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<挿話> 塩の湖

(ノヴァ語り)


 風に乗って潮の香りがする。

 湖面にはさざ波がきらきらと揺らめき、空の青を映して澄み渡っている。

 水の底から浮かび上がってきたミガトはぷはっと息継ぎをすると、大きな魚を持ってこちらへ泳いできた。


「ノヴァ様、こいつです」

「うわぁ、すごい顔ね」

「肉食魚ですから。噛まれると危ないですから、手を出さないでくださいね」


 岸に上げられた魚は、カミソリのような歯をむき出してギイギイ音を立てて跳ねていた。

 一体、どこから紛れ込んだのだろう。

 宮殿の中にある人工湖にこんなものがいたことは今までなかったと、古くから働いている庭師も目を丸くしていた。


「ミガト様、こいつは何という名なのです?」

「花の海ではノイズ・ガーと呼んでいます。捕まえるとこうやってうるさくするのが特徴ですが、まだこれは子供でしょう」

「食べられるのですか?」

「ええ。鮮度が落ちるのが早いので、食べるならすぐにさばいてしまうほうがいいでしょう」


 目の前でビチビチと跳ねる魚は私には美味しいものには見えなかった。

 こんなのを持っていったらコックが怪我をしてしまうかもしれない。

 私は放してやるようにミガトに言った。


「まだ子供なのでしょう? 大きくなるまでここに泳がせておいたらいいわ」

「かしこまりました、ノヴァ様」

「ありがとう。また珍しい魚がいたら見せてね」


 魚はミガトの手から放され、元気に泳いでいった。

 ミガトはこの池で、あと五種類くらいの魚を見たと言った。

 私も見た事のない魚がたくさん群れを成して泳いでいるのを見たけれど、探せばもっともっとたくさんいるみたい。

 ミガトについて行けば全部見られるかしら。

 そう言ったら、ミガトはダメだと言った。


「さっきの魚のように狂暴な奴もいますからね。皇女が噛まれては大変です」

「あら。私、泳ぐのは得意なのよ?」

「魚はもっともっと得意です。見たいのでしたら私が獲ってきましょう」


 ミガトは優しく言ったけれど、私が自分で湖に入るのはどうしても許してくれないみたいだった。

 他の人たちもみんなミガトに止められていて、湖に入って泳いだのはちゃんとしたスーツを着込んだ海軍の人たちとミガトだけ。

 大人になったら絶対に入って泳いでやる。

 私はそう思って我慢した。


「ノヴァ様、そろそろご昼食の時間です」

「あら、私まだお腹すいてないわ」

「お飲物だけでも口にされてください。午後からまたご公務でしょう?」


 侍女に言われて、しぶしぶ食堂に行く。

 父上の代理をし始めてから毎日とても楽しくて充実しているけれど、お休みの日がなくなってしまったのが少し寂しい。

 今日は誰が来るんだったかしら。

 そんな事を考えながらサラダを突いていると、ミガトが着替えてやってきた。

 水に入って元気になったみたい。

 何だか朝よりもシャキッとした顔になっていた。


「ミガトって、お魚みたいね」

「左様でございますか、皇女」

「ダーガーン族は、お水に入ると元気になるみたいだから」

「その通りです。水がなければ我々は生きられないのです」

「じゃあ、宮殿に塩水の湖ができて良かったわね」


 私が生まれてからずっと、宮殿の湖は何もいないただの大きな水たまりだった。

 宮殿の地下から「酸」をたくさん含んだ水が湧いてるせいで生き物が住めないから、と父上は言っていた。

 それが変わったのは、北の大森林で「大爆発」があった後から。

 地面の下でいろんな変化が起きて、海の水や生き物が流れてくるようになったんだろう、って理科の先生は言ってたけど詳しい事はまだよく分からないみたい。

 私が許すなら潜って見てくる。

 ミガトはそう言ったけど、私は止めた。


「海って遠いのよ。いくらミガトでも、途中で苦しくなっちゃうわ」

「ダーガーン族は海の中で息ができるのです。どんなに潜っても苦しくはなりませんよ」

「でも、何があるか分からないじゃない。大きな怖い魚が口を開けてあなたを待っているかもしれないわよ?」

「そうですね。それは恐ろしいです」

「だから、ダメ。あなたには他にお仕事がたくさんあるんだから」


 ミガトの仕事。

 それは、私の身を守る事だ。

 テェアヘペロが北の大森林に行ってしまったので、代わりにミガトが私の護衛になった。

 ミガトは強い。

 試しに陸軍の強い人たちと「組手」をしたら、全員あっという間に倒されてしまっていた。


 今まで宮殿にはいなかったダーガーン族のミガトは最初、前からいる人たちと馴染めないみたいに見えた。

 特に、類人種が嫌いなセピア族はミガトを警戒していた。

 ミガトと一緒に働くのが嫌で辞めてしまった人も何人かいた。

 でも、強くて仕事のできる人が好きな人たちはすぐにミガトを気に入ったらしくて、セピア族でもミガトと仲良くしている人が何人か出てきた。

 それがみんな父上に抜擢されて働いてる若い人たちなのが私には面白く思える。

 種族や生まれで人を判断しない自立した考えを持ってる人。

 そんな人が父上は大好きらしい。

 私もそうだ。


「そういえばノヴァ様、ミイレン大佐にお会いになったとお聞きしましたが」

「ええ。この間南州に行ってきたの」

「ミイレン殿は何と?」

「まだ答えは聞いてないわ。でも、きっと来てくれると思うのよね」


 私は今、南州陸軍のミイレン大佐をスカウトしようとしている。

 理由は将来私が皇帝になった時に、強い女の人が傍にいてくれた方が心強いから。

 この話を知っているのはミイレン大佐と、ミガトと後は何人かだけ。

 ミイレン大佐を仲間に入れたい、って話したらミガトはすごく賛成してくれた。

 帝都に来る前に船の中でたくさんお話ししたんですって。


「ミイレン殿はとても素晴らしい人物です。しっかりした考えを持っておられますし、皇女がこれからこの世界を治めていかれるにあたって、必ずや大きな力になることでしょう」

「でも、迷ってるみたいなのよね。軍の人はその州の王様に忠誠を誓ってお仕事に当たるでしょう。だから私がいらっしゃいって言ってもそんなにすぐには来られないのよ」

「ですが……すぐに断られなかったのですから、ミイレン殿が皇女にお心を寄せているのは間違いないでしょう」


 軍人の中には、王様への忠誠心が強くて、王様のためなら命を懸けられるっていう人がたくさんいる。

 もちろん、軍に所属する人はみんなそうじゃなきゃいけないっていうのが大前提。

 採用されるときにみんな、「王様のために死ねますか?」って聞かれて、「はい」って答えないと軍には勤められない。

 けれど、本心はお金だったり、家族の為だったり、王様じゃなくて国そのものを守りたいっていろいろだったりすると父上は言っていた。

 私もそれでいいと思う。

 人間だもの、みんな同じっていう風にはなれないし、自分の心に従ったほうがいい仕事ができるならそのほうがいい。


 でも、中には本当の「王の僕」っていう人たちがいて、その人たちはもう王様のお傍が自分の死に場所だって誓っている。

 王様が死ねば自分の命も終わり。

 だから、どこの州でも王様が死ぬとだいたい十人以上は「殉死」っていう道を選ぶ人たちが出てくる。

 王様の後を追って、自分で命を絶ってしまうのだ。


 ミガトはそれを知っていて「ミイレン大佐は帝都に来る可能性が高い」って言ったみたいだった。

 ミイレン大佐が王様のために死ねるような人だったら、私の提案に即刻「お断りします」っていう答えを返していたはず。

 そうでなくて悩んでいたのなら、私のところに来てくれる気があるのかもしれない。

 私はそれを聞いて楽しみになった。

 今度はミガトも一緒にミイレン大佐に会ってもらおう。

 もしミイレン大佐が私のところに来たら、二人は同じ職場の仲間になるのだから。


「ふふふ。ミイレン大佐はダーガーン族にも理解がある人みたいだしね。そういう人を帝都に呼ばなければ、ミガトの仲間もなかなかあの海を出て来づらいもの。あの人には、みんなのお手本になってもらわないと」

「……ありがとうございます、皇女。一族に代わって御礼を申し上げます」

「今回の大爆発関連の事が落ち着いたらきっと、法律が変わってあなた達やアーガ族につけられた『類人種』っていう不名誉な名前はなくすことができるわ。そしたらきっと、あなたは忙しくなるわよ」

「……は」

「法律の整備に加えて、どうやって今まで権利のなかった人たちを社会に馴染ませていくか、いろんなことを考えなきゃいけないのよ。あなたの力が必要だわ」


 私がそう言うと、ミガトはきょとんとした顔をしていた。

 ああ、いけない。

 この人はまだ全部の事情を知ってるわけじゃなかったわ。

 ミガトはテェアヘペロが帰ってきたらもうここでの仕事は終わりだと思っている。

 そうじゃないことをまだ私は伝えていなかった。


「ミガト、テェアヘペロが帰ってきたらあなたは私の護衛隊長ではなくなります。でもね、また新しい仕事についてもらわなきゃいけないの」

「新しい仕事……でございますか」

皇帝府参与こうていふさんよっていうお仕事よ。忙しくなるから、後でダーガーン族の族長さんやミガトのご家族にもちゃんと説明はするわね」


 皇帝の下にある組織は複雑で、ミガトもまだ全部は把握しきっていないと思う。

 私も時々間違えるくらいいろいろな役職があるんだもの。

 トップにはまず皇帝がいて、皇帝の下には「帝国議会」と「皇帝府」っていう二つの組織がある。

 帝国議会には選挙で選ばれた議員さんがたくさんいて、法律に関する事とかを審議するのがお仕事。

 皇帝府には重要な政策や、皇帝がすぐに手をつけて直接どうにかしたいって考えてる政策なんかをすぐにやる役目がある。


 軍隊は組織全体でいうと議会と皇帝府の下にあって、議会か皇帝府が決めた仕事を軍隊がやるっていう感じになっている。

 それは他の「医務省」とか、「学務省」とか、「財務省」とかいろんな組織も同じ。

 軍は正確には「軍務省」っていう組織で、軍務大臣の下に陸海空の大将とそれ以下の人たちがいるっていう構造になってるわけ。

 だから、今のところ軍の人間の一人として私の護衛隊長をしているミガトは、一気に偉い人になることになる。

 他にも偉い人はいっぱいいるんだけど、「皇帝府参与」っていう立場はその中でもかなり上。

 それを言ったら、ミガトはやっぱり固まってしまっていた。


「軍の大将よりも上の立場……ですと? 何かの間違いでは?」

「あら、無礼者ねミガト。私に向かって間違いなんて」

「もっ、申し訳ございません!」

「まぁ、無理もないわ。本当なら帝国に何十年も仕えたお爺ちゃんお婆ちゃんがなってる仕事だもの。それにしばらく適任者がいなくて空席だったしね」

「ではなぜ……私などが」

「いろんなお仕事の効率とかその辺の事を考えて、なのよ。ミガトみたいな人があの仕事についててくれると私や父上が助かるからって思っといてくれればプレッシャーもかからないでしょう?」


 私はミガトがあまり緊張しすぎないように考えてそう言った。

 ミガトは「はぁ」みたいな間の抜けた返事をしていた。

 多分、実感も何もないんだと思う。

 ついこの間まであんまり花の海から出たこともない人だったんだし、そりゃそうよね。

 まぁ、お仕事が始まったらそんな事は言ってられなくなるわけなのだけれど。


「ノヴァ様、北州の大使の謁見時間があと三十分ほどです」

「あら、もうこんな時間。すぐ行くわ」

「では、お支度を」


 午後からの面会は珍しく一件だけ。

 私は北州が持ってきた報告書をチェックしてすぐに彼らを返した。

 だって、北州って母上のところだもの。

 もうとっくにこっちは全部分かってるし私が「はい、分かったわ」って言えば終わってしまう。

 後は特に急ぎの仕事もなかったから、私は一番上の兄上に会いに行くことにした。


「ミガト、できれば兄上に湖の様子を見せて差し上げたいのよ」

「お加減が良ければいいのですが……大丈夫でしょうか」

「とりあえず、会ってみないとね」


 一番上の兄上は今も、なかなかお外に出られない状態が続いている。

 森で大爆発があったすぐ後に現場を見に行って、その時に「よくないもの」に当たってしまったらしいって父上は言っていた。

 その直後は本当に大変だった。

 兄上は一日に何度も錯乱して暴れていて、訳が分からないことを叫んでいた。

 父上や母上、私達の事も分からなくなって、取り押さえようとした父上が椅子を投げられてお怪我をしたこともあった。

 

 今日は大丈夫だろうか。

 私は念のためにミガトを連れて兄上のいる離れに向かった。

 侍女たちが「今日は落ち着いておられます」と言うので中に入ると、兄上は絵筆を手にキャンバスに向かっていた。


「兄上、セルシャンデ様。ノヴァです」

「うん……ちょっと待ってくれるかな。もう少し描いたらそっちに行くから」


 兄上は窓から見える湖を描いていた。

 私は兄上の邪魔をしないように椅子に座って待った。

 後ろで束ねた髪が背中までかかっている。

 しばらく見ない間に、また伸びてしまったみたい。

 ご飯が食べられないのかしら、また何だか痩せたみたい。

 でも、今日は穏やかな顔をしている。

 絵に集中している兄上の顔を見て、私はすごく安心した。

 子供の頃から知っている優しい兄上の顔だった。


「よし。今日はここまでだな。どうだい、ノヴァ。きれいに描けているだろう」

「ええ。とてもお上手だわ」

「母上に贈ろうと思っているんだ。寒い北州のお城に、一枚くらいこういう絵があってもいいだろうからね」


 キャンバスから光があふれ出る様な、明るい湖の絵。

 その上にたくさんの鳥が集まり、楽しそうにしている。

 私が大好きな兄上の絵。

 きっと母上も喜ぶだろう。

 そう思って、嬉しくなった。


 兄上、セルシャンデ皇子はつい最近まで「セルシャンデ皇太子」と呼ばれていた。

 父上の跡を継ぐのは私じゃなくて、兄上だったのだ。

 でも、それはもうなくなってしまった。

 自分の体調が戻る見込みはない。

 そう悟った兄上が、自ら皇太子を辞めると宣言。

 私がその代わりになったのだ。


「仕事、大変かい?」

「いいえ兄上、みんなが助けてくださるし、ミガトも傍にいてくれるから」

「そうか。僕も、もう少し体がどうにかなるようになったらノヴァを手伝ってやりたいんだけどね。昼は何とか動けるけど……朝と夜はまだ自分をコントロールできないことがあるんだ」


 自分をコントロールできない。

 その言葉を聞いて、私はドキッとした。

 まだ、兄上は治っていない。

 今も父上を怪我させたときのように、あんな風になってしまうんだ。

 私の顔が曇ったのが分かったみたいで、兄上は「ごめんね」と口にした。


「どうしてこんな風になってしまったのか……僕には分からない。森に入った時の記憶も何だか曖昧なんだ。あの時僕は……何を見たんだろう」

「無理に思い出さないでください、兄上。思い詰めてしまうのが一番よくないってお医者様が言っていたでしょう?」

「そうだね。じゃあ、楽しい話でもしようか」


 兄上の気がまぎれるように、私はミガトに魚を獲ってもらった話をした。

 宮殿の湖に紛れ込んだ珍しい魚の話。

 ミガトの話を聞くと、兄上も興味を持ったみたいだった。


「そんな事になっていたのか。湖を何度も散歩してるのに、気づかなかったよ」

「兄上、お外に出られるの?」

「宮殿の敷地内ならね。ねぇ、ノヴァ、僕もミガトに魚を見せてもらいたいな」

「もちろんいいわ! ねぇミガト、これから湖に行きましょう!」

「かしこまりました、皇女。すぐに準備を致します」


 ミガトはまた服を脱いで、湖に潜った。

 兄上はボートを出す桟橋の上に立ってミガトが魚を獲るのを楽しそうに見ていた。

 私は兄上とミガトが仲良くなってほしかったので、少し離れた場所で見ていた。

 柔らかい黒髪が揺れ、明るい笑い声が響く。

 楽しそうにしている兄上を見て、私は嬉しくなった。

 珍しい魚の絵が描きたかったみたい。

 兄上は大きくて大人になった魚を一匹、ミガトに獲ってもらっていた。


「今度は、静物画に挑戦してみようと思うんだ。この魚は描き甲斐があるよ」

「兄上、描けたら見せてくださいね」

「もちろん。時間がかかるかもしれないけど、ノヴァが喜んでくれるように頑張るよ」


 きっと、いつかは完全に治ってくれる。

 私は少しずつ元気になってきている兄上を見てそう思った。

 でも、兄上が部屋に戻った後でミガトを見たら何だか暗い顔をしていた。

 何かあったのかしら。

 ミガトは私が聞いても、あんまりよく教えてくれなかった。


「皇女にご心配をおかけするようなことはありません。ただ……セルシャンデ皇子にお会いするには今日が初めてでしたから、少し緊張してしまいました」

「それだけ?」

「ええ。それだけです、皇女」


 私に話してはいけない事を兄上がミガトに言ったのかもしれない。

 何だかスッキリしないまま、私はそれ以上ミガトを問い詰めずにおいた。

 

 翌日は何だか朝から忙しかった。

 ダーガーン族の捜索状況の報告が立て続けに入ってきて、さらに謁見は四件あった。

 でも、ミガトの仲間が続々と発見されたのはいい事だった。

 ミガトの奥さんも南州の港町で発見されて、ミイレン大佐の船に保護されたみたい。

 その報告を聞いたミガトは涙を流していた。


「親切な人に助けられて、お店で働いていたんですってね。見つかってよかったわ」

「本当に……皇女と皇帝陛下のお力があってこそです。なんと御礼申し上げたらよいか」

「うふふ。それはいいのよ、これからお仕事で返してもらうもの」


 私がそう言うと、ミガトは複雑な顔をしていた。

 奥さんが帰ってきたら、一緒に宮殿に住んだらいい。

 お惣菜のお店で働いてたのなら、厨房の人たちが喜んで迎えてくれるだろうし、私の傍で仕事したいならいくらでもやることがある。

 ミイレン大佐はすぐにミガトの奥さんを送ってくれると言った。

 私も会うのが楽しみだというと、ミガトは嬉しそうな顔をした。


「妻は帝都に憧れていました。皇女にお会いできれば、きっと一生の思い出になるでしょう」

「私、ダーガーン族の女の人に会うのは初めてだわ。とっても美しい人たちなんですってね」

「身内の贔屓目かもしれませんが、メリーエルダは一族で一番の美人です」

「まぁ、ごちそうさまね」


 ようやく仕事が落ち着いたのは、いつもならお茶の時間になる頃だった。

 私は気分転換のため、湖が良く見えるテラスで昼食をとることにした。

 心地いい風が吹いていて、とてもいい日だった。


「お父様が帰ってきたらお休みをもらって、花の海に旅行するのもいいわね。ミガト、案内してくれる?」

「もちろんです、ノヴァ様」

「できれば兄上もお連れしたいわ。きっと気分が変わって体調も良くなるはずよ」


 兄上の名前を出すと、ほんの少しだけれどミガトの顔が曇るのが分かった。

 やっぱり、何か言われたんだわ。

 私は心配になってミガトにもう一度聞いてみる事にした。


「ねぇミガト、絶対に兄上には言わないから教えてくれない? セルシャンデの兄上はあなたに何を言ったの?」

「ノヴァ様……そのような」

「兄上はご病気なの。ご自分でもよく分からないままに変な事を言ったりすることもあるわ。ねぇ、お医者様に言わなければいけない事かもしれないから教えてちょうだい」


 人間の脳みそは不思議なものなのだとお医者様は言っていた。

 兄上が大暴れした日、私はとてもショックを受けてしまった。

 でも、あれは兄上がしたくてしたことではなかった。

 何が何だか分からなくなって、暴れたり、父上に暴力を振るってしまっただけなのだ。

 脳みそがダメージを受ければ、本当の人格はどこかへ行ってしまう。

 だから、全部病気のせいだと思って、兄上を責めないであげなさい。

 お医者様のその言葉に、私はようやく気持ちが落ち着いた。


 その話をすると、ミガトは深く頷いた。

 やっぱり、兄上はこっそりミガトに何か言っていたのだ。

 周りに他の人がいないのを確認し、ミガトはこう言った。


「皇子は……ご自分が危険な身体になってしまったのだとおっしゃいました」

「危険な身体?」

「御家族や周りの人々に話せば怖がらせてしまうから誰にも言っていないけれど、それは……ご自分ではない『誰か』がセルシャンデ皇子の身体を乗っ取ったからだ、と」


 兄上は私が聞いていないところでミガトにそんな話をしていた。

 危険な身体。

 自分の身体を乗っ取った誰か。

 ミガトもそれを聞いたとき、兄上が病気のせいで変な事を言っているんだと思ったらしい。

 でも兄上は、ミガトにとても「変な事」と聞き流せないような恐ろしい事を言った。


「セルシャンデ皇子は……ご自分がもし何か変な事をしでかしたら、私に皇子のお命を絶って欲しいとおっしゃったのです」

「何ですって……?」

「特に、ノヴァ皇女、あなたの身を守るために、私がいずれセルシャンデ皇子を殺さねばならなくなると」


 ミガトは辛そうな表情でそう言った。

 自分を、殺して欲しい。

 私は兄上がそんな事を考えていたのだと知ってショックだった。

 きっとこれも、病気のせいなのだ。

 兄上はまだ苦しんでいて、そのせいでミガトにそんな事を言ったのだ。

 私はすぐにお医者様を呼ばなければならないと思った。


「お薬が合わないのかもしれないわ。ミガト、すぐにお医者様を呼びに行かせて。この事を話さなければ」

「かしこまりました」

「それから、この話は――――」


 父上や母上に聞かせてはだめ。

 もちろん、他の二人の兄上や姉上たちにも。

 私はそう言おうと口を開いた。


 その時だった。

 ガサッという音がした気がして、私は振り返った。

 その途端何か黒いものが私に多い被さった

 バルコニーの柵を越えて私に飛びかかったもの。

 私は何が何だか分からないまま大理石のタイルの上に押し倒された。


「いやぁああっ!」

「ノヴァ皇女!」

「皇女が!」


 ミガトや周りにいた侍女たちが叫んだ。

 刺客に襲われたのかもしれない。

 私はそう思った。


 皇女である私を殺そうとしたり、拉致しようとする者はたくさんいる。

 だから、今までにも不審者が宮殿に侵入しようとしたり、食事に毒を入れられそうになったりしたこともある。

 でも、実際にこうやって襲いかかられるのは初めてだった。

 宮殿に警備は厳重。

 中庭に入ってくるだけでさえ、百人の兵士たちの監視をくぐらなければならない。

 一体、誰がどうやって……。

 必死で体をよじり、私は犯人の顔を確かめようとした。

 そのとき、ミガトがこう叫んだ。


「おやめください、セルシャンデ皇子!」


 ミガトが叫んだ、その名前。

 私は信じられなかった。

 でも、私に覆い被さる人物の服についた絵の具の匂いや、その手の感触は……。

 ミガトが腰に差していた銃を抜いて構える音がした。

 どうしてなの、兄上。

 顔をタイルの上に押し付けられたまま、私は心の中で叫んだ。


「皇女をお放しください、セルシャンデ皇子。でなければ私は……あなたを撃たねばなりません」

「撃ちたければ撃てばいい。この私を、君に殺せるのならな」

「……何を!」


 耳元に響いた声。

 低く落ち着いたその声は、確かに聞き覚えのある兄上の声音だった。

 でも、違った。

 この声は兄上じゃない。

 強い力で押しつけられながら私は必死でもがいた。


「お覚悟!」


 ミガトの叫び声と銃声。

 私はすごい力で引き揚げられ、身体が思い切り宙を舞った。

 侍女たちの絹を裂くような叫びが聞こえた。

 この時、私は初めて犯人の顔を見た。

 それは紛れもなく兄上。

 でも、私の心は「違う」と叫んでいた。


「射撃の腕は悪そうだね、ミガト君。それじゃあ皇女に当たってしまうよ?」

「黙れ!」

「手が震えているじゃないか。いけないねぇ。射撃ってのは、こうやるんだよ」


 私を拘束している腕が片方外れた。

 バルコニーの向こうに見えたのは駆け付けた警備の兵たち。

 視界に、男が構えた短銃が見えた。

 セルシャンデの兄上が使う護身用の銃。

 その引き金が、兵たちに向けて引かれた。


「やめてぇえええ!!」


 私の叫びは銃声にかき消された。

 真っ白なタイルに飛び散る紅い鮮血。

 何が起きたか分からぬ顔のまま倒れ込む兵士たち。

 ミガトは倒れたテーブルを盾に辛うじて避けていた。

 私を拘束した男は狂ったような声で笑っていた。

 私が大好きな、兄上のあの声で。


「どうだいどうだい! こんなチャチな銃でもこの通りさ! 道具ってのは使いようなんだよ!」

「放しなさい、この無礼者!」

「おや、ノヴァ皇女。あなたはご自分の兄の顔をお忘れかな?」


 にやりと笑うその顔を私は思い切り睨んでやった。

 セルシャンデの兄上はこんな事はしない。

 こんな事は病気の範疇を越えている。

 銃声は四発聞こえた。

 まだ、きっと銃弾はある。

 私はミガトに向かって叫んだ。


「ミガト! 一旦引きなさい! これ以上犠牲者を出してはダメ!」

「お、皇女!」

「この男には私に危害を加える気はないわ! 銃を下ろすのよ!」


 倒れた兵たちと、流れ続ける鮮血。

 その惨状を前に、私は決断をしなければならなかった。

 ミガトや周りの者たちは私のため、戦おうとしている。

 でも、私だって彼らを守る義務があるのだ。

 この男は狂っているけれど、今すぐ私を殺そうとは考えてはいない。

 ならば、一旦言うとおりにしたほうがいい。

 私はそう叫んだ。


「今のあなた達ではダメ! 一旦引いて、この男の……!」

「そのご命令は聞けません!」

「!」


 ミガトの身体が、倒れたテーブルの向こうから飛び出す。

 男が銃を構える。

 地面を蹴ったミガトが男に跳びかかった。

 ああ、ダメ――――

 銃声が耳元で響いた。

 赤い血が飛び散った。


「ミガト……!」


 銃声は二発聞こえた。

 ミガトの身体が反り返り、仰向けに倒れる。

 私は男に抱きかかえられ、そのまま連れ去られた。

 


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