幸せを塗り固めた結婚
数ある中から作品をお読みいただきありがとうございます!
エリシカはヴァルケン男爵家の長女である。
才覚のある父は、羊毛産業により一代で領地を繁栄へと導いた。
有力な牧畜家の長男として生まれた父は、その羊毛フェルトで国内の繊維製品への大きな功績が認められ、爵位を授与された。
その結果、男爵家へと昇格した。
エリシカが生まれる頃には、すでに大きな屋敷に心地よいベッド。溢れるおもちゃに、十分な使用人がいた。
両親は待望の第一子であるエリシカを慈しみ、たいへん可愛がった。
父は忙しいので家に帰らないことも多い。
その代わりに行く先々で妻とエリシカに土産を買い与えたのだ。
母は自分の父が事業に失敗して、生活に困るほどお金がなかった。
早くから母も仕事に行くようになった。
青春といった若者が憧れるものに一喜一憂することはなかったのだ。
父の一目惚れから始まった恋だった。
二人の関係は驚くほど順調だったのだ。
だが、関係を進める際に、母は自分の家の状況を父へ話していた。
そして自分が父の伴侶となるには貧しすぎると一度断っていたのだった。
父が家督を継ぐ人だから、と。
母の氷のような心を、父は少しずつ長い時間をかけて、溶かしていったのだ。
そしてエリシカに物心がつく頃には、有能な父と絵に描いたような美しい母がいた。
エリシカには必要と思われたものは、何でも与えられたのだった。
洋服や装飾品は母が、書架は父が揃えた。
エリシカは善良な両親に育てられ常識を持っていた。
そして読書を好んだので、父の用意した書庫によく立ち入った。
とりわけ物語が好きだったので、気に入ったお話は何度も読んだ。
しかし、どの本が一番好きだとは、両親に言えなかった。それが貴族の常識から見て、好ましい答えではないことを知っていたから。
エリシカが学園に入る頃には母譲りの目を見張るほどの容姿と父の明晰な頭脳を受け継いでいた。
学園に入って一年後、なんと子爵家から縁談の打診があった。
ルドヴィク子爵家の三男・アレクセイ令息。
背の高い柔らかな印象だった。
エリシカは何度か会って話し、この人となら貴族として順調に幸せな未来を迎えられると強く思い、アレクセイと婚約。
その二年後に結婚した。
アレクセイはエリシカが望むものは何でも与えてくれた。
エリシカのことをよく気遣い、エリシカ自身も大切にされていると感じていたのだ。
それはアレクセイの育ちにも関係する。
ルドヴィク子爵家には、季節ごとに王都の名だたる家々から茶会の招待状が届いていた。
その宛名は、決まってアレクセイの母へ向けられている。
そのアレクセイの母は人を大切にすることを教えていた。
それはアレクセイの父にも共通することであった。
エリシカはアレクセイの優しさもよく分かり、また自分の言葉をちゃんと受け取ろうとする姿勢も見て取れた。
周りからはお似合いのおしどり夫婦と言われるようになったのだ。
両親やアレクセイ、そして彼の両親からも祝福され、誰もが笑顔になっていた。
エリシカは自身の人生はとても幸せだと感じている。
それと同時に、捨ててきたものに強く焦がれているのだ。
身体を動かすことも、
土いじりも好きで、土の匂いや感触に癒されていたことも、
冗談が大好きで、大声で笑うことも、
日が登る頃から起きることも、
自然に言葉遣いを気にせず話すことも、
そして、一番好きな本である『少女パステルの大冒険』も。
──でも貴族令嬢には、要らないから。
お読みいただきありがとうございました!
本作品は、交流いただいております方から『台詞のない作品』のご提案をいただきましたので、台詞がなくても自然な流れとなる純文学が良いかなと感じ、執筆いたしました。
【追記】
今回純文学ということで、考えさせられるオチで終わろうと強く思っていたのですが、エリシカの続きが気になるといった声が多かったので、
“エリシカの本当の幸せルート”
を作りました。本編は変わりませんが、もし続きがあるなら⋯⋯ということで、後書きに追記させていただきます。
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エリシカは貴族としての責任を全うすることを何より優先にしてきた。
アレクセイは奥手なのか結婚しても、肩に一度手を触れてきたことがあるだけ。
これでは、貴族として、いや、妻としての義務を果たせないかもしれない。
そう、エリシカは不安を募らせ始めた。
そんな中、珍しくアレクセイは乗馬を誘ってきた。エリシカは乗馬をしたことがなかったが、俄然興味があった。
アレクセイの誘いなら、堂々と馬に乗れる。
そしてアレクセイの後ろにレディらしく横乗りをした。
はずなのに、天地がひっくり返った。
エリシカは背中から落馬したのだ。
視界の端には、野花が見える。
エリシカは驚きすぎて、大笑いをしてしまった。それは淑女らしからぬ所作で、奥歯まで見えるほど大きな口を開けてしまった。
アレクセイは急いで馬から下りて、エリシカに駆け寄った。しかし安心したようで、大笑いするエリシカの隣に膝から崩れ落ちた。
安心して全身の力が抜けたアレクセイも、エリシカにつられて笑い始めた。
その日の風景を、エリシカは何度も思い返した。
月日は流れ、屋敷の近くで揉め事があると使用人が報告した。運の悪いことに、アレクセイの父である子爵が用事で家を開けた半日後のことだった。
アレクセイとエリシカは急いで駆けつけると、農民たちがお互い土を投げ合っていた。
理由を聞いてみると、豚が作物を食い荒らしている。食い荒らされた方の農民が怒って泥投げつけたのがきっかけ。
対して、豚の持ち主は代わりに糞を肥料にすることで解決したと主張する。
食い荒らしたのが質の良い人参だったことが原因のようだ。
理由はともかく、お互い投げ合っていた泥がエリシカにも当たった。
農民たちは息を呑み、泥を投げ合う手を止めた。
するとエリシカは一喝する。
感情のままに行動することの愚かさを叱った。
そうこうしているうちに、人参泥棒の豚は子を宿していたようで、子豚が十二匹生まれた。
エリシカは泥汚れも気にせずに生まれたばかりの子豚を、愛おしそうに抱き上げた。
後に、エリシカは恥ずかしそうにアレクセイに貴族らしからぬ行動を謝罪した。
アレクセイはなぜか怒ったような顔をした。
落馬で見せたエリシカの屈託のない笑顔と子豚を抱き上げた時の優しい笑顔に恋に落ちたとアレクセイが告げた。
それはエリシカの知らない熱を宿した目だった。
エリシカはその瞬間、少し遠い未来で『少女パステルの大冒険』の話を興味深そうに聞くアレクセイの姿を想像した。
その時、エリシカは小さな期待が芽吹くのを感じた。




