I 王子の初恋
『運命の恋』
そんなものは幼い少年少女が描く夢物語であり、王国の第二王子である自分には無縁のものだと思っていた。アイリーン・ガラニス伯爵令嬢と出会うまでは。
アイリーンと初めて出会ったのはエイランが王立の貴族学校に入学した時だった。
皆と同じ、紺碧の制服に身を包んだ彼女は他の令息令嬢の中であっても目を引く存在だった。
1人だけどこか光輝くようで、後ろ姿であってもすぐに彼女だと分かった。
「お、おはよう。ガラニス伯爵令嬢。」
「第二王子殿下にご挨拶させて頂きます。」
初めて挨拶をしたのは入学してから2週間ほど経ってから。少し格好をつけて片手をあげ気楽に挨拶をしたエイランに対してアイリーンはカーテシーで返した。その動きはまるで妖精が舞うように可憐で、エイランは見惚れた。
「殿下…?」
あまりに長い間エイランが無言で立ち尽くしていたのでエイランの取巻きたちが少し困惑したように声をかけた。
「あ、いや。ガラニス伯爵令嬢、そんなに畏まらないで頭を上げてくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
ゆっくりと体勢を元に戻したアイリーンの頬は僅かに上気していてどこか艶っぽく見えた。
「急に話かけて悪かった。その、なんだ、クラスメイトと友好を深めたくてな…。」
「まあ。お声かけ頂き光栄ですわ。」
言い訳がましく言葉を紡ぐエイランにアイリーンは柔らかく微笑み僅かに小首を傾げた。その仕草にエイランは完全に心を奪われた。
それからというもの、エイランは毎朝アイリーンに声をかけた。授業中もついアイリーンを目で追ってしまう。斜め後ろから熱心にペンをとる彼女の横顔をみると長いまつ毛が作る影がどことなく物憂気に見えて胸が切なくなる。
「ここにいる5人で実習を行わないか?」
「はい。殿下」
実習などで数人でグループを作る時は極力偶然を装ってアイリーンと同じになるように動いた。エイランが仕切れば、取り巻きがそのように動くし、周囲も頷くより他なかったのだろう。
その努力のおかげで学期の終わりには2人で気軽に談笑をする事が出来るまでの仲になった。
それなのに、アイリーンは授業中などに偶然目が合うと少し恥ずかしそうに微笑んでから、プラチナブロンドの髪を耳にかけて俯く。その顕になった耳元は恥じらいからか僅かに朱に染まっているのをみると親しさとのギャップを感じられてエイランは嬉しかった。
「ガラニス伯爵令嬢、また明日。」
ある日の午後、学校の授業を終えて帰宅しようとするアイリーンに声をかける。
「殿下、ごきげんよう。」
以前より気軽な挨拶をしてくれるようになったものの節度を持って接してくるアイリーンをみると、つい、言ってしまったのだった。
「あー、その、ガラニス伯爵令嬢の事をアイリーンと名前で呼んでも構わないだろうか?」
気恥ずかしさもあって、ポリポリと頭を掻きながら期待を込めて聞いてみた。
「まあ。」
アイリーンは水晶のように澄んだ瞳を僅かに見開いた。
それからきっと、その大きな瞳を細めていつものように微笑み、頷いてくれると思ったのに。それなのに…。
「殿下、いけませんわ。殿下にはソフィア様という素晴らしい婚約者がいらっしゃいますもの。私のことはこれまでと同じように家名でお呼び下さい。」
「えっ。」
言葉を失った。あんなに親しくなったのに急に突き放された気分だったのだ。
「殿下、婚約者のいる方のファーストネームを敬称なしで異性が呼ぶのはマナー違反ですよ。」
「ソフィア!!」
そこに急に現れて正論を振りかざしたのは、エイランの婚約者であるソフィア・ドゥーカス公爵令嬢だ。
「ソフィア様、ごきげんよう。」
「アイリーン様、殿下が無理を言って申し訳ありません。」
「とんでもないことでございます。」
2人は親しげに微笑みあっている。エイランは政略によって結ばれた婚約者であるソフィアの事を憎々しく思った。
ソフィアは決して容姿が悪いわけではないが、隙がなく、堅苦しい女だった。いつだって今のように礼儀作法や常識、マナーを盾に、豊富な知識を剣にして口撃してくる。
王子妃に求められる素質を持った女性だと頭では理解しているが、その可愛げのなさからどうしても女性として愛することは出来なかった。
「殿下もアイリーン様をあまり困らせないでください。」
「私は困らせようとなど…!!」
エイランは苛立ちを隠そうとせず、ソフィアに言い返そうとした。
「アイリーン様、婚約者のアレクサンダー様がお迎えにいらしてますわ。」
ソフィアがチラリとエイランを見てから、アイリーンに言った。
「まあ。ソフィア様ありがとうございます」
パァーと華やぐ彼女の表情は花が綻ぶようだ、と思った。
「アイリーン」
彼女なそんな顔をさせた原因は何かと教室のドアを見ると黒髪の上級生が立っていた。一緒にいるのがエイランとソフィアだと分かると頭を下げて挨拶をしてくる。
「申し訳ありません。殿下、ソフィア様。」
そしてアイリーンは少しすまなそうに微笑み、エイランとソフィアに挨拶を済ませ、婚約者と共に去って行った。
親しげに、何かを話しながら歩いて行く2人を見送る事しかエイランには出来なかった。
「アイリーン様は7つの時から婚約者がいますわ。オーティス・アレクサンダー様です。彼は…」
「うるさい、うるさい!!」
ソフィアの話を途中で遮り、不貞腐れて大股で帰りの馬車へと歩きだした。
…ショックだった。アイリーンに婚約者が居るとは知らなかった。それにあの表情。あれは自分に向けられたものではない。そう分かっているのに脳裏に張り付いて離れない。
「殿下、アイリーン様の事は諦めて下さい。」
追いかけてくるソフィアの事を睨みつけた。彼女とは愛のない政略結婚だ。どうしたって女性としてはアイリーンに見劣りしてしまう。
荒々しく馬車に乗り込むと御者がドアを閉めるのを待たずに、ソフィアの前でピシャリとドアを乱暴に閉めた。ソフィアがドアの向こうでどうしていようと知った事ではない。
「アイリーンの婚約者…」
婚約者を置いて動き出した馬車の中でエイランはアイリーンとその婚約者の後ろ姿を思い出し、何度も呟いた。
「…アレクサンダー家と言ったか」
正直言ってパッとしない伯爵家だ。旧家だが特別裕福でも権力がある訳でもない。では婚約者自身に魅力があるかと言われれば顔立ちは悪くはないが抜群に良いわけではない。アイリーンの隣に並ぶと霞むような存在だった。容姿が凡庸でも能力はどうか。学校では成績優秀者が公表されるが2学年上の彼の名前を聞いた覚えは特にない。
美しく、魅力溢れるアイリーンに相応しい相手かどうか甚だ疑問だ。
「ならば、第二王子たるこの私が…」
エイランが決意をした瞬間だった。エイランの決意は時を経る事に強固なものになっていった。
級友として過ごす時間が増えるほど、アイリーンへの想いは募っていった。彼女との関係も深まったと思う。
「…近頃は婚約者とは上手くいっているのか?」
「そうですね。7つの時から婚約しているので今更何か大きな変化はないのですが仲良くやっておりますわ」
そしてある時、幼い頃から婚約者と婚約していると聞いた。少し恥ずかしげに謙遜して答えているがエイランは疑問に思った。
「貴女はそんな政略結婚で幸せになれるのか…?」
「はい。殿下もソフィア様のように素晴らしい婚約者がいらして幸せでしょう?」
アイリーンは悪気なく社交辞令で言ったのだろう。けれどエイランは思った。
(自分も彼女も親が勝手に決めた政略結婚の被害者だ)
アイリーンの婚約者について詳しく取り巻きに調べさせた。
「やはり見た目も家柄も成績も特筆するべきものはありませんね。私のように学年五位くらいに入っていないと…」
話を聞きながらエイランは別の事を考えていた。
彼女を救い、自分の元に留める方法を。そして数年間考えて考え抜いた末、婚約者であるソフィアとの婚約を破棄し、アイリーンに求婚をしたのだった。
「ソフィア・ドゥーカス公爵令嬢、貴女との婚約は今日この時を持って破棄することを宣言する!!」