第三部・魔界王国の野望編 (8_1)
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「うっ!」
ディタは短く呻いて、脱力で全身をだらんとさせた。その後、うなだれた首をゆっくりとゆっくりと上げる。その顔は今までからは想像もつかないような、まがまがしい笑みを浮かべていた。
「そんな――」
トモエは呆気にとられたままだった。こんなことになるとは、ついぞ想像さえしていなかったのだ。
「ディタ――!」
そこへ、ソーホーが走ってやってきた。魔物たちの猛攻を何とか切り抜けられたのだ。だが彼は、ディタの闇のうごめくようなオーラを放つ姿に驚いて、はたと立ち止まった。
「これで、私の想いを遂げることができるわ……」
突然、ディタは濁りを含んだ声を出した。
「ずっと疑問に思っていた、どうして世界は公平でないのか。どうして身分の違いがあって、苦しむ人がいるのか。どうにかならないものかとずっと思い悩んできた。でも、簡単なことだったのね。すべてを闇の力で覆い尽くしてしまえば、世界に違いなんてなくなるのよ――」
フフフフ、とディタは不気味な笑い声をあげた。ソーホーがそんな彼女に向かって叫んだ。
「何を云うんだ。ディタ、目を覚ませ!」
ディタに向かって駆け寄ろうとする。ディタは彼をキッと睨みつけた。
「近づかないで」
目が妖しく光る。瞬間、ソーホーは棍棒で殴られたような痛みを覚え、その場に倒れこんだ。彼女は一句一句、言葉を区切るように云った。
「私は、もう、あなたたちと同じ、人ではない」
ディタの背中に黒い羽が生えていた。彼女はそれを開いて飛び立った。そして猛スピードで空のかなたへと消えていった。トモエはディタの飛んでいった方を見上げながら、呆気にとられていた。
「……どうなってるの?」
呟くトモエに、ドランブイが云った。
「姫さまはもう人間じゃない、俺らと同じ魔物になってしまった、ってことさ」
「き、きさま……ふざけたことを抜かすと、許さんぞ」
ソーホーは潰れた声を出した。立ち上がろうとしたが、痛みがひどく身体を起こすことができない。
「本当のことだ。姫さんは、よっぽど繊細で真っ白な心を持っていたらしいな、悪意にすぐにつけこまれてしまうくらいに。真っ白いキャンバスに黒いインクをぶちまければ、それはすぐに黒く汚れるだろう。そういうこった」
「でも、だからといって、ディタが邪霊につけこまれるとは――」
トモエは合点がいかなかった。トモエが生きている現実世界では、邪霊はすさんだ心をもつ人間を好んだ。心の闇や迷いの隙間に入り込みやすいからだ。この異世界でも、スミノフたち魔物が悪意の化身に侵された理由は同じであった。しかし、ディタの場合、そういう心の闇という言葉とは不釣り合いに見えた。それなのに、あの場面でスミノフに憑依した邪霊が、真っ先にディタに目星をつけたことが、トモエにはどうしても理解できなかったのだ。
「物事には表があれば裏がある、ってことさ。あの姫さんが、もともと清らかで優しい心をもっていたことは間違いない。だが、優しいあまり、俺たち魔物のような恵まれない連中がいることに、気をもみすぎたのさ。本人もそのようなことを云っていたろう。そのあまり、気づかぬうちに心の中にほつれというか、小さなすさみができてしまった」
「ば、ばかをいえ……」
ソーホーはよろめきながらもようやっと立ち上がった。痛みに顔を歪めながらも言葉を続ける。
「ディタに限ってそんなことあるわけないだろ……」
「だが、現にこういうことが起こってしまったのだ。しかもあの姫さん、想像以上の強い力を持っちまった――。地上世界と地下世界は、異なる層にある世界だ。それをつなぐのが、お前さんたちも通ってきたあの階段なわけだが――、姫さんは次元の層をつなぐ階段を通ることなく、飛び越えていくつもりだろう」
それだけ大いなる力を持っちまったってことさ――とドランブイは云った。彼は飽くまで客観的なスタンスを崩さなかった。だがトモエには、実のところこの事態には、彼も責任の一端を担っているような気がしてならなかった。ドランブイはそのことを予期していて、ディタをスミノフの前に見せたのではないかと。そのくらい、彼は色んなことを知りすぎている。トモエは気になった。ドランブイは一体どこまでこの件に関わっているのだろうか、と。




