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幽霊トンネル

 その日の朝、嘉子と探偵の細谷は長野の旅館ホテルマウンテンの食堂で朝食を取っていた。朝食といってもトーストと目玉焼きに簡単なサラダだけではある。

窓からは「高圧危険」と書かれた高さ三メートル程のタンクと、以前使用していたと思われるペンキが所どころはげた赤茶色の小屋が見える。

昨夜は時間も遅かったので眺められなかったが、ここからの景色は殺風景という表現が好ましいだろう。


「タンクを何かでちょっと覆い隠すだけでも、朝食の雰囲気はマシになるだろうに……」

嘉子は昨夜の温泉の湯温に続き、再度ホテルマウンテンの質に疑問を感じた。


「あのタンクでお湯を沸かしているんでしょうかね。お湯がぬるいのもあのタンクのようなボイラーの燃料をケチっているからでしょうか」

細谷は自説を嘉子につぶやいた。どうやらこの一帯に温泉が湧いているのは確からしいが、湯の温度が摂氏三十度程度であるために、ボイラーで一度沸かす必要があるとのことだ。確かに燃料代は節約する必要はありそうだ。食堂には嘉子以外の客の姿が見えなかった。


「ごちそうさまでした」


こうして食事を終えた二人はチェックアウトを済ませた。つまらない旅行のスケジュール通りにフロントで九時半を待ってから、タクシーで旅館から幽霊トンネルまで向かった。


トンネルには十時十五分に到着した。

なんてことはない長さ三十メートル程度の二車線のトンネルだった。

しかしスプレーでの落書きがやはり気になる。あたり一面に誰を殺すや犯すとか、何月何日に誰々が参上したなどが書かれていた。


トンネルの落書きに事件と該当するものがないかを念のためチェックした後、細谷は嘉子に確認した。

「このトンネルって昼間も幽霊が出るんですか」


「雑誌にそう載ってたんです。但し確か幽霊が出るのは夜だったと思いますけどね。

昼に来るからつまらなさが倍増する予定でした。なんでもこのトンネル付近で殺された人がこの世に未練があるらしくて。一九七〇年代だったと思うんですけど、三角関係のもつれから男が彼女に殺されたとかで」

嘉子は上を向き天井付近まで書かれた落書きをぼーっと眺めながら細谷に説明した。


「それって、今回のケースにそっくりですね、幽霊の彼女は保険金を手に出来たんですかね」

細谷はさりげなく一人つぶやくと、嘉子の返答を待たずしてトンネルを抜け山道を奥へ上っていった。


嘉子も小走りに細谷の後を付いていく。トンネルから百五十メートル位は歩いただろうか。「あの細谷さん、桜井さんが落ちた現場ってこの近くなんですか」


「ここだと思いますよ」

そう言って細谷は足を止めた。道路と脇の崖を仕切るガードレールがちょうど途絶えている場所に熊出没注意と書かれた看板が立っている。ただし、残念なことにこの看板にも落書きが施されており、「熊」ではなく「変態」と修正が加えられていた。

嘉子は日本人の質に疑問を覚えると同時に、怒りを覚えた。公共のものに落書きをする神経がわからなかったのだ。


細谷が嘉子を促す。「ほら、この下見えますか。花束が置かれているの」

そうして嘉子は細谷の腕にしがみつきながら、恐る恐る崖の下を見下ろすと、確かに20輪ほどの菊の花束が岩場に添えられているのが見えた。崖の下には水がしぶきを上げて流れ下っている河原があった。1メートル程度の岩がごろごろしている。


「ここで桜井和人は何者かに突き落とされたか、もしくは自分でうっかり足を滑らせて落ちたか、自主的に落っこちたということで間違いないと思います」


「ていうかそれって全ての可能性ですよね。というかひょっとして細谷さんも事件の真相ってまだ分かってないんですか」嘉子はきょとんとした目で細谷を疑った。


「昨日もお話したとおり大体の見当はついてます」


「じゃあ一体誰なんですか。犯人は田中さんではないですよね。だってほら団体でこのトンネルまで来てるから、それがアリバイだと思うし」


「そうですね。ポイントはなぜ入社八年目の中堅社員の田中慶子がいじめられていたかと、嘉子さんが言う彼女が最近徐々に明るくなってきた理由です」

細谷は悟ったように嘉子に答えた。


「すみません細谷さん、言っていることが良く分からないのですが。田中さんが明るくなったのは、みんなから自分で立てた「つまらない旅行」プランが面白いと高評価を受けたからじゃないんですか」

嘉子は田中が明るくなって来た理由には自信を持っていた。それだけに反発する。


「だとしたら長野駅から旅館までのバスであのようないじめをされるわけがないですよね。すなわち同僚達にとって田中慶子に何かしら気に食わない点があったと推測されるべきです」


「べきですって言われても私探偵でも刑事でもありません」

嘉子には不思議な怒りがこみ上げた。自分の推理が覆されたことに、実際探偵でも刑事でもないが、プライドを傷つけられたような気がした。


細谷ははっとして弁解をする。

「すみません言葉尻失礼しました。正直に話しますと我々の調査では田中慶子も桜井和人と不倫関係にあったとつかんでいるんです」


「田中さんがですか」

嘉子は田中の容姿から、とても不倫などをするタイプに見えていなかったため、声が裏返ってしまった。

また自分の知っている人がテレビドラマでした触れたことのない不倫をしていた現実も彼女には衝撃的だった。


「そうです。少しがっかりされたかもしれませんが、それで同僚からの風当たりも強くなり……。ただ田中慶子個人は不倫とはいえ恋によって徐々に明るさを取り戻したと考えています」


要するに嘉子が理解した細谷の話はこうだった。

最近田中とも不倫関係を始めるような前向きな人生を歩む桜井が自殺する理由はない。また、わざわざ旅行二日目に同僚とは別に、そして一人でトンネルに行った理由は、誰かに呼び出された以外考えにくいというものだ。

また桜井を呼び出した人と殺害した人が別であったかもしれないが、殺害現場を調べても証拠は今のところ何も見つけることが出来ない。

いずれにせよ社員達がトンネルでは常に一緒に行動をしていたとの裏づけがあるため、実際の殺害に吉田真理子が加担したことは考えにくい。ただ殺害現場まで桜井を呼び出すことに加担していた可能性はあるとのことだ。


「ところで嘉子さん、桜井和人が亡くなって得をする人は何人思いあたりますか」細谷は今度はなんちゃって探偵のプライドを傷つけないように、今度は自分の意見を言う前に先に彼女にお伺いを立てた。大きな目をした美人が笑顔を向ける。


嘉子は少し考える。立ちながらバッグから自前の手帳を取り出すとはらはらとめくり難しい顔をする。

「三人だと思います。一人は桜井和人の奥さんである幸子さん。旦那がいなくなれば保険金がもらえますからね。それに旦那の浮気のことも知っていたでしょうし、というのも何かの証拠はなかったとしても、最低でも女のシックスセンスで感づいていたと思います。

それに彼女も幼稚園の先生の角田さんと浮気をしてたんですよね。ひょっとしたら逆に幸子さんの不倫が桜井和人さんにバレていて、逆に彼から離婚プラス子どもの親権を迫られていたとも考えられますよね」


「嘉子さん。いい線いってますね、後の二人はちなみに誰ですか」


「後は、桜井和人の浮気相手の吉田真理子さん。桜井和人が奥さんとなかなか別れてくれなくてそれでって考えられますよね。

それと最後は角田さん。彼は桜井和人がいなくなれば、奥さんの幸子さんと幸せになれますから。しかも保険金の一億円付きですしね」


「するどい洞察力ですね。嘉子さんも田中慶子が犯人である可能性が非常に低いことがお分かりになったようですね」

細谷は素直に嘉子の推理のレベルの高さに驚いた。そして軽く拍手をする。


「田中さんの疑いが晴れてほんと良かったです。けど田中さんが例えば誰かに殺人を依頼したなんてことはないのでしょうか」


細谷は予想外の鋭いつっこみに唖然とした。それでは駄目だと前髪を掻き揚げ少し状況を整理し「桜井和人が亡くなって田中慶子が得をすることってなんでしょうか。ましてや予てからの吉田真理子との不倫とは違って、つい最近桜井と関係が始まったばかりですから、桜井への愛情も殺意を抱くほどの深い段階に達していなかったと考えます。よって奥さんと別れるかどうかでモメるには少し時期早々と思っています」


「となると……」

今度は嘉子は頭が混乱してきた。手帳をめくる手を止めて、天を仰ぐ。

「えっと……だから田中さんは桜井和人さんが好きだったから殺す理由は無いわけで……」


ここで嘉子ははっとした。当初の自身が捜査に加わった目的を思い出した。

「というか田中さんを早く釈放してもらうにはどうしたらいいですか」


「また警察にタレ込みますか」そして細谷はニヤリと嘉子の方へ顔を向けた。


「おそらく警察も既に把握していると思いますが、昨日は吉田真理子の不倫でしたから、今日は角田元と桜井幸子の関係をいっちゃいますか」


そういうと細谷は携帯電話を鞄から取り出し何やら打ち始めた。

「タレこみ完了いたしました」



嘉子と細谷は殺害現場の崖を下り、桜井の死体が横たわっていた谷底を念のため一通り見ることにした。辺りの岩場にはわずかではあるが茶褐色に染まっているところを見つけた。

細谷曰く桜井の直接の死因は崖下の岩に頭を強く打ち付けたことによるものとのことで、他に外傷も見当たらなかったとのことだ。


結局ここでは現場を見ただけになってしまった。何一つ新しい証拠は手することが出来なかった。


「この後ちょっと行きたいところがあるのですが」細谷は言った。

「というのもトンネル以降の現場検証は不要と考えています。既に事件が起きた後のことですからね。旅行プランとは別に他に気になるところがあるんですが、行ってもよろしいでしょうか」


「登ったら民家のある山には行かないってことですか。足許山って名前だったかと思うんですけど」


「そうです。それよりもどうも長野駅前のホテルに事件前夜田中慶子という名前で誰かが宿泊されてたようなんです。田中慶子かもしれませんし、他の誰かが故意に彼女の名前を使用したのかをちょっと調べたくて」


嘉子は足許山には少し行ってみたい気もしたが、結局待たせてあったタクシーに乗り込み、駅前へと向かった。タクシーを待たせた理由はタクシーの運転手曰く、観光地でもないここでは流しのタクシーが拾えないとのことだからだ。また駅前タクシーはメーターが近距離用に設定されているため、ここまで迎えには来てくれないとも言っていた。



二人は駅前のホテルに正午前に到着した。

細谷は髪を後ろでまとめた制服姿のフロントの女性に、黒い手帳のようなものをさっと見せ会釈をした。すると女性は急に畏まったように見えた。

ビジネスホテルといった感じで、フロントの前には談話用のテーブルが一つだけ置かれていた。


「お忙しいところすみません、この人たちに見覚えはありませんか」

見せたのは田中慶子、桜井夫婦、吉田真理子、角田元の顔写真五枚だった。


女性はじっと写真を見ている。

「すみませんがちょっと覚えていません」


「それでは、こちらのホテルに監視カメラはありますか」


「あっ、そうですね。それでしたらこちらへどうぞ」

二人は女性に案内されフロントの奥にある部屋に通された。嘉子は突然の訪問にもかかわらず、女性がやたら自分達に親切に対応をしてくれるのが気になった。


「七月二日の夜なのですが」細谷は女性に指示をすると、ホテルの責任者と思われる四十歳位の髪がガチガチにポマードで固められた男性を呼んできた。


そして男性は細谷の隣にあった移動式のイスをパソコン画面の方に寄せ、マウスを使って監視カメラの履歴を検索し始めた。

「うちのカメラは入り口にしか設置してないんですよ。ちょっと経費の関係もあって、すみません」


嘉子と細谷は客が入ってくる度、監視カメラの再生画面を一時停止し細かく覗き込む。


「あっ、この人」

嘉子は桜井和人らしき人物を見つけた。時間は午後十時三十分だった。


「あれっ、一人で来ましたね。もう少し状況を見てみましょうか」

細谷はいたって冷静に画面を見ている。


そしてしばらくすると、帽子を深くかぶった田中慶子らしき人物がカメラ脇に写った。午後十時四十五分。ホテルに入るなりフロントには行かず直接エレベーターの方へ小走りに通り過ぎていった。そして一時間十五分後の午後〇時、やはり一人で今度はエレベーターから玄関方面へゆっくり歩いて行くのが見えた。


嘉子は監視カメラの時間を手帳にメモしながら訊いた。「桜井和人は出てきませんね」

すると男性ホテルマンが状況を説明し始めた。監視カメラのパソコンデスクに広げられた五枚の写真を見て何かを思い出したようだ。


「この人は多分翌日の朝チェックアウトされましたよ。」そう言うと立ち上がって、一旦フロントに戻り何かを持ってきた。

「ほら、これは当日の彼の宿泊カードですが、実は私はその日のことよく覚えているんです。私はこの日夜勤でフロントに立っていたんですけど、この方ワインを三本も頼まれましてね。ここって、ビジネスホテルじゃないですか。そもそもワインを頼む方って実際ほとんどいらっしゃらないんです。ただホテルとしては念のために欲しいとおっしゃる方のために在庫は持つようにしてるんですけど」


「それでチェックアウトの時はお一人でしたか」


「そうです、大体朝の九時過ぎだと思いますよ。ちょうど私の夜勤も終わる時間だったので。お一人で何やら慌てた様子でチェックアウトされて行きました。

それでタクシーを呼んでくれといわれましたので、駅前にたくさん止まっているのでそちらを利用していただいた方が早い旨をお伝えしました。

女性の名前ですから明らかに彼ではありませんが、田中慶子さんという名前で予約されてます、ほら」

そう言って宿泊カードを細谷に差し出した。


細谷はカードに書かれた連絡先の電話番号を手帳に控えると、広げた写真などを鞄にしまい込み席を立つ準備を始めた。

「すみません刑事さん、何か事件でもあったんでしょうか」フロントの女性がとっさに声をあげた。


「そうですね、訊き込みの背景について何も申していませんでしたね。彼はチェックアウト直後に近くの崖から転落され亡くなりまして。ご協力ありがとうございました」

細谷が荷物を整理しながらさりげなく言うと、女性はきょとんとした顔をしたまま、動かなくなってしまった。


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