第2話『あの方は、どうしていつも拾ってしまうのかしら』
あの方が“拾われた”のは、春の終わりでしたわ。
中庭の椿が風に散りはじめた頃。花の香りがまだ残る、風の強い昼下がりのことでしたの。
クララ嬢が、噴水のそばで泣いておられたのです。
と申しましても、声を上げていたわけではございません。
人目をはばかるように背を丸め、制服の袖でそっと顔を拭っておられた――それはもう、誰にも気づかれぬよう、必死に隠している涙でしたわ。
でも、その“気づかれまいとする痛み”を見過ごせないのが――
公爵家の嫡男、アレシオ=ヴァルティレイド卿というお方でして。
「……大丈夫かい?」
ふいにかけられたその声に、クララ嬢はひどく驚いておられました。
慌てて立ち上がり、深く頭を下げた拍子に、抱えていた本を一冊、足元に落とされて。
アレシオ卿はそれを拾い上げ、ふっと微笑まれてこう仰いましたの。
「きみ、本が好きなんだね。……なんだか、うちの弟に似てるなあ」
それは、なんということもない、ただの一言でした。
けれど、クララ嬢にとってはきっと、“初めて自分という存在を肯定された”瞬間だったのでしょうね。
俯いていた瞳に、そっと光が差したように見えましたの。
そこから先は、まるで物語の導入のように、滑らかに始まりました。
図書室での再会、昼食時の会話、本の貸し借り――。
アレシオ卿は変わらず“善意”を向け、クララ嬢はそれを“縁”だと錯覚し始めました。
でも、私はあえて申し上げます。
――それは、“恋”ではございませんのよ。
アレシオ卿は、いつもそうなのです。
飼えない子猫を拾い、名前をつけて、餌を与え、心を込めて可愛がる。
けれどある日、ふいに気づいてしまうのです――「うちでは飼えないんだ」と。
そして、「ごめんね」と涙ぐみながら、そっと手放すのです。
「きみが、いい人に拾われていますように」
そう願うように、優しく、静かに――。
アレシオ卿は、人を傷つけたくないのです。
そのやさしさは本物で、誰に対しても平等で――だからこそ、“誰も選ばない”。
それは、“すべての人を肯定しながら、誰ひとり救わない”という矛盾を生むのです。
クララ嬢がどれほど真剣にその時間を受け取っていたか。
どれほど“自分だけが特別だ”と信じたかったか。
――それを、あの方はきっと、知ってさえおられなかったのでしょう。
やがて噂が立ち始めました。
「ヴァルティレイド卿が平民上がりの令嬢と、密かに逢っておられるそうよ」
「クララ嬢、まさかの逆転婚狙いですって」
「まあ、身の程を知らないにもほどがありますわね」
誰も口には出しませんけれど、目線と距離で語るのが、この学園の流儀です。
クララ嬢の席は少しずつ遠ざけられ、声をかけられる回数が減り、足音の響きに孤独の色が混じるようになっていきました。
それでも、アレシオ卿は――変わらず、微笑んでおられましたわ。
「気にしなくていいよ。ぼくは、きみに悪い印象なんて持ってないから」
……ええ、それが、いちばん残酷なのです。
いっそ、嫌われた方が、楽だったのかもしれません。
拒絶されれば、あきらめる理由にもなりますもの。
けれど、優しくされながら距離を取られることほど、残酷なことはありませんわ。
アレシオ卿は、拾ってしまう。
その場の悲しさに手を差し伸べてしまう。
けれど――その手が、責任を伴うものであることを、あまり意識しておいででない。
わたくしから見れば、あの方は本当に、善良で、優しくて……
――そして、優しすぎて、誰よりも残酷なお方ですのよ。
クララ嬢が、その優しさの意味に気づかれたときには、もう引き返せないほど、深く沈んでおられました。
彼女の涙は、誰にも気づかれぬようにこぼれました。
そして、彼の微笑みもまた――誰ひとり、救わなかったのです。