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狗患い  作者: 青沼がざみ
19/19

東京

 東京は、田舎より暖かかった。


 きいに約束の金銭を支払う日なんて、彼岸も過ぎたくせに季節外れの強い日光で汗ばむほどだった。きいの家を訪ねて対価を渡し、ついでに川辺の草っぱらに座り込んでお喋りをする。


「父に、名前を変えると伝えたよ。撃たれたみたいな顔してた」


「そりゃあ先妻の一粒種が、これから後妻が子をこさえたらないがしろにされるからと戸籍を変えてしまおうとするのはセンセエションというものでしょう。小さくなったわねえ。お食事抜いちゃいけなくてよ」


 僕は帰宅後、しばらく体調不良でぐったりとしていた。一種の興奮状態だったのだろう、高揚とした気分とは裏腹に、東京を発って帰っての計十日ほどで、シャツの中で体が泳ぐほど痩せていた。

 ともあれ財産は無事で、僕は将来的には二代目の、優乃介になる。橘家の当主だ。地方には帰らぬままだが。


 事件の半分は秘された。石谷医師は次郎……いや本物の太郎伯父に『犬が憑き』、殺されたことになった。多少の名誉は回復したのであればいい。


 殺人事件を解決した巡査は栄転が決まった。もう金輪際会う機会はないだろう。太郎伯父の死は事故ではなく自殺で片づけられ、あの村に残された女たちは、僕の傀儡になってしまった事実をおくびにも出さず粛々と暮らしていることだろう。あの数日間が夢のようだった。大人の裏面に触れてしまうと、なんだか自分もそうなるのがそら恐ろしい。


 危ない目に遭わせたのだから謝るつもりだったが、きいは案外平気そうだった。拝み屋で修羅場は経験済みなのかもしれない。今日は女学生の装いだ。監禁までされたのに、僕が渡した銘仙と袴を(つくろ)って大事に着ている。


「元気を出して。名前なんて変わるものよ。江戸時代のお侍は幼名があったんだし、お女郎だって名前が変わります。あたしもね、昔はきいちゃんじゃあなかったのよ」


「ええっ! きいちゃんお女郎だったの!?」


 やあね、と笑って、きいが僕の肩をはたく。


「ミツっていったの。あたしの名前。光と書いてミツ。お父様がつけてくれたけれど、光なんて見えやしない盲人にそんな名付けはあんまりだってね。取られてしまいました。名前でくらい、きらきら光っていても、いいのにねえ」


「きいって名前、僕好きだよ。でも、君が嬉しいならミッちゃんて呼んであげようか」


「ふふふ、好きだなんて気安いこと。結構ですわ。貴方はもうすぐ十四なんだから、あんまり気軽く女と話しちゃだめですよ。特に拝み屋なんて頓狂な商売してる女には」


 寄り添い歩調を合わせる歩き方にも、きいと僕に指差す人にもとっくにお馴染みになってしまったのだが、きいは芝居めかして僕を叱った。


 助言と共に、僕の腕から手を放す。依頼は完了し、報酬も渡し終え、これにて落着の別れだった。



 その着物の袖を掴み直した。


「ナニね、もう少し仲良くしていようよ。友達の印に渡したいものがあるんだ」


 きいは視力が悪いので、僕の照れた顔は、彼女には見えないに決まっている。


 まあ贈り物なんて飛び上がるくらい嬉しいわと姉さんぶってしなをつくるきいの手に、青い別珍の小箱を乗せる。てっきり野の花か何かだと思っていたらしいきいは、箱に生えた柔毛を至近距離でためすすがめつつついてから、箱をぱくんと開いた。


「なあに、これ。箱かしら? 開くのね。中身は……石…いえ金属に、待って、赤い何かが、……まあ!!!」


「ルビーの指環、欲しがっていたでしょ」


「時さん!!! じゃあ、これが指環なのね! 初めて触るわ! 本当にくださるの!?」


 きいの頬が上気する。


「母さんのお古だけどね。真珠の帯留めや珊瑚の指環とか、ほとんどは妹が年頃になった暁に渡す約束なんだけど、これはいつか、僕にあげたい人ができたときのために、母が別にとっておいてくれたものなんだ」


「きらきらしてる……。目が悪いあたしにもわかるわ。赤く輝いている」


 指環の台座は金で、中心にルビーを抱いた花があしらってある。母が女学校時代に贈られたものだった。 


 きっときいは僕が因縁の絡む『優乃介』の名に慣れた未来でも、「時さん」と歌うように呼ばってくれるだろうから、僕もきいを(めしい)でも拝み屋でもなく、いつまでもかわいらしい女学生みたいに接してやらなくてはならないと誓う。


 金環を箱から抜いて、きいの指にはめてあげる。きいは感極まった風に指環に触れ、そして左手を太陽にかざした。穢れのない日差しを浴びて、ルビーが燃える。


 うふふ、と笑んで、きいが立ち上がった。その場でくるりと回る。紫の袴が翻る。髪のリボンが蝶となり揺れる。指にはまった指環は、彼女によく映えていた。


「大好き! 大好き貴方のことが! あたし、貴方と結婚してもいいわ!」


 きいが叫んだ。目を細めて、秋の終わりの日差しの中で春のように目を細めて。


「……なんで急にそうなるのさ! 求婚とは違うよ僕はお礼のつもりだもの。君は少しばかり誤解してるんだ」


「マア、殿方が女に指輪を渡す意味、ご存じないのかしら?」


 喜びを隠しきれない純真さと、年下の僕の為に加減してくれている情念がないまぜになった媚に、胸の奥でこごっていた薄暗い気持ちと、背負わなければならない重荷がふっと落ちた気がして、僕もつられて笑った。思わぬ時に思わぬのどかさを得たものだ。憑き物落としの生業は伊達ではない。


 くるくると踊ってよろけた彼女を支えてやる。

 

 気心知れた友達と手を繋ぐ真昼は、十月末だというのに春の陽気で、既に病はどこにもなかった。

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