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プロローグ

 赤い砂漠がどこまでも続く。

 乾いた砂を熱風が右左へと遊ばせ、砂丘には波打った美しい風紋が描かれている。

 聞こえるのは風の音ばかりで、生き物の気配は一切ない。


 灼熱の大地。

 その言葉がまさにふさわしい。


 地上をじりじりと照らす太陽はもうすぐ南の空で衛星と交差し、季節は一年で一番暑い時期を迎える。

 そして、世界―――「皇帝」が治めるこの大帝国において、最も高温になると言われているのが、たった今キトラが歩いているこのエリアであった。


 中央大陸の南に位置するこの「赤の砂漠」は、古来より神秘性を帯びた存在として語られる。

 そして、その乾いた大地を住処に生きる人々により「海」と呼ばれてきた。

 東西に広がり、誇り高き「州王」達の治める東西南北の四州の間に寝そべる青い塩水の海。

 そして世界地図の北半球に黒く広がり、「北の緑の海」に例えられる「北の大森林」。

 この砂漠はそれらとあわせ、「南の赤い海」と称される。

 砂漠に住む者にとって、海水を湛えた巨大な水たまりではなく、この乾いた砂の海こそが「海」なのである。


 この赤い海は人々に恵みをもたらし、時に残酷に彼らの命を奪いもする。


 波模様を作り出す砂粒の一つ一つはそれぞれが数学的均整のとれた結晶体だ。

 それらは皆整った赤い正八面体を成している。

 輝く赤い結晶。

 その中から稀に姿を現す大きな塊は宝石として珍重され、古来よりこの地域の主要な交易品として用いられている。

 採取された赤い結晶は様々なアクセサリーに加工され、やがて遠い地に渡って女たちの目を輝かせる。

 プレゼントとして売り買いされ、花嫁の衣装を飾る。

 古い時代には通貨の代わりとなり、文明を発展させる一役を担ってきた。


 しかし、今のキトラには太古の記憶に思いを馳せる余裕も、その神秘的な景色を楽しむ余裕もなかった。

 

 水筒の水はもう残り少ない。

 むき出しの肌は照りつける灼熱の太陽に炙られ続け、真っ赤になっている。

 頭の後ろで束ねた茶色い髪は傷んでバリバリ。

 砂除けのゴーグルは熱を帯び、金属製のフレームは触ると火傷するのではないかというくらい熱くなっている。

 汗は既に一滴も出なくなっており、口の中はごわごわして苦かった。


 熱中症になりかけている。

 自分の状態をそう自覚してはいるものの、今の状況ではどうしようもない事であった。

 周囲には太陽光を避ける日陰も、水分不足を補う水源もない。

 この灼熱地獄から逃れる方法はただ一つ、今回の旅の目的地である「ハシダテ集落」にたどり着くことであった。


「先生の言う事なんか……聞くんじゃなかったな」


 キトラは激しく後悔していた。

 自分をここに遣わした「先生」ことリン・ウェフリーは、キトラが尊敬する師匠である。


 リンはキトラが通う帝都大学で唯一の女性教授で、世界的に有名な人類学者だ。

 おまけに、かなりの美人。

 肩まで伸ばした銀色の髪は艶やかで美しく、アメジストの色をしたその瞳は見るものを惹きつける。


 大学時代の話を十五年近く前の事として語る彼女は決して若い女ではない。

 だが、それでも多くの者がリンを学生と間違え、彼女がそれを怪訝な顔で訂正するのが常である。


「ミス・ウェフリーの研究室にいる」

 

 そう言えば、大概の者がみんな羨ましがった。

 しかも、そんな彼女は数多くの教え子の中でキトラを一番気に入っているという。

 リンはキトラが大学院に入った時からずっと「自分の後継者」として誰よりもかわいがってくれた。

 キトラもそれを名誉に思い、彼女の研究室の中心メンバーとして研究に励んできた。


 しかし、リンはお世辞にも「やさしい先生」と言える人物ではない。

 一言で言えば「研究の鬼」であり、学生たちに対し、必要とあれば地の果てまでも行って来いと命じる女であった。

 キトラの今回の旅も、半ば無理やり来させられたものだ。

 しかも、目的は研究のためではない。

 リンの知人である考古学者に研究データを届ける事。

 つまりは「おつかい」なのである。


「旅費も全部出す。単位もあげる。だから、明日から行ってらっしゃい」


 唐突にそう言われ、キトラは心の準備も何もないまま旅費と荷物を持たされた。

 リンの知人は赤の砂漠に点在する、「島」と呼ばれるオアシスに暮らしているという。

 キトラはその一つである「ハシダテ集落」を目指すように言われて出てきた。

 大学を出てひたすら南に向かい、数週間。

 空路と陸路を使い、どうにかこうにか砂漠の入り口にたどり着いた。

 しかし、大変だったのはそれからだった。


「多分、あの人はこの辺りにいるはずなの」


 そう言ってリンから渡された地図は実にざっくりとしたもので、キトラは砂漠に出た途端すぐに迷子になった。

 いや、歩いている方角は合っているはずなのである。

「方位計」は狂うことなく南北を指し、太陽の位置もキトラの思う位置にあった。

 だが、いくら行けども見えてくるはずのオアシスがないのである。


 あとどれくらいか。こっちでいいのか。

 そう思っているうちに、砂漠の暑さはキトラの体力を容赦なく奪った。

 だがこれは、キトラのせいでもあった。

 普通、砂漠を渡るときには「砂船」というソリに似た乗り物を頼む。

 砂漠の入り口にいる砂船の船頭に行き先と代金を交渉して目的地を目指すのだ。

 しかし、キトラは運賃を惜しみ、砂漠に入る前の街で「目的地まで送ってやる」「安くしとくぜ」という類のセールスを全部断ってしまった。

 街からハシダテ集落までの距離は約三キロ。歩けない距離ではない。

 うっかりそう思ってしまったのが運のつきだった。

 目印のない砂漠での三キロと、キトラの暮らす首都での三キロは違う。

 その事を、都会育ちのキトラは知らなかったのだ。

 

 キトラの距離感覚は既におかしくなっていた。

 歩いても歩いても赤い砂の山ばかり。

 見上げれば雲一つない青い空。

 もう、これは危ないかもしれない。

 キトラはついに立ち止まり、座り込んだ。

 焼けた皮膚の痛みと眩暈。

 荒い息を吐きながら、キトラは死を意識していた。

 ここで死ねばきっと、腐ることなくきれいなミイラになれるだろう。

 そうしたら、リンは悲しんでくれるだろうか。

 いや、その前にまず研究資料として扱うかもしれない。

 ミイラは人類学者にとって重要な資料の一つだ。

 そんな事を考えると、ますます後悔の念は強くなった。

 いったいオレは、何をやっているのだろうか……と。


「やっぱり……位置情報システムは役に立たないか」


 キトラは手元の通信端末を見てため息をついた。

 この砂漠の砂には特殊な金属が含まれているという。

 磁石とか、電気とかそういう厄介なものを孕んでしまう類の金属だ。

 だから、文明の機器は軒並み狂わされてしまう。

 キトラが故障覚悟で電源を入れてみた端末も、エラー表示が出たきり固まってしまった。

 やはり、生きたければ地図と、原始的な方位計に従ってとにかく歩くしかない。そういう事らしい。

 キトラは荷物の中からタオルを引っ張り出し、頭から被った。

 これ以上の日焼けと水分の消耗は命取りだ。

 少しでも直射日光を避け、ゆっくりと歩くことにした。


 ふと、キトラの耳にブーンという音が聞こえた。

 風の音ではないようだった。

 後方の空を振り返ると、何か黒いものが群れを成して飛んでいるのが見えた。

 鳥だろうか。

 キトラは目を凝らした。

 だが、その正体が分からないまま、群れは遥か遠くに見えなくなってしまった。


「生き物がいるって事は……まだいけるのかもな」


 生命の気配を見たことで、キトラは少し希望を取り戻した。

 キトラの記憶では、この辺りにはサバクガラスという真っ黒な鳥が生息しているはずだ。

 砂漠の生き物はオアシスの周辺を離れない。

 彼らがいるという事は、全ての命の源である水があるという事である。

 最後の力を振り絞り、キトラは重い荷物とそれよりもっと重い自分の体を引きずって歩いた。

 そしてついに、一本の木がキトラの視界に現れた。


「よかった……集落の目印だ」


 ねじ曲がったクロアカシアの古木。

 消し炭のような真っ黒な枝に、生きているのか死んでいるのかわからないかさかさした葉が揺れている。

 葉が緑でなかったらとても生きているようには見えない細い木は、それでもこの過酷な環境の中でどうにかこうにか枝葉を伸ばしていた。

 キトラは思わずその幹に抱き着いた。

 木陰で一息つき、水筒に残ったぬるい水を飲み干す。

 再び歩き始めると、ほどなくしてこんもりとした緑の山が見えてきた。

 切り立った大きな岩山と、そこにしがみ付いて生える照葉樹の森。

 湿気を含んだ涼風と、水の匂い。小鳥の声。

 それはまさしく、砂漠の海に浮かぶ「島」であった。


「キトラ・センバ……生還しました……っ!」


 誰にともなく呟くと、キトラは荷物を下ろし、その場でガッツポーズした。

 生きてここまでたどり着いたこと。

 それが今、奇跡に感じられた。

 集落の入り口には地下から湧き出した泉が深い淵をつくっていた。

 キラキラと輝く澄んだ真水は、キトラが今何よりも欲するものだった、

 キトラは腹がいっぱいになるまで思い切り水を飲んだ。

 それから荷物を木の枝に引っ掛けると、服を全て脱ぎ捨て、澄んだ深みに飛び込んだ。


「うっはー! 生きかえるー!」


 焼けた肌に、冷たい水が心地よかった。

 集落の住民に見られれば叱られるかもしれない行為。

 だがもうそんな事など考えられなかった。

 水とは、こんなにありがたいものだったのか。

 キトラは潜ったり浮かび上がったりしながら、暫しその澄んだ水面に身を委ねた。


「さて、そろそろ行くか」


 あまり遊んでもいられない。

 もっと水につかっていたかったが、キトラは身体の熱がとれたところでやめにしておくことにした。

 これから集落の住民に会い、考古学者の居場所を聞かなければいけないのだ。

 キトラが水から上がり、服を着ようとしていた時だった。

 砂漠で聞いた、あのブーンという音が再びどこからか聞こえてきたのだ。


「何か……変だな」


 キトラはシャツの襟もとから頭を出し、周囲を見回した。

 音が聞こえてきたと同時に、空気が変わったのである。

 さっきまでうるさいほどさえずっていた鳥の声が何故かピタッ、と止んでいた。

 そして、何とも言えない青臭い匂いが風に乗って漂ってきた。

 いったい何なのだろう。

 キトラは服を着ると、音の正体を探した。

 

 ブーン、ブーン、ブーン。

 

 音は遠くなったり近くなったりしながら、この周辺を旋回しているようだった。

 何故か、とてつもなく嫌な予感がした。

 動物たちは、災厄の前兆を人間よりもはるかに早く感じ取るという。

 周囲には小鳥はおろか、虫すらもいなくなっていた。

 何が起こっているというのだろうか。

 キトラは空を見上げ、目を凝らした。

 すると白く雲に霞んだ山影から、むらむらと黒い群れが沸き立つように現れた。


「鳥……いや、違うか?」


 ブーン、ブーン、という音に、ギイギイという不快な鳴き声が混じる。

 群れはゆらゆらと全形を崩しながらだんだんこちらに近づいてきた。

 キトラは荷物を胸に抱え、すぐそばの茂みに隠れて様子を伺った。

 群れの正体はまだ分からなかった。

 だが、思わず身を隠さずにはいられなかった。

 黒い生き物の群れは遠くで見ていて分かるほどに、明らかな「殺気」を孕んでいたのだ。


「たしか……先輩に借りた双眼鏡があったはず」


 キトラはリュックサックの内ポケットを探った。

 レンズを覗き込むと、黒く固まった群れを構成するものが見えた。

 ブーン、と聞こえていたのはそれらの羽音。

 ギイギイというのはそれらの鳴き声。

 風を切る黒く大きな翼は、鳥ではなく蝙蝠のそれによく似ていた。

 そしてそれは、角を持ったゴリラのような生き物の背中についていた。

 双眼鏡のレンズが大きな牙を持つその横顔をとらえる。

 キトラの額を汗が伝った。


「アーガ族だ……!」


 アーガ族。

 それはここから遠く離れた「北の大森林」を支配する、気性の荒い「類人種」であった。

 出会ったら命はないと思わなければならないくらい恐れられている、世界で最も危険な種族のひとつだ。


 この世界での人間社会は、いくつかの人種で構成されている。

 一番数が多いのは、キトラたち「ルーデンス」と呼ばれる人種だ。

 肌や目、髪の色などいくつかのバリエーションがあり、北方系、南方系など住む場所や血筋によって複数の系統に分かれる。

 角や翼などがなく、一番ノーマルな姿をした種族。

「人間は」という文脈において一番多くの者がイメージしやすいのがこのルーデンスである。


 そして、二番目に多いのが「ピスカ」。

 基本的にはルーデンスと同じような姿をしている。

 だが、ピスカは生まれながらに背中に大きな二枚の翼を持ち、耳の先がやや尖っているという特徴がある。

 さらに、彼らには頭が良い者が多く、大学で上位トップに並ぶのは皆このピスカ族ばかりだ。


 三番目に多いのは「クウォール」もしくは「セピア」である。


 クォールは全身が白い斑点のある褐色の毛で覆われ、猫に似たやや尖った顔をしている。

 体も小さく他の種族に比べて頼りなげに見えるが、意外に力が強く運送業などに携わる者が多い。

 小さくとも逞しいのがこのクウォール族なのだ。


 セピアは全身がつるりとした青白い皮膚に覆われ、姿かたちはルーデンスに似ている。

 だが体毛といえるものは全く存在せず、ルーデンスと違って「性差」があまりない。

 男女とも似たような姿をしているのがこのセピアだ。


 これら四人種を除くものたちは動物、もしくは人と動物の間に存在する「類人種」とみなされる。


 アーガはその類人種の筆頭だ。

 彼らの一族は古来より森林に住み、独自の社会を築き上げてきた。

 しかし、他の種族との意思疎通が困難であることを理由にアーガは「人間」とはみなされていない。

 彼らは言葉以外のコミュニケーション手段を持ち、そこに彼らだけの世界を成り立たせている。

 そして、このアーガ族と「人間社会」との間では領土を巡り、激しい争いが長い間繰り返されてきた。


 類人種を自分たちの支配下に置き、未開発地での資源の確保や都市開発を進めようとする帝国の軍勢と、それを拒むアーガ族との戦い。

 自分たちの森を守るため、アーガ族の戦士は命を賭して戦った。

 その闘志と戦闘力を前に、はるかに進んだ文明の機器・兵器を持っているはずの帝国の軍隊は苦戦を強いられ、その戦線には死体の山が築かれた。


 戦いは泥沼と化したままいつまでも続き、ついに休戦協定が結ばれたのは戦いが始まってから約百年後のことである。

 決着はつかなかった、と歴史上はいわれている。

 だが、敢えて勝敗をつけるならばアーガ族の勝利という事が出来る。

 彼らは最終的に自分たちの森を征服される事なく守りきったのだ。


 戦いが終わった今日でも、自分たちの世界を侵す者にはアーガは容赦しない。

 アーガの住処に一歩でも踏み込めば攻撃対象とみなされ、まず助からないとすら言われているくらいである。

 現在、アーガ族の大部分が暮らす「北の大森林」は彼らの治外法権区域となっている。

 それは人間社会とアーガとの間での暗黙の了解。

 人間社会がアーガ族の住処を侵さない代わりに、アーガ族も人間に危害を加えない。

 その約束の下、アーガと人間とはお互いのテリトリーを守って暮らしてきたのである。

 そのため、今までアーガは人間の生活区域に姿を現すことはほぼなかった。


 しかし最近になって、世界各地でアーガ族による町や村への襲撃事件が報告されるようになった。

 アーガ族の戦士たちが真っ黒な大群で襲いかかり、人や動物までをも殺しつくして去っていく。

 大都市から離れた地域ほどその被害は大きく、住民が一人も生き残らなかった場所すらある。

 原因ははっきりしないという。

 だがキトラが大学で聞いた話によると、森林に住むアーガ族の数が増えすぎたため、彼らが新たな住処を探しているために起きている事態らしいということだった。


「まさか……こんな南の砂漠にまで」

 

 キトラは双眼鏡を荷物の中に押し込み、リュックサックの一番下に押し込んでいた箱を取り出した。

 暗証番号と二重の鍵によって厳重にロックされた長方形の箱。

 その中には、本来ならキトラが持っていてはならぬものが入っていた。

 刃渡り五〇センチを超える二本のブッシュナイフ。

 所持がばれれば法律で厳しく罰せられる「御禁制の品」であった。


 武器類の取り締まりが厳しい帝国の統治下において、ナイフなどの刃物は刃渡り二〇センチから許可制となっている。

 そして、その中でも「武器」とみなされるものについては原則として軍人以外にはその所持および使用が認められない。

 キトラのブッシュナイフは、主に山林で下草や低木を薙ぎ払うために開発されたものだ。

 本来は人を傷つけるための道具ではなく、アウトドアマンや林業を行う者のアイテムである。

 だが、その殺傷能力は極めて高い。

 丈夫で簡単に刃こぼれが起こらないため、交換することなく数百人を殺すことができると言われている。

 実際、今まで何度も凶悪犯が凶器として用い、たくさんの犠牲者を出してきたアイテムである。

 そのためブッシュナイフは危険物として厳しい取り締まりの対象となっているのだ。

 

 そんなものを何故、人類学を学ぶ学生で、およそ武器などとは縁のなさそうなキトラが持っているのか。

 これもまた、キトラの師であるリンのせいであった。


 キトラがリンに初めて会ったのは大学一年の時。

 高校時代からリンの著書を読み、彼女に憧れていたキトラは入学するとすぐにリンの研究室を訪ねた。

 貴女に教わりたくて受験勉強を頑張った。

 貴女の研究室に入って、貴女の役に立てるようになりたい。

 そして、どうか貴女のような優秀な学者になりたい。

 キトラは初めて会うリンを前に、そう熱くまくしたてた。


 しかし、リンは一方的にマシンガントークを繰り出す目の前の青二才を呆れた目で見ていた。

 研究と講義の準備でクソ忙しい時に押しかけてきやがったこのイモ兄ちゃんをどうしたものか。

 いっそ叩き出してやろうか。

 それとも、「アポイントメント」というものの重要さについて小一時間みっちり正座で個別指導してやろうか。

 当時のリンはキトラを見てそんな事を思ったらしい。

 だがリンは、何か思いついたようにニヤリと笑うと、キトラにこう言った。


「そんなに私が好きなら研究室に来なさい。だけど、条件がある」


 リンはキトラにある課題を与えた。

 それは、大学院の過程に進む前に、大学で四年間「帝国体術」の講義を選択し、講師から免許皆伝をもらうことだった。


 帝都大学では専門科目や語学などの必須の講義以外に、自由に選択できる美術や体育系のカリキュラムがある。

「帝国体術」は元軍人で「師範」の資格を持つ外部講師が担当するクラスで、大変厳しいことから学生たちに「地雷」と呼ばれていた。

 偏屈な講師が厳しい課題を容赦なく課すため多くの学生が授業についていけず、単位を落とすものが多い……いや、ほとんどなのだ。

 リンはその帝国体術の講義を四年間受講し、厳しい鬼講師に実力を認めさせろとキトラに命じた。

 キトラが大学の四年間でそれを叶えれば自分の研究室に迎えてやる。

 それは半ば、キトラを自分の研究室に来させないようにするために言った事だった。

 独りよがりで自分の研究を邪魔しにくるようなイモはいらない。

 諦めて他の教授に付き、そっちでウザがられるなりうっとうしがられるなりすればいい。

 リンはそう思っていた。


 だがそんなリンのイジワルな課題に、キトラはバカ正直に応えた。

 必死に体術の鍛錬を重ね、その実力を四年間で見事、担当講師もとい帝国体術の師範に免許皆伝を認めさせるに至ったのである。

 大学院の入学式の2か月前、キトラはいそいそとその報告をしにリンのところへ向かった。

 既に体術の講師からキトラの事を聞いていたリンは、キトラに一言こう言った。


「バカね。研究室に入るのに必要なのは筆記テストと大学で定められた面接だけよ。知らなかった?」


 相応の学力と、教授を納得させられる志の高さ。

 それ以外に教授が条件を課すことなど大学が許さない。

 その事は、大学院の受験要綱を見ればすぐに分かる。

 お前ほどのバカは見たことがない、と。

 笑い転げるリンを前に、キトラはショックを受けた。

 だが、リンは続けてこう言った。


「アンタみたいなおバカを私は待ってたの。歓迎するわ、キトラ・センバ君」


 キトラはこうして、自分の「おバカ」を武器にリンのハートを射止めたのである。

 リンはその愛すべき「おバカ」に、入学祝いとして二本のブッシュナイフを贈った。

 それが今、キトラの持っているナイフである。


 キトラが習っていた帝国体術の講師は二本の短刀を用いた独自のスタイルを教えていた。

 講義で用いていたのは木製の刀。

 だが、本来は金属製の刀やナイフを用いて戦う実戦の技術。

 本物を持っていなければ意味がないだろう、という事でリンは法の目を掻い潜り、キトラのために高価なナイフを調達してきてやったのだ。


 当然キトラは戸惑った。

 渡されたのは明らかにイリーガルな品。

 見つかればキトラは退学なうえに禁固刑である。

 しかし、くれたのは敬愛する師匠なわけで……。

 今までは仕方なく密かに人目に触れない場所にしまっておくしかなかった。


「まさか……これを使う時が来るとはなぁ」


 キトラは両手にグローブを着用し、二本のナイフを手に取った。

 大学院に入ってからも朝夕のトレーニングはキトラの日課になっており、今まで(今日のような非常時は除き)体術の訓練は欠かさずに来た。

 だが、練習用の木刀とこのブッシュナイフでは遥かに緊張感が違った。

 自分がこれを振るえば、人が死ぬのだ。


「やむを得ないか……」


 キトラは自分に体術を叩き込んだ師範の顔を思い浮かべた。

 もし今ここに彼がいれば、きっとキトラが武器をとって戦う事を許しただろう。


 アーガ族に襲われた町や村がどうなってしまうか。

 一言で言えば「地獄」であった。

 住処を広げるにあたって、アーガはその場所に自分たち以外の「匂い」がするのを極端に嫌うという。

 だから、住処を奪うと決めたら最後、人はおろか、家畜や周辺の野生動物に至るまで、全てを攻撃対象にし、殺しつくすのだ。

 キトラには、集落を見捨てて逃げるという選択肢もあった。

 だがそんな事はキトラの頭にはなかった。


 体術の師はこう言った。

 お前に免許皆伝を与えるのは、お前が「逃げない男」だからだ。

 だからお前はこの先、何があっても逃げてはならない。

 いつか必ずお前が自分の身に着けた技術で戦わなければならない時が来る。

 その時まで、決して自分の技を錆びつかせてはならない、と。

 師の言葉は、キトラの中に今も強く残っていた。


「せめて……先生の知り合いだけでも助けられれば」


 キトラは意を決し、集落への坂を上がった。

 ハシダテ集落は森の中にあった。

 立地としては砂漠の中の離れ小島。

 だが、切り立った岩山が雲をせき止め、年間を通じて安定して雨が降るために豊かな水源があり、住民は農業などで生活を支えているという。

 小川に沿って森の小道を進むと、やがて視界が開け黄金色の穂がたなびく小麦の畑が広がった。

 その向こうに、山の斜面に作られた家々が見える。

 独特な形をした丸い屋根の周りを、黒い影がギイギイいいながら飛び回っていた。

 キトラは身を屈め、麦畑の中をゆっくりと進み、集落に近づいた。


 アーガ族は機嫌の悪そうな鳴き声を上げ、家の屋根を剥いだり、ドアを蹴破ったりして辺りを荒らしまわっていた。

 獣舎から豚や山羊を引きずり出し、地面に叩きつけているものもいた。

 だが、何故か集落の中に人の姿はなかった。

 避難したのか、それとも家の中に隠れているのか。

 キトラは前者であることを祈りながら、じっとアーガ達の様子を伺った。


 そのとき、麦畑を風が吹き抜けた。

 背後の森から吹き抜ける涼風。それは麦畑を渡り、キトラの前髪を揺らして集落の方へと噴き上げた。

 すると、一頭のアーガがこちらを見た。

 まずい、とキトラは思った。

 アーガは嗅覚が発達している。犬でさえも分からないような遥か遠くの匂いを察知し、嗅ぎ分ける能力を持っているのだ。


「ギギ、ギグググ……」


 バサッ、バサッ、という羽音がゆっくりとこちらに近づいてきた。

 アーガの真っ黒な目がキトラを探し、麦畑の中をぎょろぎょろと見回した。

 キトラは近くにいるアーガの数を確認した。

 恐らく、四、五頭。

 仕留められない数ではない。

 アーガの影が間近に迫った。

 キトラは意を決し、麦畑の上に躍り出た。


「タァーーーッ!」


 相手にとっては不意打ちだったのだろう。

 振りかざしたキトラの右手は真っ直ぐにアーガの喉元に突き刺さり、後頭部まで貫通した。

 アーガは悲鳴も上げぬまま、麦畑の上に落ちた。

 ぬめりを帯びた血がキトラの服を真っ赤に汚す。

 異変を察知した他のアーガが一斉にこちらを向いた。

 来るなら来い。

 キトラは彼らを挑発するように両の手を構えた。


「ギィアアアアアアア!」


 怒りの咆哮が空間を裂く。

 アーガの武器はその鋭い鍵爪だ。

 カラス貝の光沢を放つ十本の凶器がキトラを引き裂かんと迫ってきた。

 キトラはその切っ先に呼吸を合わせ、自分に向けられた逆上のエネルギーを背後へと逃がした。

 アーガがバランスを崩す。そのタイミングを逃さず、血濡れの切っ先が真っ黒な背中から心臓を貫いた。


「ぐ……ア……!」


 どさりと落ちた巨体。

 その背後から、目を血走らせたもう一頭がキトラに襲いかかる。

 キトラは身を翻し、その眉間を思い切りナイフの柄で打った。

 脳震盪を起こし、よろめいたアーガ。

 がら空きになった腹部へ、キトラは容赦なく止めの一撃を加えた。


「ガ……ガ……」


 仲間が数分のうちに躯と化した。

 その一部始終を見ていた最後の一頭は、恐怖のあまり動けなくなっていた。

 キトラは向こうから自分に向かってくるのを待った。

 もしくは、これに懲りて退散してくれるならそれでもいいと思っていた。

 最後の一頭は後ずさりした。

 そして顔を上げ、空を見た。

 空気を震わすような不快な叫びが辺り一帯に響き渡った。


「ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 まずい。キトラは再びそう思った。

 この咆哮は、仲間を呼んだのだ。

 砂漠と集落の入り口で見たとき、アーガの群れはいったい何頭いたか。

 その数は、二十や三十では済まなかった。

 五十か百か、いやあるいは……。

 キトラは周りを見た。


 ブーン、ブーン、ブーン。


 風は止み、周囲はその不気味な羽音と殺気に包まれていた。


「くそっ……!」


 生臭い匂いが一斉に集まって来た。

 群れは周辺の山影や木々の間からざわざわと現れ、キトラの頭上を旋回し始めた。

 キトラは言葉を失った。

 何百、いや、千に届くかもしれない。

 集まって来たアーガの羽音で周囲の音は一切かき消され、空は真っ黒になった。

 恐ろしい光景だった。

 心臓が凍りついたようになり、キトラは全くその場から動けなかった。


「ギィア!」


 ひときわ大きな咆哮が辺りに響いた。

 襲撃の合図であった。

 アーガの群れは真っ黒な渦となってキトラの上に降ってきた。

 キトラはその場に立ち尽くしたまま、ぎらつく爪先が自分に向かってくるのをスローモーションのように視界に焼き付けていた。

 

 もうだめか。

 しかし、その時だった。

 熱風がキトラの体を吹き抜け、何かがキトラを空へ運んだ。

 

 目に映ったのは、鮮やかな濃いオレンジ色。

 何かが自分の体を抱き上げ、空へ運んだ。

 キトラは顔を上げ、その正体を見た。


 若い女の顔がそこにあった。

 美しい女の顔と、揺れる長い黒髪。

 だが、その顔を見た次の瞬間、キトラは空中に投げ出され、そのまま深い水の中に落ちた。


「しばらくそこにいて!」


 水底に沈む寸前、そんな事を言われた気がした。

 空が遠ざかり、ボコボコと湧き上がる気泡と共に再び近くなる。

 浮上すると、小さな緑色のカエルたちが慌てふためいて逃げて行った。

 どうやら灌漑用のため池らしい。

 キトラは池の淵に生えた背の高い植物の茎にしがみ付き、空を見上げた。


「あれは一体……何なんだ……?」


 半円を描く濃いオレンジ色の炎。

 それが太陽の下で乱舞し、まるで蚊を追い払うかのごとくアーガの群れを蹴散らしていた。


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