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追跡

 梅雨明けした今日の東京は、天気予報によると昼間の気温が摂氏三十九度まで上がるとのことだ。田中慶子が住む吉祥寺の郊外には駅前の雑踏とは違い、一つとして人影が見つからない。灼熱の太陽に焦がされる街並みには蝉の声だけが響いている。


この日は三田と林がいつも利用している車両が車検に出されるとの事から、移動手段を電車と徒歩でまかなわなければならなかった。あまりの暑さに署からここに来るまでの間、既に2本のペットボトルを開けていた。


「いや熱いですね、太陽がもろに皮膚に刺さりますよ。てかむしろ痛いって感じじゃないっすか三田さん」

「さすがに俺もダメだなこの暑さは。元が色白だしな」


田中が住むアパートの前に二人の刑事は到着した。アパートは外観が白で統一された二階建ての木造で、きれいに保たれていることから比較的新しいものに見える。


すると林が何かに気付いて声を発した。

「ちょっと三田さんあそこにいる人、MGTトラベルの佐野さんじゃないっすか。ほらあのつまらない旅行を企画した」

二人が立つ道路から佐野嘉子がアパート二階へ上る階段口から一番離れたドアのところでうろうろしているのが見えた。


刑事達は嘉子の下に向かいながら挨拶をした。

「佐野さん、でしたよね。お久しぶりです」

「あ、刑事さんですよね。えっと失礼ですがお名前は……」

「三田と林です。こっちの若いのが林です。今日はどうされたんですか。ここは田中慶子の部屋ですよね」


「101」とだけ掲げられた表札の前で嘉子は畏まった。

「いや事件でいろいろあったので、田中さんを元気付けようと来ました。あっ、携帯に電話しても繋がらなかったので、心配になって部屋まで来ただけですから怪しくないです」

また早口になってしまった。すると三田は目じりを下に落とし、意地悪く訊いた。

「怪しくないなんて自分から言うことほど怪しいことはないですけどね」


「我々の状況も佐野さんと同じですよ。田中さんからお話を伺おうと思ってです。彼女に電話をしたのですが電波の届かない場所にあるとかで、こうして直接会いに来たわけです。それで田中さんは不在なんですか」林が言った。


「そうなんです。何度呼び鈴を鳴らしても出なくて、それでもう十五分位ここにいるんですけど。ひょっとしたら買い物とかに出かけているだけかもしれませんが。いろいろと心配なことがありまして……」


嘉子は事の経緯を刑事達に話してみることにした。会社が隠蔽している旅行中止を迫る手紙の存在は、明るみに出さないように気をつけなければならないという事情はある。致し方ないと割り切る必要はあった。

ただ嘉子は今まで自分一人で頑張ってきたそれ故に、結果最悪の事態を引き起こしていないかが心配だった。それは田中が探偵の作成した調査報告を読み、吉田に対しての憎悪の念を抱くことで、何かあるべきでない行動を起こしてしまうことだった。


すなわち吉田が田中の名前でホテルを予約し、桜井幸子を呼び出したこと。そして吉田が桜井和人を突き落としたこと。恋愛関係にあった田中にとって桜井和人はきっとかけがえの無い大切な人だったに違いない。彼女にはきっと他に状況を相談する友人などもいない。だとすれば思いつめて吉田を殺害してしまうのではないか。嘉子はそう考えていたのだ。


すると突然嘉子の中でもう一つの可能性が浮かび上がった。

「刑事さん、ドアを開けてください」

「どうしました」

「いいから早く開けて、ドアを開けてください。中で田中さんが自殺しているかもしれないんです」

嘉子は突然甲高い怒鳴り声を上げながら、三田の両腕をつかみ、そしてゆすった。


林が大家と思われる初老のおじさんを連れて部屋に来るまでは十分と時間がかからなかった。男性が鍵を開けた途端、嘉子は部屋に押し入っていく。


「田中さんっ」

玄関で脱いだ靴はそのままに宙へ飛ぶ。そして嘉子は真っ先に部屋の中へ飛び込んでいく。


田中の部屋は一人暮らし用の1Kタイプだった。玄関を入るとフローリングのキッチンとバストイレに挟まれた短い通路がある。その奥には六畳ほどの洋室があり、ベッドとテレビそして部屋の中央には小さなテーブルが置かれていた。


「あれっ、いない」嘉子はそう言うと部屋を見渡した。ベッドの上にはいくつかのぬいぐるみがきちんとに並べられ、そして壁にはいくつものアニメのポスターが貼られている。

片付けられたテーブルの上には一通のカラフルなアニメ柄の封筒が置かれているのを見つけた。封筒には「お母さんへ」とだけ書かれている。嘉子は封のされた手紙を手にすると、封筒の端を力いっぱい無理やり破き、中に入っていた紙を取り出した。追随してきた刑事達も彼女の斜め後ろからそれを覗き込んだ。


「お母さんへ

私はとても悪い事をしてしまいました。それゆえ悪いことに巻き込まれ、これから悪い事をしようとしています。もう何もかも耐えられません。今までありがとう。私のことは忘れてください。

慶子」


嘉子は読み終わるとその場で膝をつき崩れ落ちた。嗚咽する声で部屋が埋まる。自分は何という酷いことをしてしまったのだろう。この部屋の住人をこれ程までに追い詰めてしまったのは紛れもなく自分の責任だと自覚した。

涙がどこまでも溢れ、続く。崩れ落ちたままこのまま二度と立ち上がれないと感覚がある。


ただ調査に協力して欲しかっただけなのに、自分の行動が田中の気持ちや置かれた状況も考えず、それがただ彼女を追い詰めてしまっただけになってしまっていた。余りに浅はかな自分。余りに自分勝手な行動。そして結果的に人ひとりを殺してしまった。


林は目の前でしゃがみこむ嘉子を抱き上げ、そして抱きしめた。

力の入らない嘉子を抱えるのは相当な力が必要だったが、林は耐える。


「大丈夫ですよ、きっとまだどこかで生きてますよ」

林は状況が良く把握出来ていないこともあり、これしか言えなかった。

「生きているって、何で分かるんですか」

嘉子は叫んだ。赤く腫れあがった目は林の目を捕らえている。そして林の体を力いっぱい突き放した。林は仰け反った。


「私は昨日田中さんに誤解を与えるような資料を渡してしまったんです」


三田は目の前で繰り広げられる情景に興奮を押し殺し冷静を取り繕いながら、部屋の中を見渡す。

「まずは田中さんを探しましょうよ。生きているかもしれないでしょ。亡くなっていないかもしれない。それからでいいですか、状況を教えてもらうのは」優しい口調だった。


「おい林パトカーを呼べ」

「今日は車検で今頃修理工場なんじゃ……」

「うるさい、何でもいいから車を呼べ」


嘉子の動揺は、少し収まってきたように見える。

五分もするとミニパトがアパートの前で止まった。


「佐野さん、それでは行きましょう」

三田は嘉子に声をかけながら肩を抱え、支えるように部屋の外に出た。


ミニパトの後部座席に三人で座る。前方には二名の婦警が座っていた。

「どうしたの林君。一緒にお昼のお弁当食べるんじゃないの」

「いやっちょっと状況が変わってさ」

「何それ、てか大丈夫その人」運転席に座る婦警が後ろへ体を捻り心配そうな顔を向けている。

「それで事情がさっぱり分からないんですが、三田さんこれからどこに行けばいいですか」婦警が訊いた。

「すまん、私にもさっぱり分からん。何が起きているのか実は良く分かっていないんだ」


嘉子は俯きながら、もそもそとしゃべった。

「長野の足許山の幽霊トンネルに行ってください。田中さんはそこにいる可能性が高いです」


「足許山って桜井和人が殺害された場所ですか」

「そうです。吉田さんが今日会社を休んでいれば確定だと思います。間違いなくそこにいます」

「すみません、どういうことですか。足許山に向かうことは可能ですが、もう少し状況を詳しく教えてもらえますか」

三田は嘉子の態度を目の前にして気持ちが焦るも、状況が全く分からないだけに動けずにいた。


「いいから行けば分かります。私を連れて行ってください」

すると林が少し身を前に乗り出し、フロントシートの間に体を割って入る。

「ごめん、ちょっとさ、長野までミニパトで行ける」

「そんなの無理に決まってるでしょ。この車GPS付いてるんだから変な所行ったら始末書なの」運転席の婦警はいぶかしげな顔をして反論した。

「分かった、じゃあ俺の家まで行ってくるかな。俺の車で長野まで行くからさ」

婦警は尚更状況が分からなくなったが、緊迫した雰囲気を悟り、後部座席の三人を車で二十分ほど行ったところにある林の自宅まで送り届けた。


林は婦警達とは別れ、二人を乗せ青のミニクーパーを走らせた。

高速道路に乗った頃、三田はタバコを胸ポケットから取り出した。

「ちょっと三田さん、俺の車禁煙なんすけど」

「頼む一本だけ吸わせてくれ、落ち着かないんだ」

「平然を装うにはタバコしかないんですか三田さんは。それに吉田真理子も確かそうでしたけど」

林は困った顔をする。ただ非常事態なだけに、今回だけは特別と三田の喫煙を容認することにした。そして三田はタバコを吸いながら田中の置き手紙に再度目を通し始めた。


すると嘉子は後部座席から前方に座る刑事の方へ話し始めた。

「田中さんは吉田さんを殺すつもりです。そして多分自分も自殺するつもりだと思います」


嘉子は会社が事前に受け取っていた脅迫状以外の事の経緯を全て刑事達に話した。探偵を雇ってこっそり現場検証に行ったこと。旅館での訊き込み、駅前ホテルでの監視カメラ、トンネルまでの桜井和人の足取りなどだ。田中と昨日会って話した内容は最後に説明した。

嘉子はシートに深く腰掛け、両手のひらで顔を覆う。嘉子を絶望が襲う。社内には大きなため息が繰り返し聞こえる。


三田は彼女に田中がまだ生きている可能性が無いわけではないなどと、そういった類の根拠の無い慰めの言葉を懸命に捜しては伝える。


すると林が言った。

「三田さん、佐野さんの話しを訊いて事件が全てつながりましたよ」

三田は興味深くハンドルを握り車を飛ばす林の横顔をみた。

「つまり、我々の捜査が困難を極めた理由ですよ。とりわけ桜井幸子の行動によって状況がご茶混ぜにされていたんです」


「どういうことだ」三田は訊いた。

「まずは、結局幸子は何も罪を犯してしていないということです。発生した事実だけ追うと、旦那に保険金をかけて、殺害しようと長野まで行ったが結局何もしなかったとだけですから」


「それでどうした」

「幸子の不倫相手の角田も当初殺人を犯そうとしたが、何もしなかった。幸子が旦那を殺害する計画を一緒に立てたが、何もしなかった」


三田は少し考えると、

「分かったぞ、それでお前はこう言いたいんだろ。そのごちゃ混ぜの状況を作り出したのはすべて黒幕の吉田真理子が仕組んでいたってことだな」


「その通りです。彼女は不倫相手の桜井和人を憎んでいた。なぜならいつまでたっても嫁とは離婚しない上、いつの間にか社内の別の娘とも不倫を始めた。自分が卑下され裏切られた気がしたのでしょう。

彼女の立てた理想はこうです。幸子が旅行中に和人を殺してくれること。なんたって幸子には旦那を殺害して得られるメリットが多々ありましたから。保険金も受け取れるしそれを元に再婚まで出来ますからね。

更には殺害時には幸子が変装し、罪を田中に着せることも出来る。吉田は彼氏を奪った田中にも恨みがあったでしょうからね」


「だが、実際は思い通りに行かなかった。

吉田はトンネルで生きていた和人を見つけたんだ。それで二人は言い争いになったのか、なんなのか和人が崖下に落ちていったということだな」


三田は手のひらをあごの辺りを撫でている。この事件の真の計画者は吉田真理子だった。ただ計画通りにことが進まず、結果自ら直接桜井和人を殺害した。そして田中をはじめ同僚達はおそらくその現場を見ている。


吉田と田中は今事件現場で二人きりの可能性がある。状況は非常にまずいことになっていることを実感した。


三田が電話で問い合わせた結果、吉田真理子が今日は朝からフォーカストラベルに出社していないことも掴んだ。


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