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第4話『そして、誰も手を差し伸べない』





あれは、梅雨の晴れ間の午後のことでございました。


湿った空気が微かに残る食堂の隅、クララ嬢は、やや落ち着かない様子で膝の上の小さな包みを何度も確かめておられましたの。


――その包みの中身を、わたくしは数日前に見かけておりました。


女子寮には、軽食や茶菓子の用意ができる小さな調理室がございます。

普段は寮付きの使用人が言伝ひとつで用意してくださるのですけれど、その日は、見知った背中が調理室の扉口で何やら必死に頭を下げておられました。


クララ嬢、でございましたわ。


「ほんの少しだけで構いません。すぐ終わりますから……あの、前に見たレシピを、試してみたくて……」


その声音は、控えめながらも決して譲らぬ熱を帯びていて、相手の使用人は明らかに困惑しておりましたの。


「お嬢様がお手を煩わせるようなことではありません」と、幾度も申し出を断ろうとしていたようでしたが――


「自分で、作ってみたいんです。どうしても」


そう言い切ったクララ嬢の表情に、小さな決意が滲んでおりました。

最終的には、「私が立ち会うのであれば」と渋々許可を出した使用人の背後で、クララ嬢がそっとエプロンの紐を結ぶ姿が、妙に印象に残ったのを覚えております。


わたくしは声をかけませんでしたわ。

でも、彼女にとって、それがどれほど大切な“手作り”であったか――わかる気がいたしましたの。



数日後の昼下がり。

クララ嬢は、その包みを携えて、噴水の縁に座るアレシオ卿に声をかけられたのです。


「ありがとう。……でも、あまり人前でこういうのをもらうと、きみに良くないかもしれないから」


――たった、それだけ。


拒絶と呼ぶには、あまりに優しく。

受け入れと呼ぶには、あまりに静かで。


けれど確かに、それまでとは異なる空気が漂っておりましたわ。


おそらく――

大事なご嫡男の“芳しくない交際”について、どなたかがヴァルティレイド公爵閣下のお耳に入れたのでしょう。


アレシオ卿は、とてもお優しい方。

ご自身の行動が“家”を傷つけることなど、なさらないお方ですもの。


だからこそ、はっきりと断ることも、優しく包み込むこともできず――

静かに、そっと、距離を取られたのですわ。


そしてクララ嬢は、微笑みながら、小さく頭を下げて、その場を去られました。


……あの背に、アレシオ卿が声をかけることは、ありませんでした。



その日を境に、クララ嬢のまわりの空気は明らかに変わりました。


話しかけられることが減り、目が合っても逸らされるようになって――

やがて誰も、彼女の存在に触れなくなりましたの。


いえ、これはただの“無視”などではございません。


貴族においては、“冷たさ”もまた、ひとつの礼節なのです。


怒鳴らず、責めず、傷つけず――

沈黙という形で、相手に立ち退く余地を与える。


遠ざけるでもなく、拒絶するでもなく、ただ“存在しなかったこと”にする。

それが、同じテーブルを囲む者としての、最低限の“礼儀”ですわ。


……ええ、実に冷たいと思われるでしょうけれど。

けれどこれは、“優しさ”でもあるのですのよ?


わたくしたち貴族は、何より“体面”を重んじます。


もしも自分が噂の渦中に立たされ、人前で何かを言われたら――

わたくしなら、気絶してしまいますわ。冗談ではなく。


どうせ噂は止まりませんもの。

それなら、いっそ“いない者”として扱われた方が、どれほど救いになることか。


……クララ嬢が、それをどうお感じだったかは、わたくしにはわかりかねますけれど。



そして、誰も――ほんとうに誰ひとりとして、手を差し伸べなかったのです。


アレシオ卿でさえも。


「気にしないで。ぼくは、きみに悪い印象なんて持ってないから」


……そうおっしゃったこともございましたわね。


けれど、それは“救い”ではありませんでしたのよ。


誰も傷つけない優しさは、裏を返せば――

誰ひとりとして“救わない”ということでもあるのですもの。



やがて、クララ嬢は授業を欠席される日が増えていきました。


理由は「体調不良」とだけ。


先生方も、それ以上は追及なさいませんでしたわ。

わたくしたちも、黙ってそれを受け入れましたの。


“そっとしておく”という空気が、教室の隅々にまで根を張っていった頃。


誰もが、なんとなく察していたのです。


もう、戻ってはこないのだと。



クララ嬢が最後に目撃されたのは、図書室だったそうです。


窓際の席で、一人静かに座り、本を開くでもなく、指先で紙の縁をなぞっておられた――と。


翌朝、クララ嬢は学園を去られました。


静かに、綺麗に。

まるで最初から、ここにいなかったかのように。


「お体の調子が思わしくないそうで、静養なさるそうよ」


そう呟いた誰かの言葉に、誰も何も返しませんでした。


――きっとそのまま、お辞めになるのでしょうね。


わたくしも、何も申しませんでしたわ。


……ええ、もう、遅すぎたのですもの。



善良で、真っ直ぐで、ただひとつの恋をしただけの令嬢が、一人、去っていきました。


誰も、悪意を持っていたわけではなく。

誰も、直接傷つけたわけでもなかった。


けれど――

誰も、手を差し伸べなかったのです。


これが、王立学園。

“よき淑女”を育てる誇り高き場でありながら――

“誰かが静かに消えていっても、日常は変わらず続いていく”場所でもあるのですわ。



クララ嬢の席が空いたままの教室で、少しだけ風の通りが変わったような気がいたしました。


でも、それを口にする者は、もう誰もおりませんでしたのよ。


――そうして、幕は静かに下ろされたのでございます。

 




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