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プロローグ

佐野嘉子さのよしこは旅行代理店窓口勤務。今年二十八歳。独身。彼氏なし。

仕事に就いて八年。日々単調な仕事の中でも、客に対し少しでも満足度の高い旅行の提案をすることに多少のやりがいを感じている。モットーは誠実である。


先日一組の老夫婦に介護センター下見ツアーを提案し、好評を得た。それが旅行会社の重点商品となり社長賞をもらったばかりだ。但し好評が得られたのは会社の一部の上層部からのみではある。介護センターからの高額バックマージンが好評を得たのだ。



今日も嘉子はいつも通り淡々と業務をこなしている。

「南国リゾートでしたら、当社でちょうどハワイキャンペーンをやっておりまして……」

大学生らしきカップルに対しても、丁寧にプランの提案を行う。少しでも要望に沿える旅行をとパンフレットを覗き込む。その度に前に垂れてくる肩まである茶色の髪を時折耳に掻き上げる。パンフレットをめくる手つきは慣れたものだ。


「カップルの方に人気のこちらのホテルはいかがですか」嘉子は笑顔を向け尋ねる。

「もう少しショッピングセンターに近いホテルがいいな」と彼女。

「俺は海でパラセイリングがしたいかも」と彼氏。

「私はイルカが見たい」


大抵の客は、カウンターの前では気持ちが大きくなり、次から次へと新しいチャレンジブルな要望を出してくる。

「それでしたら、ベンチホテルをシーサイドに置いた方がアクティビティへのアクセスが良いかもしれませんね。夕食はサンセットに浮かぶダイヤモンドヘッドを眺めながらシャンパンでフレンチがおススメですよ」

嘉子は積極的に会社の接客マニュアル通りに横文字を活用する。横文字は一般的な日本人にロマンチックな幻想を描かせられる効果があるらしい。旅行先を実際以上に目の前に素敵に広げることが出来るので、セールス手法としては有効的らしい。彼女は真面目な性格であるから、会社の決まりには従順だった。


嘉子は客の要望もひと通り出たところで、日程やホテルなどの条件を目の前のパソコンに入力し始めた。

「それではプランが出来ました。お見積りですが、いただいているご予算よりも七万円程高くなっておりますが、お支払いは現金でよろしかったでしょうか」客の要望を全て満たすと、必ずこういったことになる。但し対処には慣れていた。

嘉子の左右に若干離れた切れ長の目が、カップルに鋭く向けられる。そして右手でおもむろに制服の胸に刺さっているボールペンを抜き取り、申込書類の作成が始められる。やや強引に見えるこの手法も接客マニュアルの実践だった。客が迷うであろうポイントは素通りし、自然を装い強行に前に話を一つ進めるというもの。客に費用の事を考えさせる時間を与えないためだ。


また嘉子自身も旅行プランには一切の妥協もあってはならないと考えている。それ自体なかなか行けるものではないからだ。すなわち高々何万円の予算超過分を節約し、折角の旅の満足度を下げてしまうなどなどという考え方自体が、裕福な家に育った彼女には全く理解出来ないものなのだ。


「……あのっ……ちょっともう一度プランを詳しく説明してもらいたいんですけど……」

彼氏は彼女の方に向けていた視線を急に嘉子に向けた。

というのもそもそもの予算は本当に自分が出せる最高金額で組んであり、それを越えると食費などの生活費を削る以外方法が無かったからだ。当分何を食べて生きていけばいいのだろう……、但し彼女には少しでもいい旅行をプレゼントしたい……。


彼女の方はというと嘉子の横文字によって触発された妄想の中で既にハワイへと旅立っていた。そしてビーチサイドでダイヤモンドヘッドに沈む夕日に見とれていた。彼氏の戸惑いの一言に現実に戻されたことが悔しい。

「予算オーバー分は私が出そうか」少し考えてから彼女は言った。

男心という名のプライドをくすぐってみることにした。カウンターの向こう側にはこうして七万円の過剰な支払いについて、彼氏がすんなり受け入れざるを得ない状況が作り出されていた。

「ううん、いいって、俺が出すよ。折角ハワイまで行くんだしね」

彼氏は右手で彼女を抑えるように、任せとけといった動きをした。

「そうだね、思いっきり楽しもうね、ヒロ君大好き」


二人の会話はまとまったようだ。

ただヒロ君の頭の中から旅行の楽しい気分は消えて、今からどうやって生活費を削って生きていくかで一杯になっていた。うつろな目もどこか遠くを見ている。


そして二人はカウンターから立ち上がり仲良く腕を組んで店舗から出て行った。但し嘉子にはやつれたヒロ君が彼女の腕組みに支えられながら歩いているように見えた。



嘉子は昼休みに店舗の事務所奥にある、二人も入れば窮屈な休憩室で軽い食事を取った。代理店の休憩時間はピークタイムを外した少し遅めに設定されている。この日は家を出る前に自分で握ってきたおにぎり二つと、コンビニで買ってきたミニサラダを食べた。そして休憩室に置いてある会社の福利の日本茶を煎れる。何も無ければ一時間の休憩は食事と昼寝に費やされる。そして再びカウンターへと戻って行った。


「よし、午後も頑張るぞ」

とは言っても店舗はオフィス街に構えられているので、この時間帯に客はめったに来ないものだ。


空いた時間を利用してしばらく旅行パンフレットをながめていると、フラっと嘉子と年頃も近い小柄な女性が一人、入り口の自動ドアから入ってきた。ショートカットに、黒縁メガネをかけている。メガネの奥には整った顔立ちが覗えた。太っているわけではないが、胸が適度にあるのが分かる。しかし「FIGHT」とのみ書かれた黄色いティーシャツにジーンズ姿だった。

きっと何かのオタクに違いない……。嘉子がそう観察していると、電光案内板が示す通り、女性は嘉子の目の前に腰を落とした。


「いらっしゃいませMGTトラベルへようこそ!」

マニュアル通りに発せられる嘉子の明るい声とは対照的に、女性客は大きめのバッグを大切そうにひざの上に抱えながら、うつむき加減で話し始めた。


「すみません、旅に出たいのですが」

嘉子は女性客のあまりのトーンの低さに戸惑ってしまった。まるで傷心一人旅に行くような気配すら感じた。

「ど、どのようなご旅行を考えていらっしゃるのですか」


「いやっ、つまらない旅行って何かなって」

「つまらない旅行と申しますと」

嘉子が「えーっ」と頭で聞きなれない言葉を必死に整理していると、女性客が話し始めた。


「うまく言えないですが、実は私も旅行代理店の窓口で働いているんです。けど、最近ずっと悩んでいることがあって……。それで今更なんですが、ずっと営業成績があまり良くなくて。

もう八年も働いているんですけど、こないだ上司との面談で、君は結局のところどういう旅行がプロデュースしたいのかなんて訊かれたんです。


横文字でプロデュースだなんて、ほんと外国かぶれで、しかも彼は何かと鼻につくんです。例えばメガネの縁が赤いところとか、ワイシャツの袖にカフスをつけていたり。しかも私より若くて大学を卒業してて結婚して子どもまでいるんです。それでプロデュースだなんて言われたんで、もう実際は面談で言われたことなんてあんまり覚えてないというか、そもそも話自体聞く気も起きなかったんです。


けどその日帰宅した後まで私の頭に残っていた上司の言葉が一つありまして。というか彼に頭に言葉を残されたってのもシャクで、それだけに忘れたくても忘れらなくて。

で何を言われたかというと「田中のプロデュースした旅行はつまらないものになってはいないか。まぁ、お前なんかにはつまらない旅行ですらプロデュース出来ないだろうけどな」なんです。


しかもみんなの前で大きな声で言われたってこともあって恥ずかしくて。それにつまらない旅行なんて仕事中に考えたこともなくて、通勤途中に考えたりしてはみたのですが、それって誰と行くかが大きくて、例えば社員旅行なんかハワイでも行きたくないし、もし行ったとしても帰って来てこう思うんですよね。あーつまらなかったって。もう行きたくないなって。これが……」


嘉子は笑顔を取り繕い適度に頷きながら話を聞いてはいたが、女性客愚痴を言っているようにしか思えなかった。また話も長く単調で且つ落ちどころも見えてこなかったため、苛立ちを感じていた。

ただこの話の流れで一つ分かったのが、目の前の客には接客マニュアルに書かれている横文字の連呼は通用しないだろうといったことだ。


そこで嘉子は埒が明きそうにないので話に割って入ることにした。

「確かに折角のハワイでもそれじゃつまらないですね。あと私はこうも思うんです。すみません話を割ってしまって。つまらない旅行といえば私は寺周りとかもつまらないって思います。というのも私個人はお寺とかには全然興味がありませんので。興味の無さも旅行のつまらなさを決める一つの重要なことかなと考えます」


「確かに興味は大事かもしれませんね。私も山登りとかあんまり好きじゃないかも」


嘉子は一呼吸置いた。そして過去に自分が手配した一つのプランを回顧しながら、おもむろにカウンター脇に重ねて置いてある色とりどりの旅行のパンフレットを物色した。

「それでしたら山登りに行きましょうか。ちょうど山登り好きの方から評判のあまり良くない山がありますから」


「評判が良くないってどういうことですか」


「標高千メートルの普通の山なんですけど、頂上まで行けないんですよ」


「……」

女性客は嘉子が何を言っているのか分からなかった。そして場を取り繕うべく少し苦笑いをした。


「ポイントは頂上に山の持ち主が住んでいるので、登った先に待ち構えるのは一軒の平凡な民家なんです。さらに先日お客様から登頂直後に、山の持ち主から怒られたとクレームが入ったんです。家の周りで騒ぐなと言われたとのことです」


「ですけど頂上に行くまでの山道からの景色がそれなりに良かったり、空気がきれいで新鮮だったりするでしょう。だって山なんですよね」


「いやいや、それも微妙です。なんせ頂上に民家がありますからね。ですから登山道の脇にアスファルトの整備された道があって車が通るんです。苦労して山道を登る脇を車がスイスイ通って行くんです。いろいろな意味でやる気なくなりませんか」


そして嘉子はたたみ掛けるように、過去に受けたクレーム内容を自分がまるでそこに行ったことがあるような口調で女性客に説明を続ける。これも接客マニュアルの実践だ。

「ましてや景色もイマイチです。なんせ周りにもっと高い山がありますから。すなわちどこに行こうが山しか見えないんです。上の方に上っても山、下にから望んでも山。結局上から見える景色は麓からも望めるんです」


「……。それでは、その山に行くプランでお願いします」

女性客はつまらない旅行とはどういうものなのかが少し分かり始めた感があった。少なくとも熱心な嘉子の説明から旅先の臨場感をつかむことが出来ていた。よって話だけでも最後まで聞くことにし、方向性にひとまずはOKを出すことにした。


嘉子は女性客のとりあえずではあるが提案を一つ先に進めることが出来たと同時に「これはイケる」内心でそう思った。というのも要するに過去のクレーム案件をひっぱってくれば良いという勝利の方程式を導き出したからだ。ちょうど学生時代に数学や物理の公式の仕組みを理解し、どんどん問題が解け始めるようになったあの感覚にも似ていた。提案が徐々に楽しくなってきた。


「ありがとうございます」

嘉子はカウンター越しに軽く頭を下げ、そして話を続けた。


「ここからですと東京駅から新幹線で行くことになります。金曜日の夜出発でよろしいですよね」


「金曜日ですか、金曜日はお客さんも多く、何時に仕事が終わるのかが……」


嘉子は戸惑う女性客に構うことなくまくし立てた。

「いえ、おススメは絶対金曜日のこの時間帯なんです。というのもおじさんと若い女性が多く乗車されています」


「ひょっとして不倫旅行ってやつですか?奥さんには出張と偽ってってその何というか」


「そう伺っております。二人より添われてその何というか……。また金曜日ですから、出張帰りで車中にてお酒を飲まれる方も多く臭いも……。ですから今回のご要望とぴったりかと思いますが」


「……ではそれでお願いします」

嘉子はノリノリ状態で提案を続ける。その手前、女性客が話をなりゆきに任せざるを得ない空気になってきていた。


「ご宿泊はどうされますか」嘉子は確認をした。


「おススメはありますか」


「そうですね、少し行った森の中に温泉旅館がございます。ここの温泉はリュウマチや肩こりに効能があるといわれています。朝から晩まで療養のためずっと浸かってらっしゃる方も多いと伺っております」


「旅館は普通なんですね」女性客は少し安堵の表情を浮かべた。


「というか朝から晩までずっと浸かっていられるんです。なぜならお湯がぬるいんです」


「はぁ……ではそこでお願いします」

女性客は眉をしかめた。一瞬の安堵もつかの間であった。


「当日は旅館にチェックインをされてお食事後お休みをいただきます。それで翌日はどうされますか。直接山に行かれますか。それとも……」


「他に何かおススメがあるんですか」


「はい、近くにトンネルがございます。幽霊が出ると噂の」


「幽霊は信じていないんですが・・」


「それは良かったです」

嘉子は次々に決まる自身の提案に、一種の快感を覚えた。体が熱くなってくるのが分かる。興奮状態であった。


「ではこちらで決まりですね。幽霊なんてそもそも見えませんからね。ちなみに私もこういった類の存在は信じてはおりませんけど」嘉子は笑みを浮かべる。


「要するに実際見えるのはトンネルだけです。しかも一般的に幽霊の出にくいとされる昼間ですから尚更良しですね。

またトンネル内の落書きもひどくて、内容も卑猥だったり下劣なことが多く、マナーの悪さにも腹が立ってくるかと思います」


「そうなるとわざわざ落書きを見に行く感じになるのでしょうか……。それでトンネル見学の後は山登りですか」


女性客はいくらなんでもこんな旅行はさすがにちょっと無理だ思い始めている自分に気がついた。話を聞いているだけで疲れてきており、ここに来るのではなかったと後悔し始めた。


しかし、同時に逆にひらめくものがあった。

「これはイケる」

まさか上司の赤メガネもここまでつまらない旅行を想像することは出来てはいないだろう。女性客は上司から依頼されたつまらない旅行プランの確認、すなわち下見に行かすことが出来れば、自分の八年間のキャリアとプライドを傷つけた先日の罵声への一種の仕返しが出来ると考えた。胸が躍ってきた。


「それでトンネルの次ぎはお待ちかねの登山です。山の麓の飲食店は既に潰れてしまっていますので、お食事と水はこちらから旅館にお願いしておきますね」

「その後は下山していただき……」

「ちょっと待ってください、その山千メートルもあるんですよね、その……日中に戻ってこられるんですか」


「はい、お車の方はこちらで手配させていただきます」


「下山後は再び新幹線に乗って東京に戻ってきたいただく感じになりますが、時間もありますので折角ですから少し寄り道をしてお寺でも見ますか」


「それでお寺にはどんな曰くがありますか……」

女性客は期待した。カウンターに身を乗り出して嘉子の提案に耳を傾ける。


「はい、ですが正確には跡地です。千六百年代に徳川家が建立したといわれる由緒正しきお寺です。その位置関係は江戸の北西に位置します。当時北西は徳川家にとって好ましくない方角だったとかで、このお寺が幕府を守っていたとされています。徳川家の繁栄の裏にはこのお寺の存在が大きな意を為していたとのことです」


「けど跡地なんですよね。そんな立派なお寺なのにどうして無くなってしまったんですか」


「それは単に立ち退きです。バブルの頃この辺に一大リゾートを建設する計画があったとかで。今はただの草むらになっています。好きな人はこんな場所でも歴史に想いを馳せることも出来てしまいますがご容赦いただけますよね。

それで住職なんですが……今は東京の田園調布に邸宅を構えているようです」


嘉子は満悦に浸る女性客を目の前にしての恍惚がたまらなく快感だった。

「というわけで……以上のプランでよろしいでしょうか。一泊二日ですから、お一人税込みで三万千五百円になります。それで御社の社員は全部で何名ほどでしょうか」


「えっ、会社の同僚ですか」

女性は目を丸めた。会社ではなく上司一人に行かせる予定だったからだ。


「そうです、さっきお客様もおっしゃってましたよね、誰と行くかが大事だって」


「社内旅行などいかがですか」


「は、はぁ」


そして嘉子は旅行のコースと見積りをぱぱっと印刷し、女性に渡した。そして笑顔でこう締めくくった。

「是非前向きにご検討願います。それではあなたの上司の参加と、当日の悪天候をお祈りいたしております。それと、お支払い方法は銀行振り込みでよろしかったでしょうか」



嘉子は他社旅行代理店の社内旅行を取り付けたことが評価され、またもや今月の社長賞候補に上がっている。但し、受賞候補となったのは、嘉子がMGTトラベルの社長の娘だからではないかという噂はある。


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