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狗患い  作者: 青沼がざみ
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石谷先生

「ええ、お医者先生のことを」


 きいと揃ってにこにこ微笑む。身を固くした武子伯母だったが、僕らに敵意がないことを悟ると、取り繕うように笑う。


「ええ、前にね、お医者様に離れを貸してたのよう。あの時は兄が……優乃介兄さんの病状もさほど悪くなくてね。診察してくれるのは有難かったわぁ。この鏡もね、お医者様の持ち物だったの。形見になっちゃった」


「おまわりさんに聞きましたわ。近代的な人だったとか。素敵ですのね、憧れてしまいますわ」


「そう、そうなの。若い娘は皆石谷さんにお熱だったのよ! 色の白いしゅっとした方でね、駅のことをステーションなんて横文字で呼んで、洋装が素敵でねえ!」


「こんなに沢山の本と大きな鏡をお持ちですもの、それは賢くて垢抜けた方でしたでしょう。きっとその場にいたらあたし、賛美者になってしまいます」


「そうそう、わたしも賛美者よう。あっさりと上品でねえ、次郎兄とは違うのよう。あの人も相当石谷さんにインスピレーションを受けて、色々真似してるけれど似合わないのよねえ。筋金入りの洒落者。病気になって床についても全身鏡で姿を映して何度も髪型を整えていたわあ。わたしが看病してたんだけど、こだわりが強くて、震えながらお水を飲むときも、舶来の玻璃の盃で飲むのよお」


 僕は医者の病や狗患いについて、よっぽど聞きたかったのだけれど、きいに無言で止められる。彼女は人の心に寄り添うのが職業的に上手い。


 武子伯母はひとしきり医者への思い出語りをぶってから、くしゃみを一つした。湯冷めしてしまったらしい。折を見計らって、僕はセエラア服のポケットにしまっていた万年筆を取り出して、巡査の忘れ物が見つかったことを彼女に知らせた後、きいを誘って村人に聞き込みをした。




 夕餉は小座敷で、きいと二人で膳をいただいた。吉野と武子伯母は次郎伯父が安置された部屋で線香番である。無言で箸を動かし終わり、粛々とあてがわれた部屋に戻る。これからは相談の時間だ。


 行燈を二人の枕元に寄せて、並べた布団に潜りこむ。


「「おかしい」」


 声が揃う。おかしな点ばかりだ。


「まず鏡がある」


 医者は一応は狂犬病とされ、病識もあった。それなのに基本はでっち上げられた病である狗患いでもある。


 狂犬病は水を飲めず、光を恐れる症状がある。しかし医者は病に伏しても鏡を部屋に置いている。鏡で身だしなみを整えることができる程度には明るい部屋の中で病床に伏している。巡査伝えでは鏡を恐がっていたというが矛盾が生じていた。


「狂犬病じゃないんじゃないかな」


「詐病?」


「別の病気か、じゃなきゃ病気っていうのはないんだ。狗患いだ。狂犬病ということにされたんだ。本当に狂犬病で人、それも医者が死んだなら、村ぐるみで犬を警戒するだろ。だのに、狆みたいなお座敷犬ならともかく、野良犬がほっつき歩いているのに誰も気にしていない。こんな田舎じゃ全員が抗体を接種できない。咬まれても対処できない人も多いのに」


「でも、狂犬病に似た病なんてなくってよ。子供でもわかるような病気よ。犬に咬まれて、暗いところを好んで、水を恐がって」


「でも実際、医者は震えながらも水を飲めはしたんだ。狂犬病ってもっと激烈な病だよ」


 狂犬病は誰もが知る病だ。犬に噛まれるとかかる。早くて半月、遅くて一年後に発症して傷口が腫れ上がり体が痙攣する。水を恐れ、気が狂い、死ぬ。


 東京でも流行しているので放浪犬には近づかず、犬は放し飼いにしてはならない。無届犬は駆除される。

医者の提唱した山狩りは有効な対処法だ。今年は特に狂犬病が流行していて、狂える犬が国全体で何千匹も罠にかかっているそうだ。偉大なるパストール博士が抗体を作り、近年は減毒の日本で作られた予防薬もあるが死病には違いない。


「医者は結局何の病なんだろうね? とりあえず、離れにあった釜で、遠隔で火を起こすからくりはなんとかなるよね。でも、武子伯母も吉野も、動機はあるのかしら。父の妾みたいなヒスった女じゃないから計画殺人だろ?」


「時さん、ヒスるってなあに」


「ヒスるっていうのはキリキリしてヒステリーを起こす人のこと。女学生の使う言葉だよ。恥ずかしいな、僕は母さんっ子だから口調がうつってるんだ」


「女学生が使う言葉なの? いいわねあたしもこれから心のディクショナリーにしまっておくわ」


 ヒステリー。


 ふと、連想が働いた。


「お医者は狂犬病じゃなくてさ、例えば、僕の妹みたいに気の病とか? 何かの気の変調を狂犬病だと勘違いされて、狗患いだと村人が誤認したっていうのはどうだろう」


 医者でもない村人や警察に誤診され、犬狩りをした事実から医者は犬の祟りにあった、狂犬病だ狗患いだと騒がれることになった。頭痛も気鬱で耐えられなくなることはあるし悩みが長じて寝込んでしまうというのもよく聞く悲劇だ。


 きいが解いた髪をいじくり回しながら独り言を打つ。


「似ている病……。狂犬病でしょう? 症状は呼吸亢進、発熱、麻痺、医者は痩せていたというから食欲不振の線もあるわね、狂騒症状、ノイローゼなら床につくというか家にひきこもることにはなるけれど……断定できないわ。失感情症、失体感症、飯を食いたいが食えないという乾きの病……」


「病気にお詳しいのね。流石はお医者の娘だこと」


 唐突に、大人の女の色気ある声と共に部屋の障子が開いた。


 いつのまにか吉野と、武子伯母と、下女と丁稚の少年、それから老婆の松までが、部屋の前に勢揃いしていた。いったいいつから。どこまで聞かれた。推理に夢中で廊下を踏む足音を失念していたのか、それとも挙動を不審がられて床下にでも潜まれたのか。



 急いで立ち上がるももう遅い。非力な少年と目の弱い少女はあっという間に捕まってしまった。

 

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