犬
今は農村も稲の収穫がとっくに終わり、のどかな空気が漂っている。農作業をしている男がいた。犬を一匹連れている。近寄って挨拶をした。
「なんだい、めんこい坊ちゃん、どこの子だい」
「橘の家の親戚の、時太郎と申します。犬、触っていいですか?」
秋田犬くらいの大きさの犬は、人好きのようで、撫でようとする僕の手をぺろぺろと舐めた。適当に話を振る。
「あの、このあたりで、野良犬を見ませんでしたか? さっきこの子よりも大きな犬が歩いてるのを見て驚いちゃって」
「犬なんかそこらに歩いてらあ。だが、こいつより大きな犬は見たことないやな。これより大きいなら、犬神かもしれんぞお」
子供を脅かすように男がにやついた。
「犬神!?」
「そう、ここらじゃ狗患いって言ってな、犬に取りつかれて狂っちまうことがあるのさ。おっかないぜ。橘の旦那様も、狗患いでおかしくなっちまってるっていうからな。たまーに叫び声が聞こえる」
「へえ」
もっと話を聞きたかった。僕はさも興味深げに怪談をせがむ子供の振りをした。幼い容姿はこういう場合非常に役に立つ。
昼過ぎに屋敷に戻る。泥だらけのセエラア服を犬の毛まみれにして帰ってきた僕に、丁稚の子供が瞠目している。無視してきいの元へ急ぐ。
「きいちゃん、どうだった?」
「ええ、時さんの仰る通り、きな臭くなってきたわ」
血の気の引いた頬で笑って、きいが懐から和紙を取り出した。四つ折りの紙を受け取り開くと、ぽつぽつと、赤い点が連なり半円を描いている。
「安置されている次郎伯父様の傷口に和紙をあてがって取った、咬み傷の跡です。見てください、こんなに大きな歯型。犬じゃあなくてよ」
血の点に触れる。
「うん、村の人に聞いてきたんだけど、こんな大きな歯型を付けられる犬はいないって」
「それにね時さん、地震を経験したあたし達が、地面が揺れて恐がるならわかるけれど、爆発が起きたときあたし達以外誰も腰を抜かしたみたいに動かなかった。あたし達がいなければ、あのまま離れは燃えて、次郎伯父様も燃えて、何も証拠はなくなって……」
つまりそれは殺人である。
つまりそれは、非力な僕がつけいる弱みになる。もっと情報を集め、糾弾することができれば……。
「でも、武子伯母様も吉野さんも丁稚の坊やも下女だって、あたし達と同じ場所におりました。屋敷にいるのは病みついているご当主と、その母君一人。一体どうやって?」
当然の疑問に頭を巡らせる。僕も村人から仕入れた情報を話した。
「村人に頼む……線はないね。部外者への対処の言い訳ならともかく、ただでさえ当主の優乃介伯父が狗患いと後ろ指を差されているのに更に殺人なんて。しかも僕らが来ている時に」
「アラ、そりゃア、あたし達がいるから行ったんでしょう殺人を。あたし達がおまわりさんに皆はここにいたと証言してくれれば、皆の疑いが晴れるんじゃあなくて?」
「ああそうか。まさか、東京住みのひょろひょろした坊ちゃんが、地揺れにいち早く対応できるとは考えなかったようだろうけど。ねえきいちゃん、爆発が起こった時、何か、遠吠えみたいなの、聞こえなかった?」
「ええ聞きました。ご当主の悲鳴じゃあないの? お家の外から聞こえた音じゃないわ」
「悲鳴にしては獣じみていたよ。うわっもしかして本当に優乃介伯父は犬神に……」
「しっ」
きいが唇に立てた人差し指を当てて耳を澄ました。
「誰かが忍び足で廊下を踏む音がする。ねえ時さん、話はお外でする方が賢明よ」
耳が鋭い彼女がいると何かと助かる。僕は頷いて手を差し出した。




