第5話 『可哀想な令嬢と、もう少しだけ可哀想な令息』
クララ嬢が学園を去ってから、一月ほどが過ぎた頃のことでしたわ。
誰もが、もう彼女の名を口にしなくなっておりました。
空いた席は静かに整えられ、掲示板には新たな行事予定が貼り出され――
季節は何事もなかったかのように、次の章へと移っていきました。
そんなある日、それは届けられたのです。
金箔の封蝋が施された、一通の封筒。
そう、それは――
アレシオ=ヴァルティレイド卿の婚約発表でございました。
お相手は、名門侯爵家のご息女。
母方はかつて王女殿下が降嫁された事もあるお血筋で、学園でも優秀な成績を収め、“将来の公爵夫人”として非の打ちどころのない方――少なくとも、そう評されておりますわね。
先生方も生徒たちも、そして新聞の学園欄までもが、揃いも揃って「当然のこと」と頷いておられました。
わたくし? ええ、もちろん、同じように微笑んでおりましたわよ。
ただ、その瞬間――ふと考えてしまったのです。
もし、彼女がまだここにいたら。
その報せを、どう受け止めたのかしら、と。
アレシオ卿はその後も変わらず丁寧で、誰に対しても平等で、優しさに満ちたお方でございました。
けれど、どこかで“線”を引くようになられたご様子。
人との距離が、ほんの少し、遠くなったように感じましたわ。
……ご自身でも、気づいておられるのでしょうね。
自分の優しさが、ひとりの令嬢を、どこへ追いやったのかを。
クララ嬢の名を口にする者はおりませんでした。
けれど皆、どこかで“思い出さないようにしていた”ように思えましたの。
たとえば、あの静かな朝の講堂で。
たとえば、ふと音が止まった昼食の席で。
……そう、クララ嬢はもう、この場にはおられない。
けれど、完全に“消えた”わけでもなかったのですわ。
さて――このお話を振り返ってみて、誰が“可哀想”だったのかしら。
クララ嬢? もちろんですわ。
誰よりも努力し、誠実で、ただまっすぐに恋をした方。
でも、その想いは報われるには、あまりにも幼すぎて、無知すぎて、そして――哀しすぎた。
けれど、アレシオ卿もまた、やはり“可哀想”だったと、わたくしは思うのです。
誰も傷つけたくなくて、誰も拒めなくて。
優しさが罪になると気づかぬまま、その優しさで人を迷わせてしまった。
“拾ってしまった小さな命”に、最後まで責任を持てなかった――
あの方は、ご自分の持つ残酷な優しさをご存知ではなかったのですから。
学園は、何も変わりません。
今日も、同じ制服をまとった令嬢たちが、同じ課題に取り組み、同じように笑い合っております。
誰かが姿を消しても、誰かが婚約しても、日常は変わらず進むのです。
まるで、何も起こらなかったかのように。
……でも、わたくしは、知っておりますのよ。
この学園の片隅で、
ひとりの令嬢が、静かに恋をして、静かに傷ついて、静かに消えていったことを。
そしてひとりの令息が、それを見送りながら、何も変えられなかったことを。
この話は、“身の程知らずな平民出の令嬢”と、
“流されやすく、ただ優しいだけの公爵家嫡男”の、なんてことのない、行き違いのお話ですの。
どちらも特別ではなくて、
ただ、少し不器用で、少し間が悪かっただけ。
でも、きっと――
どこかに、彼女を本当に拾ってくれる人がいて。
どこかで、あの方もまた、優しさの使い方を学ばれることでしょう。
わたくし?
ええ、わたくしは、少しだけ口が悪くて、少しだけ優しい、なんてことのない女ですのよ。
……誰がいちばん“可哀想”だったのかなんて、きっと誰にも決められませんわ。
それでも、この物語に名をつけるとすれば――
『可哀想な令嬢と、もう少しだけ可哀想な令息』
それが、いちばん、ふさわしいと思いませんこと?
あるべき場所を間違えて、居場所を失ってしまった可哀想そうな令嬢。
もう少ししたら、あるべき場所へ収まるように戻る令息。
――世界は、等価ではございませんのよ。
では、そろそろわたくしも、次の課題に戻りますわね。
このお話は、これにておしまい。
ええ、“そうなりますわよね”――という、お話でございましたのよ。
お読みいただきありがとうございました。