都会の人の紹介で長が連れてきたんだ が、誰も口きかなかったっけ」
「連れてきた長がまずびびってたもんな」
「それで、一年くらい経った頃、まず子供から懐き始めたんだ」
集落の空き地を発掘し始めたユピテル。
その周りに好奇心旺盛な子供たちが集まり、見学するようになった。
子供たちも初めおっかなびっくりだった。
だが、次第にユピテルが怖くないと気付き、彼に話しかけるようになった。
その子供たちの集団の中にプラジアーナもいた。
「子供と、それからあとはここで飼ってる犬猫が懐いたな。連中は、良い人間と 悪い人間が分かるらしい。それ見て、だんだんみんな話しかけるようになった わけだ」
ユピテルの穏やかな性格が理解され始めると、彼は自然と住民の中に受け入れられていった。
彼の作るアーガ族の茶は野良仕事で疲れた老人たちを癒し、この集落の住民たちにとってなくてはならないものになった。
そして、いつの間にかユピテルの外見を怖がるものはいなくなっていった。
「けど初めにアーガ族がここを襲ったとき、先生がそれはそれは気にしちまって よ」
ユピテルとよく話をしたという酒屋の男が言った。
「オレのせいで奴らが来たんじゃねえかとか、そんな事を言いだして出てこうと してさ。まぁ、まぁ、ってみんなで止めた訳なんだけども」
それはプラジアーナも言っていた事だった。
自分がアーガ族を引き寄せているのではないか。
集落の住民が何も気にしないにも関わらず、ユピテルはつい最近までずっとそう気にし続けていたのだ。
「同じ顔してても、良い奴もいれば悪い奴もいる。先生は……オレ達の仲間だっ た。あの人は、オレたちが失っちゃなんない人だったよ」
酒屋の男はそう言って鼻をすすり、涙を酒で流し込んだ。
みんな泣きたいのを酒を飲んで誤魔化しているようだった。
それを見て、キトラはユピテルは幸せだったのだろうと思った。
彼は砂漠の真ん中のこの場所で、暖かな人間関係に恵まれて暮らしていたのだ。
「ところでキトラ君、先生は見つかった時、どんな風だったんだい」
「……先生は、あの墓の中でアーガ族に襲われたんです。すごくでかい奴で、オ レとプラジアが行った時にはもう手遅れでした」
その悲惨な死に方について話すと、男たちは皆やりきれないという表情を浮かべた。
ユピテルの首には絞められた跡があった。
ミイラを持って逃げたアーガは大きな翼を持っており、アーガ族の中でもかなり巨漢に見えた。
アーガはミイラを抱えて北へ飛んで行った。
彼らの住処である北の大森林がある方角だった。
「先生を殺してミイラを持ってった? いったい何のために?」
「分かりません。しかも、あの墓にミイラがあるのはオレと先生と、あとはプラ ジアしか知りませんでした」
「しかも、単独で来るなんてな。あいつらはいつも、集団で襲ってくるもんだ」
不可解な事は他にもあった。
ユピテルがなぜ、あんな朝早くから墓の中にいたかという事だ。
彼の家は窓が開けっ放しで、明かりもついたままになっていた。
もしかしたら、ユピテルは意図せずにあの場所に連れて行かれたのではないか。
キトラにはそんな考えが浮かんだ。
「先生は……あのアーガに脅されたのかもしれません」
「脅された?」
「何らかの方法であのミイラが墓から見つかった事を知ったアーガに脅されてあ の墓に行き、そして殺されたとすれば……」
「何にせよ、許せねえな。元は同じ仲間だろうに。あの畜生が」
「もしオレらが全滅でも先生だけは、って思ってたが、やっぱりあいつらはケダ モンだ」
酒がまわってくると、男たちは口々に怒りと悔しさを吐き始めた。
アーガ族がミイラを持ち去った理由は謎だ。
キトラの知識では、アーガは自分たちの住処以外にはあまり執着せず、集落などを襲い、人を殺すことはあっても略奪行為を行う事はない。
そんな彼らがユピテルを殺してまであれを奪う理由はなんだったのか……。
考え込んでいると、隣に座っていた大工の棟梁がキトラの椀に並々と酒を注いだ。
「ジメジメしてても始まらねえ。今夜は飲もう。な、兄ちゃん」
夜が更けていくにつれ、酒に弱いものから先に寝始めた。
キトラも二番目くらいに寝てしまったようだった。
明け方に尿意を覚えて目を覚ますと、男たちは大いびきをかいて眠りこけていた。
外に出ると、西の空に大きな月が出ていた。
今日はあの蜃気楼は出ていない。
その分、くっきりと切り取られたような三日月が美しく見える。
月はその昔、二つあったといわれている。
神話に語られる二つの月は悪魔に支配されており、禍々しい光でこの惑星に絶えず嵐と残酷な渇きをもたらしていた。
星は全てが赤い砂に覆われ、その過酷な環境では神々と僅かな強い生き物しか生活できなかった。
しかし、それを一人の神が変えた。
その神によって月は一つになり、その新しい月の光が星を豊かに作り変え、豊かな海水の海や、大きな森や、様々な生物を作ったというのだ。
それは架空の話なのかもしれない。
だが、優しい月の光を見ていると、キトラはそんな話を信じたくなる気がした。
月はこの世界を見守り、優しく癒す存在であるのだと……。
キトラは暫く月を眺めてから礼拝堂の方へ戻った。
ドアの前にはプラジアーナが立っていた。
何と声をかけたものか。
キトラが言葉を出せずにいると、プラジアーナは弱弱しげな口で「こんばんわ」とかすれた声を出した。
「眠れなくて来てみたの。もしかしたらキトラが起きてるんじゃないかと思って」
薄暗がりの中でもその泣き腫らした顔はよく分かった。
大丈夫か、と聞くとプラジアーナは小さく頷いた。
だが、どう見てもそうは見えなかった。
「無理しないほうがいいよ。何だかまだ、顔色が悪い」
キトラがそう言うと、プラジアーナは困ったような顔をした。
「やっぱり……まだだめね。泣かないように泣かないようにって思うのに」
「そんなのできないよ……昨日まで先生は元気だったんだ」
「パパが死んだときは病気だったから心の準備ができたの……でも、こんなにいきなりいなくなっちゃうなんて」
「……そうだね」
「私がもっと早く行ってれば……先生は死ななくて済んだかもしれないのに……っ」
プラジアーナは両手で顔を覆った。
キトラは礼拝堂の入り口脇にあるベンチに彼女を座らせ、肩を抱いてやった。
今はただ、泣くしかない。
泣いて、泣いて、気が済むまで泣くしかない。
プラジアーナはあれからずっと泣いていたのだろう。
だが、ユピテルと会って僅かな時間しかたっていないキトラでさえこんなに辛いのだ。
人の死の痛みはきっと、そんなに簡単に癒せるものではない。
悲しみはすぐには消えない。
だが、それに区切りをつけるためにも、今は何かを我慢してはならないのだ。
「プラジアが言ったとおりだったよ」
キトラは独り言のように言った。
「先生はこの集落の人たちに愛されてた。おじいちゃんもおばあちゃんも、小さ い子供も、お葬式でみんな泣いてた。先生を悪く言う人なんて、誰もいなくて さ」
自分がアーガの血を引いた人間であることを、ユピテルは最後まで気にしていた。
そして、自分が周りの人間たちに愛され、必要とされ、心から受け入れられていた事に気づかずに死んでしまった。
その事がただ悲しい、とキトラは思った。
「ウェフリー先生もきっと、プラジアと同じくらい悲しんでるだろうね。君が言 ったとおり、あの人は……ユピテル先生が好きだったと思うから」
リンはユピテルを「ヴト」と呼んだ。
彼女が人をファーストネームで呼ぶことはめったにない。
きっと、ユピテルはリンにとって特別な存在だったのだ。
そう言うと、プラジアーナがキトラのシャツをぎゅっと握った。
「先生を……ウェフリー先生に会わせてあげたかった……」
「そうだね」
「愛する人に会えずに逝ってしまうなんて……悲しすぎるわ……」
朝になると、プラジアーナは頭が痛いと言って帰っていった。
キトラは集落の女たちに言われ、ユピテルの家を片づける事になった。
家は貸家で、持ち主に返すために中のものをどうにかしなければならなかったのだ。
「ユピテル先生は、あんたの先生に世話になっていたんだろう? だったら、そ の先生に荷物やらなんやらの引き取りをお願いすればいいんじゃないかい?」
「そうですね……聞いてみます」
「運び屋は信頼できる人に頼んでおくよ。帝都の大学ならまぁ、分かるだろう。 じゃあ、大学の先生にはアンタから連絡をお願いね」
集落の長の妻はそう言って帰っていった。
聞いてみる、といったものの、リンは相変わらず返事をしなかった。
キトラは大学の住所を運び屋に伝え、勝手に送り付ける事にした。
リンは怒るかもしれない。
だが、ユピテルに身内がない以上そうするしかなかった。
「考古学の史料はきっと、大学で何とかしてくれるよな……」
彼の服などはもう捨ててしまっていいだろう。
だが、研究史料や彼が書いた研究ノートなどは大事にとっておかなければならない。
結局片づけは午前中だけでは終わらず、昼過ぎになるとプラジアーナもやってきた。
まだ目の下には隈があった。
キトラはもう少し休んでいればいいと思った。
だが、じっとしているのは嫌なのだと彼女は言った。
「私も先生の役に立たなきゃ。一番先生の研究の事が分かってるのは私だもの」
どう接していいか分からないキトラの脇で、プラジアーナは黙々と作業を進めた。
ユピテルがどこに何をしまっていたのかを助手の彼女はよく知っていた。
「遺物は基本的に、遺跡に埋めたまま運び出さずにおいていたの。そのほうが傷 まずに保管できるからって。だから、大事なのは先生のスケッチと論文原稿 よ」
「見つけたのは居間に全部出したんだけど」
「多分、このもう二倍くらいはどこかにあるはずよ。地下室を見ましょう」
家の裏に回ると、そこには地下室の入り口があった。
プラジアーナが言った通り、中にはぎっしりと資料がつまっている。
それらを運び出そうとしていると、午前中に連絡を取っていた運び屋がやってきた。
青い帽子に、おそろいの制服を着たクウォール族が五人。
遠い帝都まで運ぶ、という事で、彼らは小型の「天空船」で下の畑までやって来ていた。
飛行機能のある空路用の船。
その船体には大きく会社名が書かれていた。
「お代のほうは集落の代表の方からいただいてます。どれから運びますか?」
「あ、でもちょっとまだ片づけてないのが残ってて」
「いつも呼んでいただいてますし、荷造りもサービスでやりますから。持ってい かないものだけ指示してください」
クウォールの運び屋たちはテキパキとよく動き、部屋の中はあっという間にものがなくなっていった。
黒くて丸い大きな目をくるくると動かしながら、その小さな手で荷物を器用に梱包していく。
小さくて小回りが利くためか、昔からクウォール族には引っ越しや荷物の運搬の業務に携わる者が多い。
キトラが帝都に引っ越した時も、頼んだ運送屋はクウォールだった。
作業に慣れた彼らの仕事は実に見事で、最後の方はもうキトラもプラジアーナも手出しができなくなっていた。
何もできないからせめて、と休憩にユピテルの蓄えていたあの茶を煎れて菓子や果物などを勧めると、彼らは嬉しそうにその茶色い尻尾をぴん、と立てた。
「明々後日の夜までには大学の方にお届けできますよ。今日明日は天気も悪くな いし、アーガ族の動きもおさまったみたいですから」
「やっぱり、アーガの影響はそちらの仕事にもありますか」
「そりゃあもう。我々は空を飛んで仕事をしますから、上空で襲われたらひとた まりもありません」
ゴブリンの話をすると、運び屋たちは口々にその恐怖を語りだした。
幸い彼らの会社では襲われた者はまだいないという。
だが、運悪く仕事中に襲撃に遭い、犠牲の出た同業者も多い。
そのため、運び屋の組合が定期的に情報を発信し、危険なときには仕事をしないようにしていると彼らは言った。
「ここ一週間はギリギリ仕事ができてますから、まだいいです」
「じゃあ、なんか危ない時期に来てもらったみたいで悪かったですね」
「けど、危なくても働かなきゃ商売あがったりですからねぇ」
「あの……運び屋さんで、積み荷が奪われたりする事はあるんですか?」
キトラが運び屋たちと話をしていると、じっと黙って話を聞いていたプラジアがそっと会話に入ってきた。
「例えば、アーガ族が従業員の方を傷つけて……何か高価なものを強奪するとか」
「さぁ……積み荷がとられる話は聞いた事がないですね」
リーダー格のクウォールがその果物の種のような目をくりくりさせて言った。
「危ないのは、我々の天空船が奴らの進路を妨害したり、仕事の現場が奴らの襲 撃ポイントになってしまう時です。そうすると、奴らは動くものすべてを敵と みなして襲ってきますから」
「……そうですか」
「だから、我々の感覚ではカミナリ雲と一緒ですね。近くに行くのは怖いです が、遠い分にはそこまで警戒しなくても大丈夫ですから」
遠くに雷鳴が聞こえても、落雷しない距離なら問題ない。
空を飛行中にアーガの群れが見えても、彼らの進路を邪魔しないように飛べば危険を回避できる。
クウォールの者たちはそんな風に仕事をしていると話した。
彼らの話を聞きながら、プラジアーナは何かじっと考え込んでいるような顔つきだった。
荷物が全てが運び出され、運び屋たちの天空船が飛び立った後、プラジアーナはキトラに、ユピテルが殺された理由を知りたいと言った。
「自分たちの縄張り以外に執着しないアーガが、どうしてあれを欲しがったのか しら」
「確かに、それはオレもずっと考えてたんだ。しかも、どうしてあそこにあれが あるって知ったのかも分からない」
「……それを知ってるのは、多分アーガ族だけよね」
プラジアーナはキトラの顔を見た。
そして、意を決したように次の言葉を口にした。
「キトラ、私……北の大森林に行ってみようと思うの」




