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探偵佐野嘉子

社長室を出ると嘉子は秘書室に置かれた自分のデスクに戻った。嘉子は机の上に両肘をついて、手のひらを顔に被せる。

「どうしよう、一人になっちゃったし」

嘉子は手元の資料を何度も見返したものの、次に何をすべきかが分からずにいた。MGTトラベルの特命社員としてやるべきことは犯人をいち早く挙げることと明確なのだが、そのプロセスは難解過ぎるものだった。


というのも細谷の出したレポートには吉田真理子が桜井和人を殺害したことを裏付ける証拠が書かれてはいない。探偵ですら集められなかった証拠を自分がどうやって集めるのか。


この状況で事件を早期解決する場合は、吉田に自白を迫る必要がある。ではどうすれば彼女が自供をしてくれるのか。こんな自分に何が出来るのか、考えれば考えるほど何も思いつかず頭がずしんと重くなっていく。


そうこう考えた末、嘉子には二つの案が思い浮かんだ。一つが殺害現場となったトンネルでの吉田が勤めるフォカスートラベルの同僚達の証言を集めて、突き落とすことが出来たのは吉田以外いないことを立証すること。

もう一つは吉田と人間関係を構築して、自首を促すということ。


但しいきなり刑事でもない自分がフォートラベルに行ってもおそらく誰も何も話してもらえないことは明白だった。手元の資料を警察に渡して、自分は調査から手を引くかそれとも……。


このとき時間は午後6時になっていた。本店ビルには就業のチャイム

が鳴り、秘書室の社員達は一斉に身支度を始めた。

「現場と本店ではこんなにも状況が違うのね。私なんか定時で帰ったことないのに」


嘉子は考えるのを止めて家路につくことにした。


嘉子は帰路に着くサラリーマンやOL達と歩調を合わせ、最寄の駅まで

向かう。この時間の空はまだこんなにも明るい。昼間降っていた雨も

上がり、空の端はほんのりと赤く染まっている。


そういえばこんな時間に退社したことないな。と急に自分は今まで毎

日毎晩遅くまで仕事を頑張ってきたことを振り返り、センチメンタル

な気持ちになった。


「ちょっと寄り道して帰ろう」

嘉子は秘書室の仕事に就いてまだ1週間ほどしか経ってはいないが、

ふと店頭業務の頃が懐かしく思えた。無性に同僚達に会って、今まで

自分を良くしてくれたことに感謝したくなった。その時既に駅のホー

ムまで降りてはいたが、自宅とは反対方面の電車に乗ることにした。


MGTトラベル月島店の接客カウンターは全て客で埋まり、壁にかかっている電光掲示板には待ち人数15名様と映し出されていた。いつもより客が多いのは、夏休みを前に多くの人が旅行へ胸を躍らせているからだろう。店内の活気は市場のそれにも似ている。嘉子はこの光景がとても懐かしく思えた。

少し前まで自分がここで働いていたとはなかなか思えなかった。店内には「タイが熱いですタイ2.54万円」という知らないキャンペーンのポスターも貼られている。こういった破格なポスターの脇にはいつも通り、平日出発平日戻り便に限ると書かれていた。またフライトは成田を午後八時頃出発し、現地には早朝に到着なのだろうと考えを馳せた。何気ないことまで懐さを感じた。いつもこの時間になると一日の締めくくりとして自分も気合を入れなおしていたことを思い出した。思えばいろいろあった。単調な仕事の中にもやりがいはあった。


カウンターの中で忙しく動き回る上司が嘉子を見つけた。そして遠くから軽く手を振ってきた。

嘉子は店が少し暇になった頃合いを見計らって彼と少し話をしようと思った。すると予想外にも早く上司が彼女の下に寄ってきた。

「田中さんだっけか、今来てるよ、ほら」上司が手を差し伸べた方を

嘉子は体を向けると待合スペースに置かれた長椅子に座る田中慶子の姿を見つけた。しばらく彼女の方を見ていると、黒縁メガネの奥の目が合った。そして嘉子は軽く会釈をした。


田中はカウンターで旅行の打ち合わせをし終わると、店内の壁に寄りかかっていた嘉子の所へ寄ってきた。


「先日はお世話になりました」

田中はうつむき加減で嘉子に話しかけてきた。

「いえ、とんでもありません。こちらこそいろいろご迷惑をお掛けしてしまったようで、すみませんでした」

「いいんです。佐野さんは何も悪くありませんから。ただあの旅行の後私にもいろいろありまして」黒縁メガネの奥には死んだ魚のような目が見えた。嘉子は彼女のことが心配になったのと、他にもいろいろ話したいことがあったので近くの喫茶店に誘うことにした。


カウンターでアイスラテを二杯頼むと、二人がけの席に腰を落とした。

嘉子は早速核心に迫った。

「実は私のところにも刑事さんが来まして、それでアリバイを訊かれました。私が提案した旅行だからという理由でした。全然関係のない私ですら疑われるんだと思いました。さらにはその時田中さんが警察署で取調べを受けていることを知ったんです。

そこでは田中さんがそういうことをする人にも見えなかったこと、今回の旅行のプランと事件とは全く関係ない事を、ちゃんと話したつもりだったのですが」


田中はカップを持ちながら優しく微笑んだ。

「いいですよ。そんな私に気を使ってくれなくても。実際に事件が起きた事実は変わりませんし、旅行を計画してもらったのは私ですから。ただ何日も警察署で同じ質問を何回も受けたのはさすがに堪えました」

田中はハンカチを大きめの鞄から取り出し、鼻の辺りを押さえ始めた。涙はアフタージョブのカフェの開放された人々が繰り出すにぎやかな雰囲気に違和感を与えている。


「いろいろ大変だったんですね。ご察しします。

警察はそれが真実で無くても犯人を挙げるのが仕事だって私の父親も話していました。結構前の話なんですが、父は脱税容疑をかけられたことがあって、それで何日か警察署で取調べを受けたことがありました。

その時は相当大変だったと私に話してくれたことがありました。だから田中さんも相当大変だったんだろうなって、安直ですがそう思って。しかも私も父親がそんな事件に巻き込まれたから、学校でもしばらくいじめにあってしまいまして……」


「実は私、先ほど会社を辞めてきたんです。」

嘉子は目を丸くしながら、ラテの注がれたカップを手にした。


「こんなことになってしまって、同僚からは今後もきっとそういう目で見られる位ならとりあえずまずは辞めようって。会社は今回の拘留については特別なことだからと、出勤扱いしてくれるということでしたのでその点は申し訳ないのですが。ただ……」


「ただどうしたんですか」嘉子はしんみり訊いた。

「佐野さんだからお話しますけど、私は亡くなった桜井さんとは不倫関係にありました。そういうこともあったのでますます会社には居づらくなってしまったんです。きっと同僚達も感覚的には気付いていたと思いますし」

嘉子はこんなところで田中の口から不倫についての話が出てくるとは思わなかった。また嘉子の目の前に現実に不倫をしていた人がいる状況は、ドラマの世界だけでないことを更に嘉子に知らしめた。嘉子は頭の中が真っ白になり、何も言えなくなってしまった。


「不倫といっても、別に奥さんを奪ってとかそういうレベルではなかったんで浮気って言うべきでしょうか。ただ桜井さんとは仕事のこととかを話していくうちに、考え方とかに惹かれる部分もあって、何度かお食事をしたりホテルに行ったりとかそういう感じだったんです。

何より彼はこんな私に優しくしてくれたんです。佐野さんも分かると思いますが、私は中学の頃から学校でずっといじめられてきたんです。アニメが好きで、それで気持ち悪いとか。性格も明るくなくて、人見知りもしてしまうので友達らしい友達もいませんでしたし。

専門学校もそっち系のところに通っていました。ただ自分の中でもこのままでいいのかというのはありました。このままずっと友達もいなくて、一人部屋でアニメを見て、一人でコミケに行ってって。

そんな時学校の夏休みに旅行に行ったんです。当然一人でしたけど。親にお金を融通してもらってタイに行きました。

そこで目にしたのは人びとが自由に生きている姿でした。温暖な気候だからか、あまり周りの目を気にすることなく、すれ違えば挨拶をして、小さな商店に行けばお茶をごちそうになったり。

今まで自分が気にしていたことなんてとても小さなことなんじゃないかって気付いたんです。明日は学校で誰かに話しかけられたらどうしようとか、このまま友達がいなかったらどうなるんだろうとか。

自然に生きていくってこういうことなのかって分かった気がしたんです。それで旅行会社に入社したいって思ったんです。きっと私のような人も世の中にはたくさんいるはず。そういう人の目を外に向けて、私達日本人がとても小さな世界で小さなことに悩んでいるって気付いてもらう。このお手伝いがしたいって考えたんです。

それで何社も旅行会社の就職試験を受け、運よくフォーカストラベルから内定をもらうことが出来たんです。

ただ入社後は今までとなんら変わりのない世界でした。同僚は人の悪口に花を咲かせ、新しい噂話をでっち上げて敵を作り自分達グループの仲間意識を強くしていく。私は今までと同様すぐに彼女達の敵になってしまいました。ただタイの旅行後、今までと違うのはそれはしょうがないと思えるようになりました。私は私で、人の悪口を言ったりしてまで誰かと仲良くしたいとは思わなくなりました。私は仕事をするために出社しているのだから、そこで仲間外れになっても別に構わないと。同僚達の仲間に入るために旅行の仕事をしているんじゃないんだって思えるようになったんです。だから仕事は本当に頑張っていたつもりでした。そんな時桜井さんからお前の旅行はつまらないなんて言われて、凄く悔しかったんです。本当にプライドと言うか人生を全否定されたような気がしたんです。

それでしばらくして気が付いたんです。私は桜井さんのことばかり毎日考えているなって、ひょっとしたらこれが恋なのかなって。漫画にも良くあるじゃないですか、大嫌いな意地悪をしてくる子の意外な一面を知ったり、偶然やさしくされて急に恋が芽生えるパターン。それで男の子は言うんです。実はお前に意地悪をしていたのは、好きだったからなんて。

私と桜井さんの関係もそういうものだったと思います。けど笑っちゃいますよね、もうすぐ三十歳になる私の初恋がこんな子どもめいた感じで。しかも桜井さんは結婚もしていて子どももいる。


つまらない旅行の計画を立て始めたころから二人の関係は始まりました。最初私はつまらない旅行を桜井さんへの仕返しとして考えていました。けどいつのまにかそれは桜井さんに最高のつまらない旅行を提案することで、彼から認められたいという意識に変わっていっていることに気が付きました。


だからか私は取調べを何日も受けていましたけど、桜井さんが亡くなって寂しくて何かを供述するどころではなかったんです。結局最後まで奥さんのことを考えて不倫のことは言い出せませんでした。お子さんもいますしね。

ただ桜井さんがいなくなってしまって、心に何かポカンと穴が空いてしまったような感じなんです。私は彼を愛していたんだなって気付きました。それで今日は会社も辞めたことですしちょっと一人で旅行に行こうと思って」


「……旅行はどちらに行かれるんですか」

嘉子はこの話が暗くなる一方であったから、あまり踏み込むべきではないと思い、差し支えのない話題に戻したかった。田中の言うところの気持ちとロジックは分かるのだが、やはり不倫は認められないという思いもあった。


「前回と同じです。つまらない旅行です」

「今はタイが安いってポスターに貼ってありましたけど、なぜ思い入れのあるタイではなく、つらい事件の起きた足許山までわざわざ行くことにしたんですか」


田中は手に持つハンカチを目元に添えた。

「そこに行けば桜井さんがいるような気がして。まだ事件後桜井さんが亡くなったトンネルには行ってませんし、お花を添えようかって思っています。お墓には立場的に行けないので」


嘉子は不倫とはいえ大切な人を失った女性の気持ちには共感することが出来た。生憎自分にはそういう人は今のところいないが、理解できる部分はあった。

そしてふと田中慶子にはもう会えないかもしれないと直感した。不倫というあまり好ましくないことの真実まで詳細に話してくれた人に、次は何と言って会えばいいのか分からなかったからだ。よって事件についての彼女なりの解釈が訊ける機会はこれで最後かもしれない。

但し彼女は目の前で涙を流し憔悴した態を覗かしている。彼女に自分の掴んでいる話をするタイミングは今なのだろうか。少し考えた。


「実は私も先週つまらない旅行に行ってきたんです。どうしても田中さんが犯人じゃないということを証明したかったのと、私の計画した旅行で起きたことですから。会社の手配した探偵と一緒になんですけどね」


「ひょっとしてそのおかげで私が釈放されたんですか」

「それは分かりませんし、残念ながらまだ真犯人も分かってないんです。ただ田中さんが警察から出て来られたのは凄く嬉しかったです。田中さんが殺人なんかする人ではないと私は確信していましたから。それに私の人を見る目って結構当たるんですよ」


そう言って嘉子は微笑を田中に向けると、鞄から探偵レポートを取り出しテーブルの上に載せた。

「ちなみにこれが探偵の調査結果です。中を見れば田中さんの知りたい情報も書かれていると思います。例えば桜井さんの当日の行動とか推測される犯人の情報や特徴などです。しかし田中さんが知りたくない情報も書かれていると思います。桜井さんの身辺のことや具体的にお亡くなりになった状況や死因などです。見るも見ないも田中さんに決めてもらえればと思っています。もし田中さんが事件の真相についてある程度知りたいのであれば、ご覧になってください。何も知りたくない。このままご自身で事件を消化されたいというのであれば、私はこれを持ち帰ります」


「私にこれを見るか見ないかを決めろってことですか」

「もしこちらをご覧になるのでしたら、私も事件の真相の究明にご協力させてもらえればと思います。私は白黒付けたいんです。こんな田中さんを犯人に仕立てた人が許せないんです。

それに弊社の旅行中に起きたことですから、旅行中のトラブルには最後まで責任を持って対応したいというプライドもあります。それに事件の詳細を知れば、私と同じで少しは今のもやもやした気持ちがスッキリするんじゃないかって思って」嘉子は笑顔を見せる。


田中はテーブルに片手を伸ばし資料を手にした。そしてそれを膝の上に置くと、表紙をじっと眺める。


「こちらは原版のコピーですから、お持ち帰りいただいても構いませんよ、それではそろそろ出ましょうか」

嘉子は資料を自分に戻されないように話を自然を装い強引に一つ先に進めて、カップに残っていたラテを飲み干すと、帰り支度を始めた。目の前で田中が資料を鞄に入れているのが見えた。


そして嘉子はカフェを出ると、田中と別れ地下鉄の駅へと歩いていった。資料を田中に渡すことは出来たのは良いが、多少の不安もあった。内容の一部は彼女にとって辛く感じるところがあろうからだ。

吉田真理子と桜井の浮気や、誰かが田中を陥れるために彼女の名前で桜井が前日泊まった駅前ホテルを予約していたことだ。

彼女がしっかり状況を受け止められれば良いのだが、嘉子はそう願った。間違えても深刻に受け止めすぎて、ショックで立ち直れないということがなければ、そう願った。


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