殺人事件発生
アジサイの花が街角を様々な色に飾る頃。すなわち毎日朝から晩まで雨が降り、部屋の中に湿気でカビが生え始めるこの頃、佐野嘉子に事件は起こった。
それは嘉子がいつも通り旅行代理店のカウンターで客の来店を待つ午後二時過ぎのことだった。後ろから自分の名前を呼ぶ上司の声が聞こえてきた。
「佐野さん、お客さん来てるからちょっと奥まで来てくれるかな」
何かクレームでもあったのだろうか。嘉子は恐る恐る事務所控え室に入った。
「失礼します」
そう言ってドアを手前に引くと、間から二人の社会人ルックの男性が見えた。
「始めまして、警視庁捜査一課の三田と申します。んでこっちが林です」
二人は軽く頭を下げ形式的な挨拶をしてきた。三田の頭はカチッと七三分に整えられ、ビシッとしたダブルのスーツを着ている。三十五歳くらいだろうか。
「刑事さんですか」突然の刑事の訪問に嘉子の体は硬直していた。背筋がいつも以上にしゃきっと伸びている。
「いやぁお忙しいところすみませんね、それであのちょっとありましてね……」
三田の隣に立つ短髪のすらっとした大学生のような男が落ち着き無く休憩室を見回している。これが林だ。こちらはクールビズスタイルだ。半袖のワイシャツをさわやかに着こなしている。
「田中慶子さんご存知ですよね」三田の話をさえぎる形で林から嘉子に唐突な質問が投げかけられた。
三田は若手の林に話を持っていかれたからだろうか、イラッとした表情を浮かべている。
「私のお客さんの田中さんのことでしょうか」
嘉子は田中慶子という名前を良く覚えていた。彼女は「つまらない旅行」のクライアントだったからだ。
「そうだと思います。先日長野県の足許山へ旅行に行った彼女です。実は彼女が手配した旅行中に殺人事件がありまして」三田は話の主導権を林から取り戻す。
「えっ、ということは……」
「そうです、旅行から帰って来て次の日、つまりは七月四日の朝、彼女の上司である桜井和人が長野の崖下で遺体となって発見されました。但し彼は旅行二日目の七月三日の午前中から姿が見えなくなっていたようなんですけどね」
嘉子は自分が手配した旅行で殺人事件が起きたことが、余りに唐突で状況が飲み込めない。
「どうですか、旅行に行く前の田中さんに何か気になるところとかありませんでしたかね」
三田は嘉子の顔をじっと観察するように見つめる。
「おかしいところというか、元気の無い方だなとは感じていました」
「ただ……」
状況と気持ちの整理もつかないままではあるが、嘉子は何かしら言葉を発さなければならない場の抑圧を感じていた。
「ただどうしたんですか」林は横から強い口調で突っ込む。
「田中さんが犯人ということですか」
「まだ断定できていません。取り調べ中ではありますが。ただ事件が起きた旅行は田中さんが手配されたものですからね。念のため旅行をコーディネートしたあなたにも確認しているだけですよ」
そして嘉子はたどたどしくではあったが、必死に一通りの田中慶子との過去のやり取りを刑事達に話した。
すると林は三田にこっそり耳打ちを始めた「田中慶子の動機は十分にあったといえそうですね」
「あぁ、桜井の田中慶子に対する日ごろの態度はパワハラと言えるかもしれないな。それに被害者の死因は転落死だからな」
「そうですね、突き落とすだけなら力のない女性の田中でも絞殺なんかとは違って無理なく出来ますしね。
けど死亡推定時刻は午前十時から十一時の間じゃないですか。田中にはアリバイがあります。彼女は同僚達と一緒にトンネルを見学してたということですし」
「確かにトンネルにいた頃だよな……あっすみませんこちらの話で」
三田は林との会話は嘉子にまる聞こえになっていた。何せ事務所の休憩室は二人入ればいっぱいになってしまう広さだからだ。二人の刑事は場所もわきまえず一般市民の前で熱くなってしまっていた自分達が少し恥ずかしく思った。
嘉子は聞こえてきた刑事達の筒抜けの会話に、一種の違和感を抱かざるをえなかった。
なぜなら、どうしても田中慶子が人を殺すような人に思えなかったからだ。確かに彼女は上司の桜井を嫌っていたとは思うが、それはただ仕事上のささいなことに起因するものであったと聞いていた。
また日ごろの恨みがどれだけ積もっていたとしても、その仕返しに当たるのが今回の旅行だったはずだ。最終的には上司を旅行に行かせることも出来たわけだし、既にその恨みは晴らされていると考えるのが自然だと思った。
初めて会った頃の田中は確かに暗く写ったが、旅行の打ち合わせで何度か会っていくうちに、少しずつその態度が明るくなっていくようにも感じていた。
「佐野さん、他に何か思い出したこととか、気付いたことありますか」三田は嘉子に訊いた。
「あの、田中さんの動機っていうか仕事上のちょっとしたことで……、それ位で人を殺してしまうというのはどうもおかしい気がするんですが」
林はため息を一つつくと、ポンと片手を嘉子の肩の上に乗せた。
「上司からの心無い一言とかでも最近は人を殺してしまったりそんなご時勢なんですよ。それに刑事ってのは例え可能性が低いにしても洗いざらい調べるのが仕事なんでね」
「お前新人のクセにわかったような偉そうなこと言うな」
三田は林の態度が気に食わなかったようで、突然声を荒げた。
嘉子は目の前の刑事達のやりとりを気にすることなく、あごに手をあてて思慮に耽る。
やはり田中が殺人に至った理由が不可解でならなかった。
「だとしたらその上司って、桜井さんっていう方ですよね、他の同僚からも同じような恨みをかっていたということはないんでしょうか。私にはどうしても田中さんがやったとは思えないんですが」
「ちなみに佐野さん、お聞きしづらいのですが、あなたのアリバイは。すなわち七月三日午前十時から十一時までどちらにいましたか。」三田が嘉子に訊いてきた。
「私のアリバイってことですか」
嘉子は声が大きくなってしまった。自分まで疑われるとは。あまりに唐突で思考の整理が間に合わない。
「えっ、その日ですよね。私は会社にいました。それで、あのっ、みんな知ってます、私が会社にいたこと。だから、犯人ではないです」
嘉子はかなりの早口になってしまった。不自然な対応をしてしまい犯人に疑われたのではないかという失敗感が彼女を襲った。
「いえ、いいんですよ。佐野さんのことを疑っているわけではありませんから。ただ先程も言いましたけど、刑事の仕事ってそういうものなんです」
「ほんと因果な商売ですみませんね」
そう林が言うと、嘉子は少しほっとした。
ただ三田は林の出しゃばりっぷりが気に食わないようで「だからお前が偉そうなこというな」と今度は林の耳元でささやいていた。
そして二人の刑事は軽く会釈をすると、店舗から出て行った。
嘉子はとりあえず会社に関ることだし、事件の経緯など全く腑には落ちていないが、上司にこの旨を報告することにした。
その後嘉子はカウンターに戻るも田中とは旅行の打ち合わせで何度も会っているからか、他人事とも思えず、気になって仕事が手に付かなかった。
「ただいま」
嘉子は午後九時過ぎにこの日の勤務を終え東京の世田谷にある自宅に戻った。自宅というか実家暮らしをしている。
未婚の嘉子はここで自身が勤める旅行代理店の社長である父親の弘忠と専業主婦の母親と三人で暮している。整理された高級住宅街の一等地に構える一戸建ては地下一階の三階建てで、父親が十五年ほど前に購入したものだ。現金で一括で買ったと豪語しているがために、近所の奥様連中からは、成金屋敷と呼ばれている。
ちなみに高さ二メートルはあろうかという有刺鉄線付きの塀に囲まれている。近所の子ども達からは、暴力団の組長の屋敷と恐れられてていた。
嘉子は三十平米の正に西洋風と言うにふさわしいダイニングで、母の作った肉じゃがを夕食に一口二口箸で含んだ。今日はいろいろあったし食事という気分には到底なれなかった。
食事もそこそこに自分の部屋のある三階まで階段で上っていく途中「よっちゃん、ちょっと来なさい」二階にある父親の書斎から、嘉子を呼ぶ声が聞こえてきた。階段を上る嘉子の足音が父親まで届いていたようだ。よっちゃんとは嘉子のことだ。弘忠は嘉子のことをいつまでも子ども扱いしていた。
「何か用」
「こらよっちゃん、部屋に入るときはノックぐらいしなさい」
ノックしろだとか、マナーだどうだと言う割に、父親は偉そうな机のえらそうなイスにふんぞり返って座っていた。嘉子は父親のこういうところが好きにはなれないが、あきらめるというか今更どうでも良いかと思っている。
「今日刑事が会社に来たらしいじゃないか」
「もう知ってるの」
「話の詳細は部下から報告を受けたよ。うちの会社の手配した旅行だからな、評判に悪影響が出るかもしれないだろ」
「お父さん、ちょっとそれなの最初の一言。私警察に疑われたんだよ」
嘉子に溜まっていた何かが涙となって目から流れ出した。
「私ね、今凄く辛いの。分かる。
確かに私は短大卒業したはいいけど何処にも就職出来なくて。それでお父さんのコネで今の仕事に就いたんだけど、ちゃんと真面目にやってるつもりだし好きなのこの仕事。今回の旅行だってお客さんの要望に添えるようにちゃんと考えてプラン作ったの。けどその要望ってのは殺人計画を実行するための要望かもしれなくて、私はそれを提案してたってことなの」
嘉子の感情は止まらない。腰の辺りに添えられた拳を強く握る。
「まだ田中さんが犯人って決まったわけじゃないみたいだけど、いずれにしても誰かが私の作ったプランを利用したのは間違いないでしょ。もう本当に悔しくて……。それに田中さんがそんなことする人じゃないって私信じたいの。もうお父さん一生私に構わないで」
バタン。
嘉子は父親の書斎のドアを勢いよく閉めると、自分の部屋へと駆け上がっていった。ドアを開け、ベッドに思い切り飛び込んだ。
激しく泣いたこともあり、少し気持ちが落ち着いて来た。嘉子は目に多少残っている涙越しに天井を見つめながら今回の旅行プランを振り返る。どうして真面目に仕事をしているのに、こんな辛いことが起きるのだろうか。
お客さんに喜んでもらうために一生懸命考えた旅行プランが結果的に悲劇を生んでしまった。そして田中さんも巻き込まれてしまっている。
考えれば考えるだけやりきれない思いが嘉子の中から湧き出て止まらない。この夜はほとんど眠りにつくことが出来なかった。
翌日、嘉子の意識は睡眠不足と晴れない気持ちで朦朧としていたが、いつも通り午前十時に出社した。
「佐野さーん、お父さんがお呼びだよ」
嘉子がカウンターに座ろうとした時、後ろの方から上司の声が聞こえた。
「私行きません。以上」嘉子はむっとしながら声の方を見ることなく即答した。
父親といざこざがあった翌日は大抵こうなる。父は会社の権力を使って無理やり私と話しをする場所を作るのだ。嘉子はこのやり方にはつくづくうんざりしていた。
すると上司は焦って嘉子の元へ駆け寄ってきた。
「ちょっと佐野さん、頼むよ。もし佐野さんが行ってくれないと今度は俺が上司から呼び出されるって知ってるでしょ。こないだの何だっけか、犬を飼う飼わないのケンカの時だってさ……」
「わかりましたよ」嘉子は吐き捨てるように言うと、のそっと立ち上がり上司の方を向いた。
父親への苛立ちが増幅するも、上司には日ごろからコネ入社の自分に対しても他の社員と平等に扱ってくれている感謝もあった。よって上司の面子のため、全く行きたくはないが呼び出しに応えることにした。
但し額にかかる前髪を掻き上げると、目を細め軽く睨みをきかせた。
「そんな目しなくたっていいじゃんか佐野さん、頼むよってかありがとね」
上司はひと段落に胸をなでおろした。
嘉子は先ほど着替えたばかりの制服をまた私服に着替え戻すと、勤め先の店舗から電車で一駅行ったところにあるMGTトラベル本店に向かった。五十五階建ての高層オフィスビルからは東京湾が一望出来る。本店事務所はこのビルの四十階のワンフロアを間借りしていた。
「お疲れ様です」
嘉子が事務所に入るとあちこちから挨拶が聞こえてきた。ここで働く人達は彼女が社長の娘であることを良く知っている。全員立ち上がり妙にニコニコしながら迎える雰囲気は未だに慣れることもなく、そして気にも食わない。
「全く、みんな上ばっかり見てさ、自分の仕事にもっと誇りをもって欲しいものだわ」
こうしてブツブツ言いながら彼女は茶色い木製の立派な社長室のドアの前に到着した。
嘉子はノックをし「失礼致します」と言って一礼してから部屋に入る。
会社では父親と接する時、意識して家族関係を持ち込まないようにしていた。仕事だからだ。
部屋に入ると父親と、見知らぬ一人の女性が部屋の真ん中にある応接セットに腰かけていた。
「おーよっちゃん、来てくれたか」
社長は立ち上がって、嬉しそうに両手を広げ嘉子を迎い入れた。
「社長、失礼ですがその呼び方は止めていただけないでしょうか」
「何言ってるんだ、よっちゃんはよっちゃんだろ」
「あの、ここは会社ですから佐野と呼んでいただければと思います。さらに社長の命令ですから、私がここへ来るのは当たり前です。それで用件はなんでしょうか」嘉子は挑戦的な目で、社長の寵愛をさらりと返した。
「よっちゃん、そんな固いこと言わないで欲しいな。お父さんな昨日のことを謝りたくてさ……」
「それ位のことで呼び出さないでっていっつも言ってるでしょ」
こうなることは分かっていたし、あきらめている部分もあったが、しつこい対応にさすがに嘉子も憤った。
「もう何なの。私忙しいの、分かるでしょ。今私がカウンターから抜けているから、他のみんなに迷惑かけてるの」
「まぁいいじゃないか、すぐに終わるさ。何より大事な話があるんだ。昨日お父さん反省したんだ。よっちゃんがどれだけ辛かったかってことをな。それなのに会社の利益を守るためとはいえあんなこと言ってしまってごめんな」
社長は嘉子の肩を軽くたたいた。
「ちょっと、やっぱりその話ですか。私はもういいよ、お父さんはお父さんでそういうお父さんだってあきらめているから」
「いやっ、違う違うんだ。それでよっちゃんの気持ちを少しでも早く和らげたいって思ってな。この方は探偵の細谷さんだ」社長は女性を紹介すると、彼女は腰掛けていたソファーから立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。嘉子もつられて一応の会釈をした。但しやはり社長の進め方には納得がいかない。
「だから何なんですか。私は別に社長に解決して欲しいとかそういう風にも考えないですし、私の気持ちを汲んで同情して欲しいなんて尚更思っていませんけど」
「よっちゃん、これは昨日の夜お母さんと話し合って決めたことなんだ」
社長はゆっくりと海が見渡せる大きな窓の方に歩いて行く。
「これから話すことはな、とても大切なことだから良く聞きなさい」
「実はな、会社の私宛にこんなものが届いていたんだ」
社長はスーツの胸ポケットから白い一通の封筒を取り出した。
「読んでみなさい」
嘉子は足早に社長の方に近づくと、手元から封筒をふんだくって、中を開いた。するとパソコンで打たれた一枚の紙が三折りになって入ってた。
「MGTトラベル社長様 御社が手配した足許山旅行中に悲劇が起こります。免れたければ全て中止とすべし。7月1日 田中慶子」
「何これ」
嘉子は書かれている行き先と日付を見て、これが自分の提案したあの「つまらない旅行」のことだとすぐにわかった。
「なんでこんな大事なこと今まで言ってくれなかったの。てか警察にはちゃんと届けたの。今何で手元にあるの」
社長は嘉子の剣幕にたじろぎながらも説明をする。
「実は今までもこういうことがたまにあってな。旅行に行きたくない人からやライバル社からの嫌がらせだったりといろいろな。今までは警察に届けていたんだが、調査の結果はいつもこういった類の連中からのものだったという経緯があって、今回は特別何もしなかったんだ」
「ちょっと……」
嘉子の目が手紙を最後のまで読み進めたところで再び止まった。そして父のやり方に更なる激しい憤りを感じた。
「しかも田中慶子さんって私のお客さんじゃないの、何でこんな大事なこと今まで私にも黙ってたの。理解できない」
「黙っていて悪かったとは思っているよ。ただ事前に話したらよっちゃんが心配するだけと思ってな。何も起きないもんだろ、普通さ。
それに今更警察に実は事前にこんな手紙を受け取ってましただなんて話せないだろ。会社は事前にこういった情報を得ていたにもかかわらず何も対策を取っていなかったなんてマスコミあたりに報道されてみろ。それこそ一大事だ。
我社の従業員は派遣社員を含めて千人だぞ。全員路頭に迷ったら大変だと思わないか」
「大変だと思わないかって言われても、大変に決まってるじゃない。ていうか今からでも警察に言うべきだと私は思うし。隠蔽していたことが発覚した場合の影響の方が大きいじゃない」
「まぁ、そういうなって。この手紙は受け取っていないとすると決めたんだ。そう、お母さんとな」
嘉子は母親の名前を出せば自分が納得すると思っている父親が大嫌いだった。爆発寸前の怒りを必死に抑える。ただ自分が社内にいることを思い出し、口調を必死に敬語に戻した。
「ああそうですか。分かりました。一社員の私が社長に意見をしてすみませんでした」
「まぁ、そんな怒るなよ、よっちゃん。それでこの細谷さんに来てもらったというわけだ。それでは佐野社員協力してくれるかな。もうよっちゃんの上司には話を通してある」
「協力とは具体的に何をすれば良いのでしょうか」
嘉子の素直な発言とは対照的に、顔つきは依然引きつっている。会社の危機だということは分かった。ただどうしても社長のやり方が気に食わない。
「つまりだな、警察の通常の捜査に細谷さんの独自の調査をプラスして行うことで、事件の早期解決を目指すプロジェクトということだ。早期解決すればそれだけ余計なところに捜査も及ばなくてすむだろう。よって佐野社員は今日付けでカウンター業務を外れて、秘書室付となる」
「そんなの勝手に決めないでよ。何考えてるのお父さん」
怒りが爆発している嘉子を横目に、社長はシングルベッド程の大きさの机のイヤミな革張りの椅子に腰を下ろした。腹の辺りで指を組み、そしてしばらく沈黙した。
社長は冷静な口調で話し始めた。
「よっちゃんのお客さんの田中慶子さんは何らかの事件に巻き込まれているってことじゃないかな。
本人がこんな手紙出すわけないだろ。これは誰が見たって濡れ衣なんだよ。彼女は今暗い警察の取調室の中で、どんな気持ちでいると思う」
「それは……」嘉子は少し冷静になって、自分の気持ちと状況の整理を始めた。
「警察だって暇じゃないんだ。昔お父さんも脱税容疑で捕まったことあるだろ。結局すぐ身の潔白を明らかにして釈放されたけどさ。警察は犯人を捕まえるのが仕事であって、本当の犯人なんて彼らからしたらどうでもいいことなんだ。お父さんは今でもそう思ってるんだ。その時はよっちゃんにも迷惑かけたよな。だから今回この怪しい手紙を警察にも渡さなかったっていうのもあるんだ」
「私だってお父さん信じてるよ。嫌なところだらけだけど、だって私のお父さんだから」嘉子は立ち尽くしながら困惑した目で社長を見つめる。
「じゃあ今回の田中さんの件も分かってくれたかな。よっちゃんの大切なお客さんと会社のためにな。よっちゃんもつらいとは思うけど協力してくれないか」
「うん……。いやっ、分かりました」
嘉子は父親のやり方が依然気にくわなかったが、プロジェクト業務を受けるべきなのではと考え直した。
自分が立てた旅行プランでのやりきれない思いをスッキリさせるには、今のところこれしか方法が思いつかないからだ。また真面目な嘉子はこの件に強く一社員としての責任も感じていた。
ただ探偵と一緒に自分が何を出来るのかという不安に包まれてはいる。
社長が口を開き、嘉子を激励する。
「この旅行プランはよっちゃんが考えたものなんだろ。だったら一番状況が良く分かってるはずだし、それと細谷さんは若いがこう見えてやり手なんだぞ」
ロングの髪に紺色の膝丈スカートが似合うきれいなお姉さんがニコリと嘉子の方を見た。
「嘉子さん、よろしくお願いします」
そして細谷は深々とお辞儀をした。
「けど、私探偵さんのお力になれるかなんて自信ないし、足手まといになるだけだって思うんですけど」不安げな嘉子の謙虚な態度に探偵は「大丈夫ですよ。細かい調査は我々が既に開始してますから。ここらへんはお任せください。それで嘉子さんには、何か思い出したこととかあれば教えてもらえればと思っています」
嘉子は「はぁ」と一通りの納得を見せるも、具体的に何をすれば良いのかが未だに理解できていなかった。ただ気持ちは前向きに変わっていた。この日の帰り道に文房具屋へ行き、手帳を新調することにした。