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<挿話> メリーエルダ

(メリーエルダ語り)


「塩は入れたの?」

「はい、カリファさん」

「じゃあ、三十秒茹でて、ザルに上げて。茹ですぎないようにね」


 鍋の蓋を開けると、暑い蒸気が厨房に広がった。

 額を汗が落ちる。

 沸き立った湯の中に花を入れると、鍋の中は一瞬静かになる。

 灰汁をとった方が良いだろうか。

 そう思っていると、横からスッと手が伸びてきた。


「はい、ザル。上げたらすぐに冷水にさらして冷やすのよ」

「ありがとうございます」

「フラワーケルプの花に茹ですぎは禁物よ。ほら、もう上げて。素早く!」


 調理員のリーダーであるカリファレーナはそう言うと、カラス色の蝶の羽を揺らしながら、また揚げ物の鍋の方に戻っていった。

 流しにザルを置き、一気に茹であがった花を上げる。

 ふかした芋によく似た甘い香りがして、思わず朝からごまかし通している腹の虫が疼き出す。

 冷水にさらすと、白かった花は透き通った緑色を帯びた。

 どうやら茹で加減はうまくいったらしい。

 私は顔を上げ、棚の向こうで粉の袋を開ける太った女に声をかけた。


「テッテさん、鶏肉をお願いします」

「向こうの作業台の上にあるよ。ドレッシングは保冷庫の中」

「はい。ありがとうございます」


 店の外をちらりと見ると、いつも来る近所の奥さんがこちらを覗いていた。

 大通りの角に住むクゥオールの大家族のお母さんで、この惣菜店のお得意様。

 私が小さく頭を下げると、向こうも分かったらしくにっこりする。

 そして、手で「早く」というような仕草をしておどけて見せた。


 この時期限定の「フラワーケルプのサラダ」は人気商品で、昼までには売れてしまう。

 細かくちぎった蒸し鶏を水を切ったフラワーケルプに和え、カットした数種類のフルーツを入れて軽く混ぜる。

 そこに砕いたナッツを加え、店頭用のトレーに移してドレッシングをまんべんなくかける。

 バックヤードのドアを開けて店に出ると、揚げ物や煮物などの惣菜は既に出ていた。

 結局今日も私のサラダが一番最後になってしまったらしい。


 半年も経つのに、この上達の遅さはどうしたものだろうか。

 私がため息をついていると、後ろから誰かに背中を突かれた。

 振り返ると、トレーいっぱいのキッシュを持ったカリファレーナが笑っていた。

 どうやらこちらが考えていることが分かったらしい。

 いつも私の頭の中はリーダーにバレバレだ。


「最初の頃よりは早くなってるわよ。半年経って見違えたわ」

「そうですか? なんか、全然できるようにならなくて落ち込みます」

「落ち込んでる暇があったらどんどん次の仕事にとりかかりなさい。お客さんは待ってくれないんだから」


 カリファレーナというこの姉御肌のリーダーはこの半年間、新入りの私を厳しく鍛えてきた。

 まだ若いが頭の回転が速く、ほとんどが自分より年上である調理員たちまとめて日々の「戦い」の指揮を取っている。

 私は彼女の事を時々、心の中で「指揮官」と呼んでいる。

 リーダーよりそっちの方が似合うからだ。


 南州最大の港を有するこの海辺の町は、朝から晩までたくさんの人が行きかう。

 店には開店と同時に朝食を買い求める船乗りたちや、人気商品を目当ての主婦たちが押し寄せ、出来立ての商品が飛ぶように売れてゆく。

 ロスを出さないために、商品がなくなればすぐに追加で作らなければならない。

 そうなるともう、調理場は「戦場」と化すのだ。

 開店前の分を出しても、私には一息ついている暇はなかった。


「今日はね、軍の船が港にいるらしいのよ。だから、昼のお弁当を多めに作りたいの。メリーエルダ、さっきのサラダはもう一回ね」

「分かりました。一キロでいいですか?」

「二キロないと足りないわ。単品で出す分のサラダも一緒に追加で作らないと。売れ残るくらいじゃないとダメだもの」

「分かりました」

「終わったら夕方の分の豆も茹でてね。さぁ、もう一ラウンドいくわよ!」


 忙しい厨房の仕事をカリファレーナはスポーツの試合に例える。

「料理」ではなく、「スポーツ」。

 そう思わないと、身体が動かずに時間内に仕事がこなせないのだ、と。

 初めの頃、私の仕事は今と比べて酷いものだった。

 カリファレーナにいくら叱られても、全く周りについて行ける気配がなかった。

 マトモに料理を作っている時間よりどうしていいか分からずにパニックになっている時間の方が長かったくらいである。

 だが、周りに助けられ、どうにかこうにか最近は戦力になってきた気配がある。

 そして、私自身も仕事を楽しいと思えるようになってきていた。


「カリファ、開店するよ」

「はぁい、店長」

「じゃあ今日もよろしくね、みんな」


 開店五分前。

 店長が調理場の気合を入れなおす。

 私は裏の倉庫にフラワーケルプの花をもう一度取りに行った。


 春から夏にかけて旬を迎えるこの花は、この地域のものではないらしい。

 遠い海に花開き、海流に乗って新鮮なままこの辺りの海域まで流れてくるのだ。

 甘い潮の香りを含んだこの花の匂いを嗅ぐと、私はいつもは何故か泣きたくなった。


 懐かしくて、胸が締め付けられる感覚。

 だが、それがなぜなのか私には分からない。

 実は私には、半年以前の記憶がないのだ。


「花、まだある?」


 廊下にしゃがみ込んで重さを量っていると、カリファレーナが顔を出した。

 揚げ物に使う芋を取りに来たらしい。

 花はたくさん残っているように見えた。

 だが、重さを測ってみると少し足りなかった。


「ひと握り分くらい足りないです。どうしたらいいですか?」

「副店長に言って買ってきてもらうしかないわね。さっき外にいたからお願いしてきてくれる?」


 副店長、という言葉を聞いてメ私は一瞬にして憂鬱になった。

 いつも機嫌の悪い副店長のマカライトはセピア族の若い男。

 店に勤め始めてからなぜかずっと私の事を嫌っていて、何かと嫌味を言ってくるのだ。

 花が足りない、と話すと案の定彼は言い顔をしなかった。


「花だけのためにわざわざ買い出しかよ。この忙しいのに」

「人気商品なんで、ないとチャンスロスが出ます。今日は特にお客さん多いですし」

「お客さん、ねぇ」


 マカライトはあからさまに舌打ちをして見せた。

 その丸い額には若いのにもう皺が寄っている。

 事務所の椅子に座り込み、彼はなかなか腰を上げようとしなかった。

 他の調理員の頼み事はすぐ聞くのに、私の時だけこうやって渋る。

 調理場が忙しく、私が一分でも早く戻りたいと思っているのを知っていてのこの行動。

 いつものことながら、頭にくる態度だった。


 カリファレーナを呼んできて代わりに話してもらったほうが良いだろうか。

 そう思っていると、やや頭の薄いルーデンスの男が事務所に入ってきた。

 店長だ。

 私はほっとした。


「メリーエルダ、どうしたの? 何かあった?」

「あの、フラワーケルプが足りなくて副店長にお願いしてたんです」

「ありゃりゃ、それは大変だ」


 店長は店の方をちらりと見た。

 店の前に並んで待っていた客たちが一気に中に入っている。

 サラダのコーナーが特に大変なことになっていた。


「開店してからすごい勢いで売れてるんだよ。これは急がないとお客さん怒らせちゃうなあ」

「分かりましたよ。すぐに買いに行きます」

「頼むよ、マカライト。ついでに赤トウモロコシの粉十キロね」


 上司に促され、マカライトはしぶしぶ事務所から出て行った。

 その背中を見て、店長はどうしたものかと肩をすくめて見せた。

 店長もマカライトが私に辛く当たるのをよく知っているのだ。


「普段はああいう人じゃないんだけどね。どうもまだ、君を受け入れられないらしい」

「セピア族の方は……やっぱり私が嫌なんでしょうか」

「うーん」


 店長は首をかしげた。

 彼は言わないが、多分、マカライトは陰で山ほど店長に私の陰口を言っている事だろう。

 この街に来てから、私は何度も酷い目に遭っている。


「類人種」という事で道を歩けばじろじろ見られ、時には酷い言葉を浴びせられる。

 店で買い物をしようとすると断られる事も少なくない。

 酔っ払いに棒を持って追いかけられた事もあった。

 同居人のカリファレーナがここの仕事を紹介してくれなければ野垂れ死にしていたかもしれない。

 いや、もっと酷い死に方もあったかもしれない。

 私は本気でそう思っている。

 でも、何故そんな目に遭うのかという正確な理由を、正直なところ私はまだ理解できていない。


 自分はダーガーン族の娘。

 その事実が、まだよく分かっていないのだ。


「僕は素敵だと思うけどね、君の事」


 店長はバックヤードを歩きながら言った。


「その綺麗な色をした髪も、頭の不思議な触手もね。海で生きてる人、って感じで」

「ありがとうございます」

「よく働くし、真面目だし。まぁ、マカライトとはうまくやってくれよ。何かあったら相談に乗るからさ」


 薄い青緑色の髪。

 長く伸びた赤いリボンのような細長い二本の触手。

 これは、遠い花の海に生きるダーガーン族の女の証なのだとカリファレーナが教えてくれた。


 今から半年前。

 カリファレーナ私を見つけたとき、私は気を失って海辺の岩場でぐったりしていたという。

 この町から出た事のないカリファレーナはダーガーン族を見たのは初めてで、病院に担ぎ込んで初めて私が何者か分かったらしい。


 私は海の中で頭を打ったのか、医者によれば記憶に大きな障害が出ていることだった。

 質問されて答えられたのは名前と年齢くらいのもの。

 自分が何者かという事に関しては曖昧だった。


「これがアンタの住所か何かだったら楽なのにねえ」


 カリファレーナは時々、私の左腕にあるものを突いて笑う。

 私の腕にはめられている赤い珊瑚の腕輪。

 そこには「J‐2887」という、奇妙な文字が刻まれている。

 高級な宝石産後を加工して作ったにしてはダサいデザインだとカリファレーナは言う。

 普通ならもっときれいな彫刻か何かがしてあっていいはずだ、と。


 しかし、当然その意味など私は覚えていなかった。

 カリファレーナは都会に出た兄妹たちにも言っていろいろ調べさせてくれた。

だが、とうとう何なのかは今も分かっていない。


「まぁいいわ。わざわざそんな高価なものに彫ってあるんだから。いつか分かるだろうしね」


 夫と数年前に離婚し、ずっと一人暮らしだったというカリファレーナ。

 彼女は「記憶が戻るまで」という約束で私を家に置いてくれることになった。

 だから、彼女と私は一日中一緒だ。


「副店長は行ってくれたの?」

「はい、嫌々でしたが」

「あいつは元々嫌な奴なんだよねぇ。ろくすっぽ仕事もできないくせに偉そうにしてさ。何言われても気にしちゃだめだよ」


 カリファレーナはかなり口が悪い。

 だが、それは彼女が良きリーダーの証だと職場の仲間が言っていた。

 言う事を聞かないアルバイトや、多くが彼女より年上の調理員を纏めて仕事をこなすには必要なスキルなのだのだ、と。

 一緒に暮らすうち、私にもその事がよく分かった。

 乱暴な言葉の中にある優しさと温かさ。

 記憶を失った私には、カリファレーナに見つけてもらえた事は何よりも幸運だった。

 自分はここにいていいんだ。

 そう感じさせてくれる安心感がカリファレーナの傍にはあった。


「メリーエルダ! お弁当用のサラダはまだ?」

「あと一分待ってください、すぐ茹であがりますから!」

「急いで! 軍人さんたちが店の外にいるの。多分、すぐに大勢で買いに来るわ!」


 カリファレーナがそわそわと厨房の中を歩き回り始めた。

 小窓から外を除くと、普段は見ない制服を着た体格の良い男たちが大勢歩いているのが見えた。

 肩には南州軍の紋章。

 私は「これからもっと忙しくなるな」と思った。


 軍の船が港にやってくると、周辺の店は急に客が増える。

 船の食堂に飽きた軍人たちが昼時に街へ繰り出すのだ。

 多くはレストランに吸い込まれていく。

 だが、船に戻って仕事がある者や外で食事をしたい者たちはみんなこの店にやってくる。

 周囲には他に食事をテイクアウトできる店がないのだ。


 調理員にとっては正直、忙しさを増幅させる嫌な客。

 だが、店にとっては一人勝ちできるチャンス。

 この機会を逃してはならない。

 カリファレーナが再び厨房内に気合を入れなおした。


「午後までに五百食! そうすれば去年のフェスティバルの時の売り上げ記録を更新できるわ! みんなでボーナスを勝ち取るのよ!」


 売り上げが良ければ給料に反映されるとカリファレーナは言う。

 事実、周辺でイベントがあったり、儲かった時にはささやかではあるが臨時のボーナスがあるらしい。

 しかし、そんなに客が来るのだろうか。

 私は若干疑いながら花を茹で、サラダを作り続けた。

 すると三〇分程して、マカライトが厨房内に走り込んできた。


「カリファ! 軍から弁当の注文だ! 一番でかいサイズを午前中に五五〇! 午後から八〇〇だ!」

「嘘!」


 カリファレーナが悲鳴をあげた。

 厨房内がざわめく。

 前代未聞の注文数だった。


「午前中は何とかなっても、午後から八〇〇なんて食材が足りないわ! あとこの人数じゃ無理よ!」

「店長とオレで何とかする! 午後のメンバーと休みの連中も呼ぶからとりあえず作れ!」


 マカライトは追加で買ってきた食材の袋と注文シートを調理台の上に叩きつけ、事務所の方に走って行ってしまった。

 カリファレーナは置いて行かれたフラワーケルプの花を手に、暫く考え込んでいた。

 だがすぐに顔を上げると、指示を待つ調理員たちを見回して言った。


「やるわよみんな! 戦闘開始!」


 そのあとはもう、ただただ必死に働いた。

 本当なら休みだった者や、いつもなら午前中は来ない調理員たちも応援に駆け付け、制服にも着替えず普段着のまま弁当の食材を詰める手伝いに回った。

 忙しさに慣れていないアルバイトがもたつき、それをカリファレーナが怒鳴りつけ、叱り飛ばしてハッパをかける。

 いつも以上に、調理場の空気は「戦場」だった。


「あんた、メリーエルダさんだったっけ」


 私が五回目の花を茹でていると、いつもは週末にしか来ないという翼のないピスカ族の男が声をかけてきた。

 大学生で、アルバイトのメンバーらしい。

 私の知らない調理員だった。


「さっき外にゴミを捨てに行ったとき、軍の奴らがダーガーンがどうのこうのって話してたぜ」

「え?」

「あんた、ここでサラダ作ってるより、あいつらと話して来た方がいいんじゃないのかい?」


 軍人たちはこの街で人を探しているようだったとアルバイト学生は言った。

 もしかして、自分が彼らの捜査対象なのではないだろうか。

 だが、私が何もせずに立っていると、カリファレーナがすかさず激を飛ばした。


「メリーエルダ! ぼーっとしてる暇はないの! さっさと手を動かして!」

「はい! すみません!」

「残りあとまだ半分以上あるのよ! 死ぬ気で集中しなさい!」


 注文された弁当を作りながら、さらに飛ぶように売れていく店の中の商品も追加しなければならない。

 今日の分が全部出来上がるまで、とても厨房から出られる雰囲気ではなかった。

 そしてあまりの忙しさに、私はいつの間にかアルバイトに言われた事など忘れてしまい、気づけば午後。

 調理員たちは昼の休憩も返上し、暗くなるまで弁当を作り続けた。

 そしてようやく仕事が終わった時にはもう皆がすっかり疲れ切っていた。


「ああ、もう今日はもう限界。頭がくらくらする。メリーエルダ、ちょっと肩を貸して、肩」

「大丈夫ですか?」

「無理よー、もう死んじゃうー」


 この忙しさは流石にきつ過ぎたらしい。

 カリファレーナは厨房の隅にうずくまってしまった。

 その様子を見た店長が、私にもう帰ってもいいと言った。


「片づけはオレと掃除の連中でやるよ。リーダー死にそうだから一緒に帰ってあげて」

「ありがとうございます。じゃあ、私たちはお先に失礼します」

「お疲れさん。気を付けて」


 外に出ると、周囲はもう人気もなく静かになっていた。

 空には大きな月が出ている。

 私はぐったりしているカリファレーナを気遣いながら海辺の道を家へと向かった。


 おぶって帰った方がいいか。

 そう言うと、カリファレーナは笑って悪態をついた。


「何言ってんだい。アンタみたいなひょろひょろにアタシがおんぶできるわけがないでしょ」

「そんな事ないですよ」

「あーあ。最近運動不足だからなぁ。昔はこの翅で一っ跳びしてどこへでも行けたのに、何か衰えちゃったなぁ」


 カリファレーナの黒い蝶の翅。

 彼女曰くかなり衰えていて、もう空を飛ぶ自身はないらしい。

 だが、その黒々とした艶はまだ健在で、大きな模様の部分を月の光に透かすと地面には虹色の光が踊った。

 私には、その翅のどこが悪いのかよく分からなかった。


「この黒はね、私のおばあちゃんから遺伝したの」


 カリファレーナはふん、と自慢げに鼻を鳴らした。


「アンタくらいの年の頃が一番だったかな。プロポーズの男たちが私の家に列を作ったんだから」

「そんな、まだカリファさん若いじゃないですか。羨ましいです、この翅。まるで宝石みたい」

「美しい翅はピスカ族の財産だよ。でもこの翅をね、あのバカ亭主は切っちゃったんだ」


 カリファレーナが前の夫と別れた理由。

 その原因は、翅の切断だった。

 彼は白く美しい翅を持っていたが、ある時手術してそれを落としてしまった。

 大きな蝶の翅は仕事をする際に邪魔になり、手入れも大変だというのが理由だ。

 カリファレーナには断りなしだった。

 激怒したカリファレーナと元夫は大喧嘩になり、ついに離婚してしまった。


「翅のないピスカになって何が楽しいのか、私には分からない。空も飛べない、身体も弱いどうしょもない人間になっちゃうしさ。あの人は私の為だとか言ったけど、仕事ばっかりが人生じゃないっていうのに。バカだよねぇ」

 

 カリファレーナは悲しげな眼で月を見上げた。

 メリーエルダの横顔に、私は彼女の飛んでいる姿を想像した。

 虹色に透ける黒い翅を広げ、月の光の中を飛んでいく今より少し若いカリファレーナ。

 その勝気な瞳が若い男たちを魅了し、生意気な台詞さえも彼女のよさを引き立てる。

 娘はやがて一人の男と恋に落ち、結ばれる――――。


「ねぇ、メリーエルダ」


 カリファレーナはふと漏らすように言った。


「アンタ、記憶も戻んないみたいだし、私の養女にならない?」

「カリファレーナさんの、養女に?」

「調べたんだけど、養子縁組するといろいろ都合がいいらしいの。私もう、結婚する気ないからさ。アンタの家族になるのも悪くないかなって」

「そんな事が、できるんですか?」

「私がアンタの母になるけどね。このままあの店で働いて、将来お嫁に行く気があるなら悪い話じゃないわよ?」

 

 私がいつか、誰かの妻になる。

 カリファレーナがそこまで考えてくれていた事を知って、私は胸が熱くなった。

 だが、いいのだろうか。

 そう思っていると、カリファレーナは道の向こうを指差した。


「何なら、あの家にみんなで住むのも悪くないじゃない? アンタの旦那さんと私と、そのうち生まれたら、アンタの子供たちも」


 海の見える小さな家。

 月明かりの中に浮かび上がるそのレンガ色の建物を見ながら、私は答えに困って俯いた。

 カリファレーナのことは好きだ。

 養女になんてならなくても、もう私は家族になったつもりで彼女の傍で過ごしている。

 いつか年老いたカリファレーナが寝たきりになっても、自分はきっと最後まで面倒をみられるだろう。


 でも、私の本当の居場所は――――。

 ダーガーン族の家族は、私を探していないだろうか。

 親や兄妹、もしかしたら夫や子供がいて、私を待っているのではないか。

 そう思うと、どうしたらいいのか分からなかった。

 自分の事が何も思い出せないまま、大事な事を決めてしまっていいのか……と。


「あれ? 誰かいない?」


 家の近くまで来ると、カリファレーナがふと立ち止まった。

 玄関の前に植えられた木の下に数人の人影が見える。

 道の方にいた一人がカリファレーナと私に気づいて手を振った。

 すぐ裏に住む地区長だった。


「カリファ、待ってたよ。今日は随分遅いじゃないか」

「店が忙しかったのよ。お客が山ほど注文を寄越してさ」

「実は、メリーエルダに用があるって人がうちに来てるんだ。疲れてるとこ悪いけど、すぐ来れる?」

「この子に?」

「ああ。軍の関係者らしいんだ。なんか偉そうな女の人だよ」


 軍、と聞いてカリファレーナは顔をしかめた。

 彼女はどういう理由か、実は軍人や役人が嫌いなのだ。

 店にいるときは客の悪口など言えないが、家ではもう、酷いものである。


「疲れてんだけど。今じゃなきゃダメ?」

「いや、でもうちで待ってんだよ」

「えー?」

「カリファさん、断っちゃだめですよ。何なら私一人で」

「分かった分かった。行くよ」


 カリファレーナは仕方ない、という様子で地区長について歩き出した。

 庭続きの砂利道を歩き、地区長の家に入る。

 開け放たれたデッキの窓からちらりと見えた横顔。

 切れ長の鋭い瞳、青白い肌。

 セピアの女だと察したカリファレーナが私を振り返った。


「私が話を聞いてくる。アンタはここにいな」


 セピア族はダーガーンを嫌う。

 カリファレーナは中にいる女が持ってきた話がよくないものだと思ったのだろう。

 私は一人、庭で待たされた。

 中で何の話をしているのか。

 見えるのはセピアの女の顔だけだった。

 だが、彼女が何か言った瞬間、中からカリファレーナの怒鳴り声が聞こえた

「あの子は関係ないよ! 何でメリーエルダがそんなこと言われなきゃならないんだ!」


 セピアの女が困った顔をした。

 彼女は立ち上がり、私の方を見た。

 こちらへやってくる。

 その前にカリファレーナが立ちはだかる。


「メリーエルダはアタシの家族だ! アンタ達なんかに連れて行かせないよ!」


 いったいどういう事なのだろうか。

 私はデッキの方へ近づいていった。

 セピアの女の声が聞こえてくる。

 低く落ち着いた声だった。


「誤解があるようですが、このままではメリーエルダさんは州法で裁かれる事になってしまいます。そうならないためには私たちと一緒に来ていただかなければなりません」

「あの子が何をしたっていうのよ!」

「何もしていません。しかし、法は法ですから」


 カリファレーナの喚き声にも怯まずに女は淡々と言い返す。

 自分に注がれる視線に、私は緊張を覚えた。

 女は静かにこう言った。


「メリーエルダさんには、我々と一緒に来ていただきます」


 一体、何なのだろう。

 額に汗が伝った。

 とにかく話を聞かなければ。

 私はデッキの階段に足をかけた。

 だが、それをカリファレーナが阻止した。


「帰るよ、メリーエルダ! こいつらのいう事なんか聞かなくていい!」

「カリファレーナさん、でも」

「大佐、任意での出頭要請は、拒否できると州法にはあります」


 若い男の声がした。

 セピアの女の後ろに青い翅を持ったピスカの男がいた。

 彼はこの状況に戸惑いを覚えているようだった。


「もし、メリーエルダさんが拒否なさるなら出頭保留にできますが……」

「一緒に行くわけないじゃないか!」


 カリファレーナが一方的に怒鳴った。


「従ったらこの子を拘束するんだろう! いわれもないのに犯罪者扱いなんてそんなバカな話があるか!」

「誤解があるようですから言いますがこれは」

「連れて行かせないよ!」


 闇夜にカリファレーナの声が響く。

 カリファレーナはセピアの女を睨みつけた。


「連れて行かせるもんか! この子は私の―――」


 その時だった。

 カリファレーナは胸を押さえ、急にその場に蹲った。

 ぜぇぜぇと荒い息をしている。

 私はとっさに彼女の傍へ駆け寄った。

 いつも元気な彼女がこんな風になってしまうなど、今までなかった事だ。

 一体どうしてしまったのか。

 私はパニックになって、カリファレーナの背中をさすった。


「カリファさん! カリファさんどうしたんですか!」

「大丈夫、大丈夫……だか……」

「カリファさん! しっかりしてください! カリファさん!」

「うっ……胸が……」


 がくりと倒れた体。

 セピアの女がそれを受け止めた。

 意識がない。

 私は頭の中が真っ白になった。

 

「いや……! カリファさん! カリファさん!」

「落ち着きなさい。揺すってはダメだ」


 私にそっとそう言うと、セピア族の女はカリファレーナの体を軽々と抱き上げた。

 そして、さっきのピスカ族の男に指示を出した。

 

「パレンキアーノ、すぐに軍医のところへ運ぶぞ」

「はっ!」

「すまない。私のせいで興奮させてしまったようだ」


 門の向こうに停められていた軍用のエアカーから二人の男がやってきてカリファレーナを連れて行った。

 私もセピア族の女と一緒に同じ車に乗り込んだ。

 車の中に備え付けられていた簡易の人工呼吸器を当てられ、カリファレーナは後部座席に寝かされた。

 元々心臓かどこかが弱かったのではないか。

 青い翅のピスカの男がそう言った。


「呼吸が落ち着いてきたから、軽い発作なのかもしれません。ですが、一度大きい病院で見てもらった方が良いでしょうね」

「ありがとう……ございます」

「全く。ミイレン大佐の説明がややこしすぎるからこんな事になったんですよ」


 ミイレン大佐、とはこのセピアの女の事らしい。

 部下にチクリと言われ、女は彼を睨み返した。


「相手の持病まで私には予測できん。第一、早合点したのはこの姉ちゃんだろう」

「あんな説明じゃ絶対誤解されますって!」

「黙れ。口が過ぎるぞ」

「あの……どういうことなんでしょうか」


 私は恐る恐る口を開いた。

 この件の主体は自分のはずなのに、話が全く分からないまま事態が進んでしまっている。

 とにかく、何が起きているのかを一から聞かなければならなかった。


「カリファレーナさんは何かを誤解してた、みたいですが……私、どこかに行かなければならないんでしょうか」

「君は、記憶を失くしているそうだな」


 女が私の方を見た。


「君は自分がダーガーン族であることすら覚えていなかった、とカリファレーナ殿は言っていた」

「は、はい」

「じゃあ、『ミガト』という男の名も聞き覚えがないか?」


 覚えていない。

 私は首を振った。

 その様子を見て、ミイレンが小さくため息をついた。


「順を追って話さなければならないな」


 私が連れて来られたのは港に停泊している中で一番大きな船だった。

 カリファレーナは担架に乗せられて医務室に運ばれ、私はミイレンの執務室に通された。

 船の中とは思えない、立派な部屋だった。


「君の家は、海のここにある」


 私が椅子に座ると、ミイレンは壁に貼られた地図を指差した。

 私のいる南州の港町からかなり離れた場所。

 海の一部が白く塗られていた。


「花の海、と呼ばれているエリアでね。君たちダーガーン族の故郷さ」

「花の……海」

「君はあの店でサラダを担当していたそうだね」

「はい」

「昼に弁当でいただいたよ。すごくおいしかった。あのフラワーケルプの花は、ここから海流に乗ってこう……南に流れて来るんだ」


 ミイレンの指が地図をなぞる。

 水底から高く高く茎を伸ばし、海面に花を咲かせるフラワーケルプ。

 海流は花を外洋に運び、流れ着いた先で食料として人々の口に入る。

 私もまた、その海流に流されてこの街にやってきた。

 ミイレンはそう説明した。


「津波が花の海を襲ったとき、君とミガト氏の結婚式が行われていたんだ」

「結婚式……私には、夫がいたのですか?」

「素晴らしい旦那様さ。彼を忘れてしまうなんて、悲しい事だな」


 私に憐れむような目を向け、ミイレンはため息をついた。

 この女はセピア族なのに、私が嫌いではないのだろうか。

 私は彼女の反応が不思議だった。

 記憶を失ってしまった私を、彼女は心から心配してくれているようだった。


「髪や衣装をフラワーケルプの花で飾ってね。それはそれは美しい花嫁だったそうだよ」


 カリファレーナが私を見つけたとき、私はボロボロになったドレスを身に纏っていたという。

 それが恐らく、私の花嫁衣裳だったのだ。

 しかし、そんな話をが私には全て自分とは関係ない他人のエピソードにしか感じる事が出来なかった。


「それで、どうして軍の方が私を探していたのですか?」

「皇帝陛下のご息女、ノヴァ皇女からのご命令で、我々は津波で流されたダーガーン族を保護しに来たんだ。我々南州軍や中央政府軍、そして他の各州軍が総力を挙げてこの海の全域で君たちの仲間を探している」

「そうなんですか」

「何だ、反応が薄いな。君の旦那様は命がけで君を探していたんだぞ?」

「すみません」


 やはり自分には帰る場所があるのだ。

 実感がまだ何もないまま、私は事態を受け入れるよう努めた。

 全く思い出せなくとも、帰らなければならない場所があって待っている人がいるなら、自分はそれに応えねばならないだろう。

 夫、と言われても私には正直誰の顔も思い浮かべる事が出来なかった。

 でもきっと、彼は私を思っていてくれるのだ。

 私のために怒ってくれた、カリファレーナと同じくらいには。


「それで……私の夫、ミガトさんはどこに?」

「ノヴァ皇女の傍にいる。できるだけ早く会わせてあげよう」

「ありがとうございます。でも」


 私は恐る恐る聞いた。


「ミイレン様は、どうして私に優しくしてくださるのですか?」

「どうしてって?」

「私は……ダーガーン族です」


 ミイレン達セピア族はダーガーン族を特に忌み嫌っている。

 あの副店長は典型的なそのタイプだった。

 しかし、ミイレンにはそんな素振りはない。

 もしかしたら仕事だから無理をしてくれているのではないか。

 私にはそんな余計な疑問がつい湧いてしまった。

 しかし、ミイレンは笑ってそれを否定した。


「セピア族を十把ひとからげにされると困るよ。私はそんなタイプじゃない」

「すみません……余計な事気にして」

「いいよ。それにね、実を言うと、私は君をどうも他人とは思えない理由があるのさ」


 ミイレンはそう言うと、上着を脱いでシャツの袖を捲って見せた。

 そこにあった銀の腕輪。

 表面には、「J‐2869」の文字が刻まれていた。


「これ、子供の頃からつけてる腕輪でね。君のと同じだろ?」

「ホントだ! 材質は違うけど、形はほとんど一緒です!」


 私のしている珊瑚の「J‐2887」と、銀色をしたミイレンの「J‐2869」。

 外してテーブルの上に置いてみると、ミイレンのものの方が大きかったが、ほとんど形は一緒だった。

 きっと、海の中では錆びてしまうために私の腕輪は珊瑚でできているのだろう。

 ミイレンはそう言った。


「意味は分からないんだけど、私の家には長女がこの数字を受け継ぐ伝統があるらしい。君のもそうじゃないのかな」

「そうかも……なんだかビックリです」

「私もだよ。これで分かったろう。私は君の味方だ。安心していい」


 私がこの腕輪をしていることを、ミイレンは私を知るダーガーン族の者から聞いたという。

 この腕輪が、私がメリーエルダという娘であることを示している、と。

 その人物は私が早く夫のミガトに会えるよう、ミイレンに泣いて頼んだとミイレンは言っていた。


 まだ思い出すことができない、私の夫。

 ミガトは理由があって一族を離れ、皇帝陛下のいる宮殿で第三皇女のノヴァの護衛をしているらしい。

 ダーガーン族の一族は半年前に会った大津波で流され、私を含む多くの者が行方不明になった。

 その捜索を依頼すべくミガトは帝都に行き、皇女ノヴァに直訴。

 中央政府軍及び、南州軍、そして花の海の属する東州軍が動くことになったのだ。

 本来は陸軍に所属するミイレンも、ミガトについて皇女に謁見した流れでそのまま捜索に参加しているとの事だった。


「ウチの州は陸海空の仕事の境がくっきりしてなくてね。私も何故か、船ばっかり乗ってる。他の州の軍関係者に言うと不思議がられるよ」

「それで……私も見つけてくださったんですね。ありがとうございます」

「うん。ちょっとばかし職権濫用なんだけどね」


 ミイレンはそう言うと、奥でお茶を煎れているピスカ族の男を振り返った。

 男はおどけた顔で笑っていた。

 彼はミイレンの秘書らしい。

 パレンキアーノと名乗っていた。


「大佐もお忙しいのに、プラジアーナさんやノヴァ皇女との約束の方が仕事より大事みたいですね」

「馬鹿者。今は休憩時間だろうが」

「はいはい」

「あの……約束とは?」

「ああ、すまん。実はね、私達のこの腕輪なんだけど、似たようなものを持っている人があと二人いるんだよ」


 一人は、なんと例のノヴァ皇女。

 もう一人は、ピスカ族のプラジアーナという娘。

 いずれも母親から代々受け継いだ腕輪を持っているらしい。

 そして、その腕輪には「J‐」の文字があるという。

 ミイレンは軍の仕事をしながら、その腕輪の謎を探っているのだと話した。


「皇女もこの事に興味を持っておられてね。だからちょっと、他のダーガーン族とは別に君と面談させてもらったんだ」

「そうでしたか……」

「だけどやっぱり、君は疲れてるみたいだね。いきなりいろいろ話してすまなかった。今夜はもう休んでくれ」

「はい。いろいろ、ありがとうございます」

「ああ、そうだ。それと――――」


 ミイレンの部屋を出ると、もうかなり遅い時間になっていた。

 その夜、私は船の中に泊まるように言われた。

 倒れてしまったカリファレーナが夜中まで目を覚まさなかったためである。

 しかも、意識を取り戻した彼女はすぐに帰れる状態ではなかった。

 長年無理に無理を重ねてきた身体。

 軍医はそこから次々に悪いところを発見した。


「医者を紹介するから、デカい病院で頭のてっぺんからつま先まで全部一回検査しなさいって。まったく、本当のこと言ってんのかねぇ。どうも軍絡みの連中は信用できないよ」


 ベッドに伏したまま、カリファレーナは精いっぱい悪態をついて見せた。

 だが、医師の言葉には少なからぬショックを受けてしまったらしい。

 その声には元気がなかった。


「働きすぎなんですよ。この機会に、ゆっくり休んでください」

「私が休んだら、店はどうなるのよ」

「そんな事言ってるから倒れるんです。全部副店長に押し付ければいいじゃないですか」

「そうね。あいつに働かせればいいのか」


 カリファレーナはマカライトの名前を出すといつも通りの顔で笑った。

 きっと、副店長は今頃くしゃみをしているだろう。

 めいっぱい店長にこき使われればいい。

 そう言って、二人で大笑いした。

 少し元気が出てくると、カリファレーナはミイレンの事を私に聞いてきた。


「メリーエルダ。アンタ、あの女軍人に何言われたの?」

「私の……前の仕事の事を思い出して欲しいって」

「仕事?」

「軍の人たちは、私の事をいろいろ調べて、知ってるみたいなんです」


 部屋を出る前に、ミイレンは私に自分がダーガーン族の中で何をしていたかを思い出して欲しいと言った。

 私が困っていると、ミイレンはあるものを彼女に手渡した。

 それは、大きな貝殻を削って作られた手のひらに載るくらいの丸い鏡だった。

 分厚い二枚貝の外側に彫刻を施し、真珠層の光る内側を鏡面として光らせた鏡。

 磨き上げられた真珠光沢部は虹色に揺らぎ、人の顔は映らない。


 ダーガーン族から預かって来たものの、ミイレンにはそれが何なのかは分からなかったらしい。

 だが、何故か私にはそれが鏡だと分かった。

 巫女やシャーマンと呼ばれる者たちが用いる呪具としての「鏡」なのだと。


「それで、アンタは言うとおりにできそうなの?」


 カリファレーナは顔を私の方に向けた。


「半年たっても記憶が戻らなかったんだよ? さぁ思い出せって言われたってどうにかできるものじゃないのに」

「……分かりません」

「無理なら無理ってハッキリ言いな。こっちにはこっちの都合がある。バカ正直に言う事を聞くことなんかないよ」


 私は頷いた。

 カリファレーナは私がミイレン達に無理をさせられているのではないかと心配しているのだ。

 ミイレンは決して威圧的な態度はとらなかった。

 私の事を思っていてくれるのがよく分かった。


 しかし、それでも軍や国という存在を前に、一般人である私は否応なく緊張を強いられる。

 ましてや自分は類人種という弱い立場。

 カリファレーナが自分の味方でいてくれるのは何よりも心強かった。

 だが、カリファレーナのその言葉もまた、自分のためを思って言ってくれているだけのものではないように思えた。

 彼女は私が記憶を取り戻すのを望んでいない。

 私がダーガーン族のもとへ帰ってしまうのを嫌がっているのだ。


「明日、起きられるようになったら一緒に帰りましょう」


 私はカリファレーナの手を取り、そっと言葉をかけた。

 自分を残してどこかへ行ったりしない。

 今はそう思っていて欲しかった。


「何も言わずに仕事を休んじゃったら、みんなが泣いちゃいます。私が明日店に連絡しますから、カリファさんの体調の事も含めて店長にこれからの事を相談しましょう。ね?」


 私にそう言われ、カリファレーナは安心したようだった。

 寝息を立て始めた彼女を部屋に残し、私はそっと船のデッキに出た。

 風のない夜で、海は静かに凪いでいる。

 大きな三日月が海面に映り、ゆらゆらと水平線を照らす。

 ダーガーン族の暮らす「花の海」はあの海の向こうにある。

 そこに、自分の家族や愛する人たちがいる。


 私はミイレンに渡された貝の鏡を取り出し、月の光に翳してみた。

 自分は巫女か、それとも呪術師だったのか。

 思い出そうとしても、記憶の底が靄〈もや〉になっていて捕らえられない。

 私はもどかしくてならなかった。

 このままでいても、自分はカリファレーナや店の仲間と共に何とかやっていけるだろう。

 それは、類人種である自分にとってはむしろ幸せな事だ。


 でも、本当の自分は何なのだろう。

 メリーエルダという女は、どこで何をしているべき存在なのだろう。

 そう思うと、いてもたってもいられなかった。

 早く思い出さなければ。

 自分自身を取り戻さなければ。

 心の中が焦りでざわついた。


「あれ……?」


 そのときふと、何かが視線の先を横切った。

 丸い小さな光がデッキの床を走っている。

 よく見るとなんのことはない。

 私の持つ鏡が月の光を反射しているのだ。


 カリファレーナの家の近所に住む子供がよくこうやって手鏡を反射させ、飼っているニュートラゴンの子供に光を追いかけさせて遊んでいる。

 これは随分良く光る鏡のようだ。

 きっとあの子供にあげれば喜ぶだろう。

 そんな事を思っていると、光がふと船の壁面の真っ白な部分を照らした。

 すると、その光の中に何かミミズが這った様な影があるのが見えた。


「何だろう」


 私は鏡を手に、壁に近づいてみた。

 近づくと光が小さくなり、影の形がよく分からなくなる。

 月を正面に、ちょうどいい場所に立つと、その影が何らかの文字であることが分かった。

 それを見た瞬間、私は視界がぐらつくような感覚を得た。


 自分にはこの文字が読める。

 そして、その意味が理解できる。

 そう思った瞬間、頭の中をありとあらゆる感情や感覚が嵐のように駆け巡った。

 激しい頭痛が私を襲い、思わずその場にしゃがみ込んだ。


「私は……」


 記憶の底に沈んでいた映像が、一気に私の頭の中に湧き上がり、大渦となる。

 私はその記憶の海の中に沈み、甘い潮の香りと水の音が感覚を支配した。

 見えてきたのは、深い深い水底から水面に向かって伸びる海藻の森。

 その中に泳ぐ魚の群れと、長い髪を揺らめかせる女たち。

 歌が聞こえた。


 ああ、あれは私たちの歌だ。

 泣きたくなるような感情が込み上げた。


(メリーエルダ様の跡を継がなければいけないのは、やっぱりプレッシャーです)


少女の声が言った。


(私が「一族の記憶」を絶やしてしまわないかって。すごく怖いんです)


 大丈夫。

 あなたならできる。

 私はそう言って彼女を励ました。

 横にいるまだあどけなさの残る娘は、緊張した顔で頷いた。

 水に揺らぐ薄緑色の髪。

 その頭には、あのフラワーケルプの花が飾られている。


 ああ、そうだった。

 この花は私たちにとって、サラダに入れて食べるものじゃないんだわ―――。


(あとはよろしくね)


 私は言った。

(私はこれから、ミガトの専属になってしまうから)


 感情が込み上げ、私の頬に涙が伝うのが分かった。

 思い出した。

 自分は確かに、海の種族だったのだ。

 花の咲き乱れるあの美しい海を愛し、そして、その海に仕えた。

 二十歳を迎えるその日まで、私は一族と母なる海のために生きる巫女だった。


 そしてあの日――――。

 巫女としての役目を終えたメリーエルダは、かねてからの約束の通りある男の妻になった。

 ダーガーン族で最も勇ましく、最も偉大な戦士。

 子供の頃からずっと憧れ続けたミガトというその男の隣で、私はただただ胸をときめかせていた。


「思い出したわ……何もかも」


 私は甲板の柵を乗り越え、船の端に立った。

 そしてそのまま、凪の海に身を投じた。


 一気に水底まで沈み込む身体。

 港の浅い海を根城にする夜行性の魚たちが驚いて、わっと周囲に散っていった。

 深く息を吸うと、全身を潮の香りが駆け抜けた。


 ああ、分かる。

 自分が何者か。

 何故、あんな鏡を持っていたのか。

 そして、右腕にはめられた腕輪の「J‐2887」の表記が何なのか―――。


 混ざり合った海水の中に、私は懐かしい匂いを見つけた。

 沖を流れる海流を逆に上れば、恐らく故郷に帰れるだろう。

 すぐにでも帰りたかった。

 だが、私にはやらなければならない事があった。

 ゆっくりと海面まで浮上すると、水音を聞きつけた者たちが慌てて集まって来ていた。

 柵から身を乗り出す長身の女に向かって、私はこう言った。


「ミイレン大佐、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。全てを思い出しました。私の過去も、あの日……何があったのかも」


 翌朝、私はミイレンに思い出せたこと全てを語った。

 私はダーガーン族の巫女であった。

 一族において、巫女は「語り部」でもある。

 文字を持たないダーガーン族の記憶を語り継ぎ、絶やさないのが巫女の役目。

 常時五人いる巫女の中で、私は一番重要なポジションについていた。


「この鏡は、私たちの歴史が文字で記されている唯一のものです」


 私はあの貝の鏡を天窓の下に置いた。

 反射した光が天井に映り、文字が浮かび上がる。

 それは十数行の詩。

 それを記すのはミイレンにも読むことのできる帝国の言葉。

 詠われているのは遠い時代の戦の記録だった。


「意味、分かりますか?」

「……多分な」


 ミイレンは眉のない眉間に皺を寄せた。


「これは、ダーガーンの一族以外には知られていないのか」

「そのはずです。ミイレン様はどこでお知りになったのですか?」

「北で保護した君の仲間が話していた。ダーガーン族を助けてくれるなら、この鏡の持ち主である巫女様を優先して探して欲しい。そうしなければ、一族の歴史が永遠に失われてしまう、とな」


 北で保護されたダーガーン族は、結婚式で私の介添えをしていた女だった。

 津波に流された時、彼女は私の姿を見失ってしまった。

 だが、預かっていた貝の鏡だけは死守。

 いつか花の海に帰れる事を信じ、ずっと守り続けていたのだ。


「私は巫女としての役目を終える少し前から、ある異変を感じ取っていたんです」

 

 慎重に記憶を紐解き、私は言った。

 砂をぶちまけるように一気に戻ってくる記憶。

 その中から、ミイレンに分かりやす言葉を選んで少しずつ伝えた。


「世界がざわついて、何か良くない事が起こる……分かりやすく言えば予感のようなものです。南へ渡る鳥たちがいつもより早く花の海の上空を飛んでいました。恐らく、北の森の異変を早くに感じ取っていたのでしょう」

「君はそれを、誰かに話したのか?」


 ミイレンの問いに、私は暫く黙った。

 されたくない問いだった。

 だが、答えるしかなかった。


「……誰にも言いませんでした。言えばきっと、巫女を辞められなくなると思ったからです」

「つまり、ミガト氏と結婚できなくなる、と?」


 私は返事も頷きもせず、唇をぎゅっと強く噛んだ。

 役目よりも自分の感情を優先する。

 巫女にあるまじき考えだった。


 だが、私はその時、巫女という自分の仕事に疲れ切っていたのだ。

 幼い頃より他の仲間と切り離され、厳しい修行をし、制限をかけられた生活。

 他の少女たちが当然に許された「若者らしい」生活の全てを奪われ、私はただ一族のために生きなければならなかった。


 役目のために奪われた青春。

 しかし、二十歳になればその任期も終わり、愛する人との幸せが待っている。

 その時を夢見て、それまで私は必死に耐えた。


「愚かだったと思います。でも……それが私の限界だったんです」


 自分の声が震えるのが分かった。

 卑怯で、愚かだった自分。

 思い出したくない記憶だった。

 

「巫女は私だけじゃない。だから、私が巫女でなくなっても、次の巫女がきっと気づいてくれると思ったんです……! だから!」

「落ち着きたまえ」


 ミイレンは取り乱しそうになる私を落ち着いた声で諌めた。


「起きてしまった事は仕方がないだろう。君が仮に行動を起こしていたとしても、今回の事態は止められなかった。君に津波を完全に予期する力でもあったんなら別だがな」

「でも……っ」

「ああ、もう。めそめそするのはミガト氏に会ってからいくらでもやってくれ。私は人を慰めるのは苦手なんだ」


 私の肩に手をやり、ミイレンは不器用な手つきで撫でてくれた。

 冷たい言葉。

 だが、その口調は温かかった。


「とにかく、君が記憶を取り戻してくれてよかった。これで私たちが知りたかった事が分かったからな。協力、感謝する」

「……すみません」

「ミガト氏は今、訳があって皇帝陛下の宮殿にいる。君の無事はすぐに伝えよう。だからもう君は―――」


 その時だった。

 誰かが階段を駆け上る音が聞こえ、足音がそのまま部屋の前までやってきた。

 ドアを開けたのはパレンキアーノ。

 息を切らし、かなり慌てている様子だった。


「大佐! 大変です! 陸軍本部から連絡がありまして……!」

「どうした?」

「王宮が……! 州都がアーガ族の襲撃に遭っています!」


 ミイレンがサッと顔色を変えた。

 アーガ族。

 今、世界各地を襲撃し、猛威を振るっているという森の一族。

 遠い南州の州都をその一団が襲い、軍との間に激しい衝突が起こっている。

 パレンキアーノはそう、早口でまくしたてた。


「アーガ族の戦士、推定三千が州都を襲い、防空線が突破され、現在国防部隊との間に激しい戦闘が繰り広げられていると……!」

「防空線が突破されただと! 空軍のバカどもは何をやってるんだ!」

「州都に駐留していた空軍の防空部隊は一千弱です。上空のシステムが突破されてしまえば、三千のアーガ族の相手はとても無理です!」

「あの、電子頭脳オタクどもが!」


 ミイレンは両の拳で机を叩いた。


「あいつらの『狙ってるもの』はみんな州都にあるんだ! 大群が押し寄せる予測ぐらいできていたろうが!」

「大佐……!」

「こちらには何も命令はないのか!」

「招集がかかればすぐに動ける人員を確保しておけと、今のところそれだけです。朝になっても何も連絡がなければ、引き続き中央政府軍に協力するようにと」

「クソッ……仕方あるまいな。こっちはこっちだ」

 

 アーガ族の襲撃。

 南州の州都。

 単語を聞くだけで、深刻な事態が起きているのが分かった。

 ミイレンは私の方を見た。


「すまない。今夜はもう休んでくれ。私たちはまだ仕事がある」

「はい、失礼します」

「一族の事は心配するな。皇帝陛下が動いてくださっている。みんな必ず、君たちの海に帰そう」


 これ以上は邪魔になる

 私は一礼して自分の船室に戻った。

 記憶を失っている間に、世界は大変な事になっていたらしい。

 不安が胸の中で渦巻いて治まらなかった。

 早くミガトに会いたかった。


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