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狗患い  作者: 青沼がざみ
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橘家

 汽車から降りたのは空が薄紅に染まり始めた頃だった。東京駅とはかけ離れた寂しい駅を出ると黒色の車が止まっていたので挨拶する。はたしてそれが本家、『橘家』からの迎えだった。


「初めまして。滝時太郎です。橘家の方ですか」


 車の中で背の高いが腹の出た男がきさくに手を振る。


「よお。お前が手紙を出した坊ちゃんかい。おうよ。俺が橘次郎だ。名前でわかるだろが。 本家の次男坊さ。よう来た乗れ乗れ。ん、そっちの嬢ちゃんは来るって聞いていないが?」


「あれ、手紙に書いたと思ったのに。彼女は父方のいとこのきいです。挨拶にきたのです」


「お初にお目にかかります」


 きいが優雅に頭を下げた。裕福な身の上ではないのに、案外上手にやってくれている。


 いとこと聞いて、次郎伯父の目元がぴくりと動いた。無邪気な笑顔を返す。人面獣心のやり取りは父の後妻で慣れている。


 次郎伯父が運転する車は、少々古いが外国製で、吸っている煙草も高価なものだった。絹シャツにビロードの上着という服装からみても道楽者らしい。明るい性格のようで、上下の隔てなく気安く接してくれる。


「ねえ、僕の母と次郎伯父様はいとこでしょう? 仲が良かったんですか?」


「ああ、冴子だな。かわいい奴でな、たまに遊びにきてくれた時は家の中が明るくなった気がしたよ。若くして死んじまったの、残念だなあ」


「次郎伯父様が書いてくれた手紙の数々、母は死ぬ前もずっと大切にしてたんですよ」


「ああ、冴子らしいな。俺ぁ筆不精だから、早く返事を寄越せとせっつかれたもんさ。それにしてもお前さん、冴子に似て細っこいなあ。声も細くて女みたいだ。でもいい服を着てるなあ。流石は官僚のとこの坊ちゃんだ。わざわざ田舎に来んでもな」


「体が弱くて寝付いてばかりでしたから……。背はこれから伸びるといいんですけど」


 明るい口調に嫌味が混じる。いなす。深窓の令嬢ならば聞こえはいいが、男であれば華奢な体と声変わり前の高いソプラノは美点にならない。力がないのに立ち向かわねばならないのは難儀だ。土煙を巻き上げながら進む車の中で不安に駆られる。


 駅のある町から隣の村へ行く。到着した屋敷は緑の瓦に白壁の、いかにも年季の入った広い屋敷である。庭の石灯篭には火が灯され、月を映した池には鯉が泳ぎ、離れさえもちょっとした広さの、典型的な地主の家だ。これだけの広さの家は東京ではあまりお目にかかれない。


 丁稚らしい十歳ほどの少年が荷物を降ろしてくれる。寄り添い歩く僕ときいに顔を赤らめていた。


 紋付の紫紺の訪問着に白帯が似合う、齢三十過ぎの美女が出迎えてくれる。当主『優乃介』の妻、吉野と名乗ったきりりとした彼女と、「ようこそ御出でくださいました」「お世話になります。粗末なものではございますが、手土産です」「まあ勿体ないことです」の儀礼じみたやりとりをした後、夕膳が六つ並んだ大座敷に通される。


 僕ときい、次郎伯父と吉野が膳の前に座り、遅れて中年だがぽちゃぽちゃとしてよく笑う、愛嬌のある女が座った。橙色の着物が古い家屋から浮かび上がるような、次郎伯父の妹の武子伯母だ。



残り一席は当主の優乃介伯父かと思いきや、腰の曲がった老婆が席に着いた。優乃介伯父達兄妹の母、松というらしい。丁寧に頭を下げると、「まあ女のように細っこい。生っ白い坊ちゃんだ」と吐き捨てられた。機嫌を損ねてはたまらないので謝る。


「面目ないです。病みついていたので……」


「これが跡取りの器かね。しかも女と腕なんぞ組んで現れよって」


「お恥ずかしいことです。目が悪いもので」


きいが続いて柔らかく頭を下げる。


「許嫁がメクラなんぞ家の恥だえ」 


「母さん、でもこの子は東京で女学生をやってるんだってよ。偉いじゃないか」


「女に学は要らん!」


「お義母様、女学校は学問のほかにも、お茶にお裁縫に楽器にと、花嫁にふさわしい種々を習う場所でもありますのよ」


 冷えた空気だが、次郎伯父と吉野が控えめに援護してくれている。とりあえず、きいと僕は婚約者だと勘違いされているから安堵した。これで当主の優乃介伯父に会えれば目的は達成したようなものだ。


「あの、彼女を、優乃介伯父様にも紹介したいのですが……」


 慎重に切り出すと、次郎伯父が頭を掻いた。


「すまねえなあ、時ちゃん、優乃介の兄貴は長らく病気でな。うつると良くねえから、会わん方がええ」


 いきなり計画が頓挫しそうだ。その日は一口呑むかねと酔っぱらって徳利を揺らす次郎伯父から愛想笑いで逃げ出してお開きとなった。

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