◆災厄、墜落、幽艶
【災厄、墜落、幽艶】
悲鳴が聞こえた。
だがグレンにはそれが現実感を欠いて聞こえた。
もしこれが街中だったなら、迷うことなくグレンはその出処を求めて駆け出したことだろう。だが此処はグレンにとって“我が家”に等しい。
“我が家”で恐ろしいことは起こらない。危険を日常としてきた自分でさえ、そんな愚かな錯覚を抱いていたのだと、後々になってグレンは思い知った。
反応が遅れた身体を、グレンの理性が叱咤した。
今の悲鳴は若い女の声だった。ならばエレナだろう。気丈な娘だ。滅多なことで声はあげないはず。
(どこだ)
ファントム・コードのアジトにおいて、方角は意味を成さない。目的の場所へ行くには、ただ頭に思い浮かべれば其処が行く手に現れる。
だがそれは、場所以外を目的とする場合は不便だ。例えば廊下を歩きながら扉を手当たり次第に開いて誰かを探す、ということは出来ない。
グレンは焦りを吐き出すように舌打ちして、まずはエレナの部屋を目指し、芝生の縁を蹴って飛び降りた。
緩やかな落下の最中で、グレンは自分が降り立とうとしている部屋が無人であるとその時点で確認した。
着地し、すぐに調度品の間を抜けてフロアの端に向かう。そのまま宙に身を躍らせ、向かったのはルルの部屋。
またも落下の途中で、目指すフロアが無人だと判った。
「何処なんだよ!?」
つい苛立ちの声が洩れた。しかし、部屋の真ん中、卓の上に置かれた果物の山と皮と種の残りに、つい先ほどまで此処に誰かがいたことは察せられる。
そして、思い当たったのは先のチャイム。
「玄関か?」
手当たり次第に探すしかないのだ。思い浮かんだ場所から当たるしかない。
グレンは再び夜空に飛び込んだ。
重力を感じさせない落下の中、見下ろした白い大理石の床の円形フロア。
そこは無人ではなかった。
真っ先に目についたのは、宇宙に似た空間に浮かぶ白いフロアの上に、鮮やかに落とされた紅がふたつ。
ひとつはマリーエレメントの真紅のドレス。
そして、もうひとつは。
「――…ルル!?」
倒れ伏す少年。その身体の下には大きな血溜まりが広がっている。
その傍らで、グレンが探していた少女がルルの腹の辺りを布で押さえている。彼女が悲鳴をあげた理由が分かった気がした。
グレンの声が聞こえたのか、エレナが顔を上げてこちらを見た。その縋るような目に、ルルの傷の深刻さが窺える。
そして、その向こうに。
「誰だ……!?」
それはグレンの知らない男だった。
年齢は不詳。20代にも見えるし、40代にも見えなくはない。
それというのも、離れた位置から見ても判るつるりとした肌の色が、異常にくすんでいるからだ。
姿勢は良く、背筋が伸びた立ち姿は健康的で、その肌の色にそぐわない。
そして何より、その装い。グレンの知らない趣のその服は、歌鳥が見たなら「和服に似ている」と言っただろうが、あいにくグレンはそれを知らない。
ただ、心許ないほどに広い袖口と裾が揺れる様で、その人物が“戦士”でないことは判断出来た。状況から見て、その男がルルに危害を加えたとしか思えないのだが――…。
そして、さらにその男の足下に目をやると。
「……シャンティ……!?」
そうとしか思えないのだが、しかしそうとは思えなかった。
仲間の1人。サポートメンバーで、造獣の技術をかじっていた経験を買われ、ファントム・コードに招かれた。年に数回、グレンも顔を合わせる。
見知らぬ男の足下に転がっている“それ”。
その顔はシャンティにしか見えないのだが、笑って片手を上げた姿勢のまま転がっている“それ”は、精巧に作られた人形に見えた。
否、人形だ。何故ならその身体は上半身と下半身のふたつにぱっくりと分かたれていながら、血の一滴も流れておらず、傷口から覗くのは空洞のような闇しかない。
そして、そこから少し離れた位置で浮遊する少女。
マリーもまた動かない。微笑みを浮かべた表情のまま、その顔も、長い黒髪もドレスの裾もまったく動かなかった。
人形と言うなら、マリーのその姿の方がよほど人形に近いだろう。もっとも、マリーというそもそも人間ならざるものに対して“人形のよう”という表現がふさわしいかは計りかねるが。
――…グレンがその場の状況を理解しようとした時に、新たな異変が起こった。
「!?」
偽りの夜空、星降る天蓋。
一瞬の閃光。
貫く流星。
真っ直ぐに、それは衝撃とともに正体不明の男の傍らに墜落した。
大理石の床が派手に砕ける。爆発に似た震動に、エレナが悲鳴に近い声をあげた。それでもルルを庇ってその身体に覆い被さるあたり、彼女の窮地における芯の強さは本物だ。
「ヴィヴィ! ルル!」
巨大な半球形の大理石のフロアにヒビが入り、その床がガクンと傾いた。その衝撃にグレンが足踏みする。
墜落してきた“それ”を包んでいた光が晴れた。
「繋がっタ?」
男が声を掛けた先。
「ええ」
聞こえた返事は、玲瓏な女の声だった。
そこでやっと、固まっていたマリーの姿がビクンと動いた。
『なんてこと』
機械的な幼い声が、嘆きの言葉を口にした。
晴れた光の中から現れたのは、目を射るほどに鮮やかな朱色の振り袖を着た女。青磁色の長い髪が残り火のような光を弾く。
女は宙に浮く少女の姿を見上げた。冷ややかな瞳は牡丹の色。
「……まるで執着の象徴」
マリーの姿を眺め、女は一言、呟いた。
『シエラ=オルエン。何故――…』
「なぜそなたが口を利く? 話があるなら自らの姿を現しなさい。それがせめてもの礼儀というもの」
シエラと呼ばれた女が、優雅な所作で手を上げた。白い繊手が、真っ直ぐにマリーの姿を指し示す。
「『消釈』」
唱う。
瞬間、浮遊していたマリーの身体が仰け反り、その胸にぽっかりと大きな孔が空いた。
『!!!!』
「マリー!?」
マリーエレメントに実体はない。彼女は生き物ではないから。
だが。
『あぁ――…』
聞こえた声は、何かの感情を表していたのだろうか。その判断は出来ないまま、それは歌声のようにそよいで消えた。
マリーの姿が霧散する。星空の背景に溶けて、消えてしまった。
「嘘だろっ……!!」
グレンの声が慄える。
――…今、あの女は何をした?
驚愕と混乱の視線の先で、シエラが無感動に辺りを見回した。
「《不義の迷宮》」
「あぁ、やっぱりソウ?」
「ええ」
「キミのとどっチガ出来がイイ?」
「こちらでしょうね」
眉ひとつ動かさず、シエラはそう答えた。
「だからと言って、破壊するのが惜しいとは思いませんが」
カツン、と音を立て、女が一歩踏み出した。
グレンの顔色が変わる。決して大きな声ではなかったが、女の声は澄んでよく透った。そのため、その声が発した言葉は淀みもせずにグレンの耳に届いた。
(“壊す”……!?)
それが可能なのか、それが本気なのか。グレンには判断する根拠もない。
傾いた床では、エレナがルルの身体を抱えて蹲ったまま、血で傾斜に滑りそうになるのを堪えている。
女は、すぐ傍らのそんな光景にも一瞥もない。
鮮やかな朱色の袖が揺れる。女は真っ直ぐに、フロアに置かれた台座に向かった。
その台座は、蔦で編み上げた鳥の巣のオブジェだ。抱いているべき卵はない。
歩み寄り、シエラは手を伸ばした。それは、その巣にないはずの卵を手に取ろうとする仕草に見えた。
グレンが叫んだ。
「――…待て!!」
背中にぶつかる鋭い声に、女が手を止めた。緩やかに、静かに振り向きグレンを見る。
しかと目が合い、その女の貌のつくりが見て取れる。女は鳥肌が立つほど美しかった。
「何を――…する気だ」
こんな問答をしている暇などない。早くルルの手当てをしなければ。
だが先の女の言葉を真に受けるなら、此処を破壊するという言葉が本気であるなら、女の一挙手一動足は制しておかなければならない気がした。
女は冷ややかな視線をグレンに返す。何の感情も、何の関心もなさそうな瞳。
その瞳が、ちらと周囲の景色をひと撫でした。
「……ああ、お手柄でしたね」
「え……?」
「この数秒で、少なくとも半日は寿命を得ましたことでしょう」
瞬間、シエラの足下の大理石が崩壊した。
崩壊したのみならず、その破片が一瞬空中で静止し、その全てがシエラに向かって突進した。足下を失って落下しつつある彼女に、それを躱す術はないだろう。
床に空いた穴へと落ちて行ったシエラがどうなったのか見届けることは出来なかったが、あの破片が彼女に衝突したのは響いてきた轟音からも明らかだった。
「オヤ」
呑気な声を零し、男は身動ぎもしないままシエラが落ちた空洞を眺めた。
男が駆け寄り、女の身を案じてその穴を覗き込むくらいの動揺を見せてくれれば、グレンはその隙をついてエレナとルルを拾い上げてこの場を去れるのに。
「サテサテ、どうしたモノかネ」
欠伸でも洩らしそうな気怠い仕草で頭を掻いて、男はグレンの方を見た。
「……ウン、キミは中々だよネ」
「なに?」
「いい《素材》ダ。キミでなら、傑作が出来ル予感」
その言葉の不可解さに、グレンの背中に悪寒が走る。
だが、一瞬を置いて思い至る。
「お前が――…、シャンティの偽物を作って」
「偽モノ?」
男が首を傾げた。不思議そうに、自身の足下に転がる“それ”を指し示す。
「本モノだヨ?」
「なん――…」
「偽モノなら、こんなトコに入ッテ来れないでショ」
――…それはそうだ。
ファントム・コードのアジトの守りに物理的な要素はない。あるのは呪術による限定的な契約。手段を知る以外に、此処に入ることは出来ない。
男の足下の“あれ”が偽物だったとしても、此処に入り込むためには、本物からその手段を聞き出さなければならない。
シャンティが話すはずがない。彼は信頼できる仲間だった。信頼出来る人物でなければ、ファントム・コードは加入を認めない。
ならば連中は、シャンティを操り、此処に入り込んで来たというのか。
男の足下に転がる無惨な“あれ”は、本当に――…
「シャンティ……!」
だがそこで、新たな疑問が生じる。
「どうやって――…見つけた」
ファントム・コードはその名を知る者さえ数少なく、世間的には半ば伝説の秘密組織だ。実在さえ疑われている。そんな組織の構成員をどうやって探し当てたというのか。
グレンたち実働メンバーならいざ知らず、シャンティはサポートメンバーだ。ゴーレムも持たない。単独で動いていれば、彼と一般人に違いはない。
グレンの独白にも似た問いかけに、男は作り物のような笑みを浮かべた。
「キミ達、いろンな街に仲間ヲ置いて、情報集めヤラをしてるんダロ。だカラ、情報が集まりソウな街に目星をつけて探したんダヨ」
「だから、どうやって――…!」
「《解読》ダヨ、《解読》。さっきノ綺麗サンの得意分野デネ、《屍体》の記憶を読み取るノサ。死にタテほど、鮮明に読めル」
「解、読……?」
シャンティを殺して、その死体から記憶を読み取ったというのか。
だが、それでは順番が矛盾しないか。
此処に入り込むためにファントム・コードのメンバーの記憶が必要だった、という理屈はわかるが、そもそも“どうやってファントム・コードのメンバーを見つけたのか”という疑問の答えには――…
そのとき、グレンの頭に閃光が奔った。
(いや、まさか)
それは、思い浮かべたことさえ馬鹿馬鹿しい。実現したというなら、そんな恐ろしいことはない。
(まさか)
それは、あまりに恐ろしい可能性。口にすることさえ出来ない。
だが、男はその薄ら笑いを顔に貼りつけたまま、告げた。
「街をひとつ潰しテサ、全ての死体の記憶を“読んだ”んダヨ」
「――…!!!!」
まさか。
「馬鹿な」
街が全滅するほどの事態なら、シャンティは異常が起きた時点でマリーにそれを《通信》で報告したはずだ。それは数分とかかるものでもない。
彼らはひとつの街を、《通信》すら許さぬほどの時間で死に至らしめたと言うのか。
それとも、その街が襲われたときの最初の被害者がシャンティだったとでも言うのか。流石にそれはないだろう。サポートメンバーとはいえ、否、サポートメンバーだからこそ、彼は細心の注意と緊張感を持ってその街に居たはずだ。
予測と推測が、混乱しながらグレンの頭の中でぐるぐると回る。可能性を否定しつつも、その否定には確かな根拠がない。
男は笑っている。胡散臭い、その笑顔。
グレンはもう、告げられた言葉を事実として受け入れるしかなくなった。
(こいつ、ヤバい――…!!!!)
イカレてる。何をしでかすか分からない。
グレンの視線が、傾いた床で踏ん張っているエレナとルルに移った。
――…守らなければ。
隔離しなければ。あの男の目の届かない所へ――…!
その切迫した思いに胸を突き上げられたとき、グレンの視界が一瞬で白濁した。
『隔離するわ』
脳裏に直接響いた、幼いながらも大人びた口調の少女の声。
『彼らを隔離するわ。
けれどごめんなさい。貴男たちまで巻き添えにしてしまうわ――…』
その声は間違いなく、マリーエレメントという“擬似感情プログラム”のものだった。
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