錆びた鉄
「さびたてつ?」
オウム返しする巡査と対照的に、吉野の顔色が変わる。僕は一走りして、離れから錆びた鉄鍋とアルミニウム製の羽釜を抱えて帰った。
御覧くださいと前置いて、鉄鍋を畳の上に置き、渾身の力で羽釜を振りかぶり、鉄鍋に打ち付ける。
炸裂音とともに、一瞬、火打石の切火よりも激しく火花が散る。夜の暗い大座敷が一瞬眩み、畳が焦げ、巡査が狼狽しながら焼けた畳を何度も踏みつけ火を消した。
「金属と金属を打ち合わせると火花が出るのは事実です。僕も今日初めて知ったんですが、アルミニウムと錆鉄の反応はかなり激しいようですね。間違って鉄鍋の上に落とした釜から火が飛んだので驚きました。不思議なんですよ。女中もおり、本家で食事をする次郎伯父は料理はしない。料理をしていたら鍋に錆を浮かせたりはしない。なのに、ここ数年で広まったアルミニウムの羽釜が離れにある。そして注目してください、羽釜の一部が削り取られている。燃焼実験をするときは、反応を促進するために金属を粉にしたりしますが……」
「テルミット法っていうのよう」
うなだれた武子伯母がぽつりと言った。
「武子さん……!」
「いいじゃないの吉野さん。警察に睨まれたらどのみちもう終わりじゃあない! ……石谷先生がね、教えてくれたの。元は冶金法なんだって。次郎兄さんを紙が散らばった部屋に置いて、足元に獣脂の大きな蝋燭を立てるの。猪の脂で手作りした蝋燭の下の方に、アルミニウム粉と鉄粉を混ぜたものを詰めておくの。火だけ着けておけば、何時間もかけてゆっくり燃えていって、そのうち金属粉に引火して爆発する。あとは、花火玉でも転がしておけば時間差で爆発を起こせるんだって。先生がね、シャーロック・ホームズがお好きで、探偵の出るお話を書きたいからって、そんなおかしな実験ばかり考えてたのよ」
思い返せば、離れで爆発が起こった時、胸をつく獣臭がしていた。蝋燭ごとはじけてしまえば証拠も残らない。
「動機を、伺ってよろしいか。隠さずに申してください。罪が軽くなります」
正座を崩してうずくまる武子伯母を、巡査が見下ろすさまは哀れを誘う。そう動機だ。これが殺人だと気づけても、僕にはなぜ殺したかがわからなかった。
「次郎兄さんが、石谷先生を殺したからよ」
「……調書では、石谷医師は女と通じていたと噂があったが、貴殿のことか?」
「空嘘です。真っ赤な嘘。先生に情婦などおりません。先生は良い方でした。科学的で、迷信を恐れず、閉鎖的な村の啓蒙に目覚めていた。夜這いから逃げてきた女を全力で守ったこともあった。不幸は、それが良しとされないこの村に来てしまったこと、見目をあまりに頓着してしまっていたこと」
全身に諦念を浮かべて、吉野が話を引き取った。
曰く、医者は橘家の離れに暮らし、一家とは非常に友好的な関係だったという。若者からの人気も高かった。娘たちの初恋だった。一方で、都会を語り、麗しの未来に心躍らせる姿は、焚きつけられた若者が村から離れる原因だと、年配者の目の敵であった。職業柄もあって、憧れと悪意を一身に浴び、失言も失敗も許されない立場だったらしい。
この村で老いることが恐ろしくなったと、唐突に『紅を譲ってくれ』と吉野に懇願した。人の目に過敏になり、何度も何度も鏡を見て髪をとかす。着心地に影響するほどのりの利いたシャツを着る。肥えたくないと飯を抜く。
「美醜を過度に気にする、気の病でしょうか。女の病と誤解されがちですが、老醜は男女隔てないものです」
きいの一言。
田舎の豪農に生まれ、村を出る選択肢がなかった次郎伯父は、都会に憧れていた。だから医者にも憧れていた。東京の新橋で芸者をしていた吉野を連れ合いにして、外国の車、洋酒を楽しみ、高価な仕立てのチョッキと葉巻を揃えても、垢抜けた医者のようにはなれなかった。妬みはあったようだ。
帝都から買われるようにして次郎の妻の座に収まった吉野にとって、医者は話の合う数少ない相手だったし、武子伯母も、当主の往診に応え、輝かしい世界や執筆予定の物語について聞かせてくれる医者は心のよりどころだった。医者が徐々に胡乱になっていっても、二人は甲斐甲斐しく世話を焼いたそうだ。松も、とうの経った娘をなんとか医者に娶らせてやれないかとあぐねていたという。
そんなところに、弱り切った医者が、『村を離れて横浜の病院に勤める』という話を切り出した。吉野と武子伯母は悲しみ、松も渋面だったが、賛成した。容赦できなかったのは次郎伯父だった。
「主人は、人のものを欲しがる人間でした。私も別の方に情けをかけられていたところを、何年ぶりかに東京へやってきた次郎に見初められ、押し負けた形で結婚しました。その後の主人は、潮が引いたように私への興味をなくしてしまいましたが……。この村から自由に出ていける石谷先生を羨んで悪戯をしたのです。鏡を持って、追い回したのです。可哀想な先生は、鏡に映るやつれた自分を見て肝を潰し、なりふり構わず逃げて、屋根にまで上って……手を滑らせて落ちてしまいました。狗患いだということにして、亡骸を熊罠で挟ませて傷を作りました。狂犬病は方便も方便ですわ」
橘家にとって、犬のせいにするのは気が楽だっただろうか。医者の病は癒されぬまま、犬殺しの末の狗患いだという汚名を負わされた。
「主人も人の命をむなしくしまってからは、生来の遊び好きがますます派手になり、家業も手伝わなくなりました。そのうち、成り代わるように、石谷先生の遺品を私物として扱って酒に溺れ……先生が取り憑いたみたいに鏡を見るようになって村からの評価は急墜し……、ええ。これはもういけないなと。きいさんや、先生にお願いすれば主人にも病名がついたかしら? それで、お義母様と医者を殺された恨みに燃えていた武子さんと協力して、家を守ることにしたのですよ。男がいなければ、当主の優乃介の死後、お義母様か武子さんが女戸主になれるから。寝込みを狙って殺して、あとは武子さんのいう通りです」
「アハハ! なるほど、優乃介伯父はもう長くないのですね。良かった!」
湿度ある供述を僕が哄笑で終わらせたので、衆目が一気に僕へ集まる。
殺人事件に巻き込まれてしまったが、僕はここに来た目的を忘れてはいない。




